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2014年2月4日

快い生のために「仁」をもう一度考えたい ―韓国・検定日本語教科書映像版制作に携わって日本を考える―

井嶋 悠

昨年(2013年)に首都圏で撮影した韓国の検定日本語教科書の3冊目と4冊目が、先月(2014年1月)韓国で刊行されたのを機に、私見をまとめてみた。

私たちセンターとして、2011年から、韓国の中学校及び高等学校で使用する検定日本語教科書の映像版制作に4回携わった。
【参照:本センターホームページの「活動記録」の[教育事業]の項】
その年次別と、協力学校は以下である。

2011年 中学校[協力校:埼玉県川口市立の中学校]
2012年 高等学校[協力校:東京都内の私立高校]
2013年 高等学校(2種類)[協力校:埼玉県立高校・都内の私立高校]
                         ※それぞれ教科書の完成は、各年翌年の1月前後

【参考】韓国の中高校での日本語学習状況は次の通りで、これは世界1である。
・中学校   第2外国語開講学校数 395校[内、日本語312校]
・高等学校  全校約2000校のほとんどで開講し、受講生徒数は約55万人

高校での日本語授業風景また先生、神戸韓国綜合教育院長等へのインタビューを含めた映像『韓国訪問』(2008年)は、
ホームページの「映像」
に収められています。

日本が、どこの国・地域よりも永い交流史を持つ中国と韓国、その韓国の中学校・高等学校で使用する検定日本語教科書の映像版を日本人として制作することは、途方もない名誉であり、光栄なことである。
ましてや、アニメ文化の影響の大きさが言われてはいるが、
確実に日本語受講者は減少していて、(一方で中国語受講者が増加)、
或る旧知の韓国人に「日本語受講での進学、就職また経済でのメリットはもうない」とまで言わしめ、
「韓流ブーム」に翳りがみえ始め、“嫌韓国”派が私の周りでも確実に増えつつある(これについては、狭小のナショナリスト政治家とマスコミによる意図的偏重報道も少なからず影響しているように思えるが、ここでは触れない)、
その日韓関係の現在にあっては、である。

(尚、個人的に、近々、韓国と中国(香港)の、世代、男女別考慮して現地日本語教員10名前後に対して、[日本語教員を目指した理由]と[日本の何に関心があるか]
との二つの項目で、韓国と中国の仲間の協力を得てアンケート調査をしたく準備を始めている。)

私たちに依頼があった根本は、本センター20年の歴史で培われた親愛と信頼以外何ものでもない。
そこには、韓国側に権威を頼ることも、事業利益に腐心する発想もない。
在るのは、1993年の出会いとその後の時間が、創り上げた「有為自然」としての親愛と信頼である。

それは、1993年からの仲間で上記3冊の教科書中心的執筆者(ソウルの高校・韓国人日本語教師)とここ5年ほどの間に出会った数人の30代の映像作家、写真家、デザイナーたちの、異文化を越えての制作(調和)の賜物である。

「仁」の解字にある、人と人の間に通う親しみ、信頼。
その人と人は、並行し交わっていない。間に通い合うものは、言葉で言えば白々しい概念に堕してしまう親愛と信頼の情、心。
底流にある「己の欲せざることを人に施すなかれ」。土足で他者の心に踏み込まない配慮。その自尊と自尊を通わせる静謐な関係へのキーワードは謙譲。謙虚。

親しき仲にも礼儀あり。最高の徳を仁とする孔子は言う。「己に克ち()て礼に(かえ)るを仁と為す」。
「大道廃れて仁義あり」(老子)の視点に共感する私ではあるが、個の生き方、律し方として謙虚さを説く儒教にも共感する私がいる。

その儒教を色濃く残す韓国、日本。また本家中国での文化大革命後の復権。
伝統と革新と人間。古典の古典たる本義。

克己。自身を省み、律する姿勢。「謙譲・謙虚」。
自身をどこかに隠蔽しての己が神とするような他者批判、非難の軽佻浮薄。おぞましさ。尊大。
私もその余りに人間的な?一人ながらこのように言える唯一は、「あった」へと、過去の自身を自然体で恥ずかしく思い始めた私
がいるからで、それが、己れと己が足下への凝視こそ他者との「仁」となる核心ではないか、との思いにつながっている。

そして、今の日本では、謙譲は「嗚呼、勘違い」よろしく後退し、尊大が闊歩しているとしか思えない。
身の丈を知らないがゆえの衰滅さえ直覚する人
がいるにもかかわらず、この闊歩が、日本の安定と隆盛であると大半?の人は明言する。
私には、今もって文明について、近代化について、自照自省のない大言壮語のように思えるのだが……。

私が思う日本の(日本人大人の)尊大を幾つか挙げる。

○「命を犠牲にさせた」との、国内外の兵役者に対する反省、悔悟など微塵もなく、「された」と他人事のように言う首相の靖国神社参拝正当化に視る尊大
○福島原発問題での、相も変らぬ人間絶対観での首相以下「原子力ムラ」の人々と首相が率先する「死の商人」海外行脚に視る尊大。
○無駄予算との指摘を受けたにもかかわらず数百億円復活と国内外での“ばら撒き“に視る尊大
○東京オリンピック施設建設のための外国人労働者の一時的増員を当然とすることに視る尊大
○都心と欧米指向の発想で日本を考えることでの地方の過疎化、高齢化の社会格差に視る尊大
○現代日本大人社会の反映としての学校、との吟味もなく、進められる概念的道徳教育導入に視る尊大
○自殺大国日本に対して、背景の社会変革はそのままに対症療法的で解決できるとすることに視る尊大
等々……。

これらは私の独善なのだろうか。周りを見ればそうとも思えないのだが。

韓国や中国に対して、首相は「私はオープンにしています」と、すべては韓国、中国側に問題と責任があるかのように言うが、門前まで来て中に尊大、驕りを直覚したとき、誰が入るというのだろうか。少なくとも私には、そのような勇気?はない。
「二」は、並行からそれぞれに別方向を目指すだろう。「近くて遠い」の新たな繰り返し。展開。
この首相の発言も尊大そのものではないのか。

日本人の一人として私は、私の不遜を承知しながらも、日本の良き理解者である日本語教師、良き理解者となろうとしている日本語学習者が、自国に対して嫌日本・反日本ではなく、また右翼とか左翼といった分類でもなく(この用語については、定義の再検討が必要な時にあると思っている)、そして支持政党なしの、こんな日本人がいる(結構多いのだが……)ことを知ってもらいたいと思う。
と同時に、そこから韓国や中国の人々との相互理解、相互啓発ができれば、と私たち「日韓・アジア教育文化センター」の過去からも願っている。

《備考》

映像制作では、韓国との、また改めて日本国内での「異文化」を体験した。
そのことについて、いつか私的なまとめを、とも思っているが、幾つかメモ書きで以下に列記する。

【韓国との異文化】
◇準備から制作までの時間の使い方
日本の、早め早めの長期展望からの計画と実行
韓国の、直前からの猪突猛進的計画と実行

   ◇経済差
日本の物価高  それに悲鳴を上げる韓国
例えば、見積額に関して、韓国の希望的予測はおおむね日本提示の半分
韓国の出版社の担当者曰く「その額ですれば我が社はつぶれる」(注:その額は、映像制作業界の平均値)
その時、日本人が改めて実感する[自国の物価高・収入安]

【日本内での異文化】
◇学校現場での、管理職と現場職員の理解、協力への多様な意見或いは乖離
そこから生じる上意下達を避けたいがための協力校探しの難しさ
個人情報に対する公私立の対し方
公立学校の対教育委員会を含め、手続きの緻密さ、丁寧さ、(煩雑さ)
生徒の醸し出す雰囲気の公私立の違い、或いは都心まで電車で20分余りの距離が作り出す格差