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2014年1月22日

北京たより 『骨格』 その1   映画『ハンナ・アーレント』に観る「骨格」

井上 邦久

 

[お 断 り]

井上邦久氏の中国からの定期的「上海たより」の転載[「国際」の項に掲載)許可をいただき、3か月余りが経ちます。その間、「たより」に関心を寄せて下さる方々が増えつつあることを伝え聞いています。
当然でしょう。
そこには、概念知ではなく体験知、学生時代からの中国への関心と行動、社会人(商社マン)としての30有余年の体験知、と文武広範な好奇心と見識の統合があるのですから。
ただ、昨年後半から、拠点地を上海から北京に移行されつつあるとのことで、表題が「上海たより」から「北京たより」に変わっています。
今後は、主に「北京たより」、時々「上海たより」になるかもしれませんが、『骨格』は同じです。

ところで、今回の転載については、私個人的に映画に興味があり、教職時代に日本語教育にも首を突っ込んだこともあって、氏の了解を得て、前半・後半の2回に分けて転載し、更にはそれぞれの転載末尾に私感を入れるという無謀をしています。

氏の寛容さにただただ感謝するばかりです。 (井嶋 悠)

 

 

新年の映画は『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)からでした。ユダヤ系ドイツ人のハンナ・アーレント(岩波書店の訳者は、HannahArendtをハンナ・アレントとしています)は、第二次大戦中にドイツを逃れ、ビシー傀儡政府下のフランスのユダヤ人居留区に拘束されながらも、きわどく脱出して米国へ。18年に及ぶパスポートを持たない無国籍者状態を脱して、米国市民権を得たのは1951年。その年に著書『全体主義の起源』が大きな反響を呼んだとされています。同じ年に独立直後の日本の国籍を当然の様に取得した人間とは精神の骨格の違いを感じました。

1960年.アルゼンチンでイスラエル諜報部(モサド)が元ナチス高官のアドルフ・アイヒマンを捕捉、エルサレムに移送して公開裁判が行われ、翌1962年に絞首刑に処されました。当時、日本でも新聞や雑誌で大きく報じられて、小学生にも強い衝撃を与えました。「アイヒマン」という名前の響きには、人間離れした極悪非道のイメージが生まれ、前頭部の禿げ上がった眼鏡顔の一種怪異な容姿とともに印象に残りました。

その裁判にハンナ・アーレントは自ら望んで、雑誌「NEW YORKER」特派員としてアイヒマン裁判を傍聴報告するところから映画は動きます。ニクソンとケネディの品定めの会話が時代背景として流れていました。昨年末、着任国に失望することになった米国大使が、父の暗殺に耐える健気な少女として週刊『マーガレット』や『少女フレンド』を飾ったのは数年先のことでした。

裁判を通じて、自身で見て聴いたアイヒマンの「普通の人」ぶりに驚き、そこから考察した「悪の凡庸さ」→どこにでも居る、何の特異性も無い人間が組織命令を忠実に履行する過程で犯してしまう悪について、率直に報告。併せてナチス統治下にはナチスに協力的なユダヤ人幹部グループが存在し、同胞を追い詰めた事実もまた率直に報告。それらの報告への反響は凄まじく、大学の職場からも追放されかかり、多くの旧友も離れて行く中で、出版自粛を迫るイスラエル政府の脅迫や友人の助言にも屈せず、1963年『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』として世に残されました。

映画の中では、女性の独創性・高潔性が強調されて、男性の通俗的・微温的な側面を鋭く反射していました。

とりわけ学生時代のハンナ・アーレントとスター教授であったハイデガーとの恋愛模様はどこか戯画的でありました。ハイデガーが1933年にフライブルグ大学長に就任し、ナチスに入党したことを、戦後になってハンナ・アーレントが問った時、自らの幼児性を哲学的な言辞で説明するハイデガーは少々情けなかったです。

新年早々の初場所前に、女性監督と名女優による骨格のしっかりした作品とぶつかり稽古をした印象です。

映画○○を作る会として企業連合が支援する安定調和的な日本映画や国際映画賞獲得やハリウッドでの受けを意識し過ぎたアザトイ中国映画を見る回数が減ることと、今は感じています。
同様に良くできた小説や面白すぎる新書からも今年は少し遠ざかるような予感がします。

 

【私感】

田舎(地方都市)に住む私が、都会を羨む一つに「岩波ホール」のような施設があることです。もっとも、在東京の友人に言わせると、整理券を手に入れるにも朝9時から並ばなくてはならないそうで、私が如き怠け者には、結局は無縁なのかもしれませんが。
閑話休題。

骨格の違い。激烈な表現です。氏に一刀両断される人物、例えば「当然のように日本国籍を取得した人間」のような人物に、自身を棚に上げてなんですが、何人も出会って来ましたので、共感しきりです。
ただ、最近、老子・荘子のもののとらえ方に、自然体で実感しつつある私としては、或る懐かしさ?的なものに包まれてのそれでもあるのですが。

今回、氏の文章を読み、なぜか「分析」という言葉、その鮮烈ささえ迫り来る言葉、が「(あらき)」を鋭利な「斧」で一刀両断する心象にも似たものとして、私の脳裏にこびりついています。
甚だしい矛盾を承知しつつも、これも老子・荘子への近づきの影響なのか、とも思ったりしています。

無為自然、和光同塵、万物斉同、無用の用…に魅かれながらも現実の狭間に彷徨い、母性と父性の調和的統合の問い直しが、喫緊に必要ではないか、と中高校のささやかな教師経験から直覚する一人として。
これは、「着任国に失望した大使」の骨格を、彼女が持つ文化と私(たち)が持つ文化の優劣、善悪、好悪、是非等々に陥ることなく考えることが、日本の、日本人の今を考えることに有効なのではないか、と思うことに私の中では重なっています。

ところで、日本で一人の女性を採り上げて映画化するとしたら誰だろう、と考えました。

浅学でのことですが、私の答えは「私たちは『女性』から解放されるのではなく真の『女性』として解放されねばならぬ」と言った、愛と性を「母性主義」の根っ子に置いた『平塚 らいてう((はる))』です。
その出自と学校教育への反発、抵抗、自由への邁進、完遂、森田草平との情死未遂、「若いツバメ」奥村博史との同棲と二人の子ども、また孫、「原始女性は太陽であった。真正の人であった」と謳い上げた『青鞜』の発刊……。

そして、そこに登場する、夏目漱石(森田草平の師)、森鴎外(『青鞜』発刊に集まった一人が鴎外夫人)、高村光太郎(彼の人生に決定的な愛を与えた長沼千恵子は、らいてうの大学一期下で、『青鞜』第1号の表紙を描いた)、『青鞜』を引き継いだ伊藤野枝、孤高の婦人運動研究者高群逸枝……たち、百花繚乱、多士済々の人々。
舞台は、明治末から大正にかけての混乱と不安定な時代。

平塚 らいてうと言う類まれな女性を通して、現代日本の深浅、明治以降の過程と近代化を考えるに、かっこうなイメージが広がるのですが。

氏が言う、「安定調和的な日本映画や国際映画賞獲得やハリウッドでの受けを意識し過ぎたアザトイ中国映画」と同類なのかどうか、私の好きな中国映画についてと併せて、氏にいつか意見を聞けることを楽しみにしています。

ただ、少なくとも「カネ本位政治」からの女性雇用促進を、例えば先ず地方・国家公務員の半分を女性にするといった発想ではなく、民間企業に〝支援“を言って要請する、自分の言葉に酔い、私たちに押し付け、私たちの税金で、震災などなかったように外国廻りを繰り返し大盤ふるまいの首相、内閣、それを支える官僚、学識者、マスコミに、痛撃を与えるようにも思うのですが、どうでしょうか。

首相夫人(ファーストレディ)昭恵さん、いかがでしょうか。