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2020年12月25日

多余的話(2020年12月)    『竹林の隠者』

井上 邦久

 10月から11月は内憂外患の出来事とオンラインセミナー発信が重なり心身ともに落ち着きませんでした。ただ小春日和が続いたのが大きな救いでした。       
その日も暖かな休日、自宅から2分で繋がる亀岡街道を北北東に針路を取り穂積・郡・福井といった集落を抜けていきました。
旧家と新建材住宅が混在する道が西国街道と交差、賤ケ岳七本槍の一人中川清秀の出生地とされる中河原には案内板と里程標がありました。
清秀嫡男の中川秀成が豊後国の岡潘開祖となったご縁で、茨木市と竹田市は姉妹都市関係が続いております。茨木図書館には「豊後国志」等の資料があり九州の香りを感じています。

中河原からほど近い宿久庄の川端康成が少年期に暮らした旧跡へ向かわず、亀岡街道から安威川に沿って安威集落に向かい、富士正晴が亡くなる1987年まで棲んでいた茨木市安威2丁目8番地4号の竹林を目指しました。
70年安保の直後に紙価を高めた『中国の隠者 乱世と知識人』(岩波新書)で富士正晴を知り、企業社会の軋轢の下で小説『帝国軍隊に於ける学習・序』に学びました。
富士正晴が編集責任者だった関西の同人誌「VIKING」からは久坂葉子、島尾敏雄、庄野潤三、高橋和巳、津本陽らを輩出しており、敗戦間もない頃から今も尚この同人誌は健在です。
司馬遼太郎も新聞記者時代からの富士正晴との交友を多くの文章に残しています。その一節を抜粋します。

漱石ふうにいえば「大将」はなにしろ、外出しない。年に一度ぐらいは近所にタバコを買いにゆくにしても、摂津の茨木の安威という村の竹やぶの中に金仏のように自分を置きすてて、どこへもゆかず、ただ、ひとり酒をのむ。その間、頭の中で宇宙を行脚するらしく、順次同行をもとめるために電話をかけつづけてゆくのである。
             「真如の人―富士正晴を悼む―」 (『竹林の隠者 富士正晴のあしあと』第1集    
「富士正晴と関西の作家」司馬遼太郎 52頁) 

大阪の商人は 北東、丑寅(艮) の方角に当たる千里方面を嫌ったとかで、手つかずの竹林が1970年の万博会場として切り開かれたと聞いています。
北摂の丘陵つたいに茨木の竹林に繋がります。国鉄茨木駅からエキスポロードが結ばれ、吹田市との境にモノレール宇野辺駅があり万博公園に繋がりました。その辺りまでが現在の徒歩か自転車による可動域の南西側境界線です。
桔梗が丘と呼ばれていた裏山は、俗称茨木弁天や笹川良一ワールドとなり、ラジオ体操のあとに裏山の反対側の獣道を下ると茨木カンツリー倶楽部にぶつかります。金網の向こう側のコースで白球を追いかけ右往左往したこともありましたが、今は「ボールに注意」という標識のこちら側を歩いています。

こちら側に自分を置き捨てて富士さんのような精神の可動域を持てたなら「自粛」も要らず、「感染」もしないなあ、と思う歳の暮れです。                         (了)