ブログ

2014年6月2日

北京たより(2014年5月)  『歳月』

井上 邦久

上海たより(2012年5月)『上海の五月』に、

・・・ベランダの鉢植えの草木も三年目の春を迎え、緑の色を濃くしています。今年も沈丁花は香り、桃は白い花を咲かせました。

三連休の初日の夕方、食材や本を買った帰りに寄った隣の花屋。譚老板(ラオパン=大将)から、もうすぐ母の日だからとカーネーション、それともお前さんの趣味の料理には要るだろうとハーブ、今日はどちらにすると聞かれ、結局両方の小鉢を持たされました。無理に金を出すと水臭いと言われるので、いつものようにシレッと頂戴しました。
昨年3月まで、次男坊誕生で喜ぶ彼の要請で、ご指名の明治乳業製粉ミルクを、日本から何度も運んだことから時間差・物々交換の習慣が定着しました。3月の震災までは、日本製のミルクで育った譚ジュニアは元気に歩き回っています・・・こんなスケッチを綴りました。

歳月が過ぎ、譚さんはますます家業に励み、内省的な長男は高校受験、次男坊は父親ゆずりのドングリ眼で機嫌よく遊んでいます。「我が家は出身が悪いから、子供の教育には、つい熱心になってしまう」と語る譚夫人は、安徽省の旧地主の孫娘です。「父親ほどではないけれど階級差別の辛さを味わった」と餃子の餡を詰めながら坦々と話してくれました。
時々、店の奥で仲の良い一家と手料理をご馳走になっています。

「香港では労働節3連休は有りませんから」という香港店からの連絡で、5月1日に日本からの出張者と合流して監査に立ち会うことになりました。
香港でも当然メーデーは休みであることは承知しながら、香港店に駆けつけて「街は休みじゃない?」とわざと咎めると、「労働節連休は有りませんが、メーデーは有ります」と一国二制度の香港らしい模範回答が準備されていました。

最近、香港では選挙制度の見直しなど北京政府からの圧力に対する反発が強まり、一方では大挙して押し寄せてくる本土からの買い物客やビジネスマンに対応する必要から普通語が地元の広東語を侵食していることを実感します。
普通語(PuTongHua)は、日本では標準語と訳されることが多いのですが、自己流解釈としては、1949年以降に北京政府の公用語(報道、教育などの基準)とされた北方系言語で、北京官話(清朝高官=満大人=マンターレンの使う言葉=ManDaren Chinese)を母体とすると思っています。
1912年以降の中華民国政府の「国語」との違いは、音声表記がローマ字化されている点、漢字表記が簡体字化されている点だけしか知りません。生粋の北京語を聞く機会が減りましたが、聞き取りにくく苦手意識があります。
北京語と普通語の違いは改めて触れる事にして、香港では広東語以外に英語、普通語が幅を利かせ、「国語」や日本語の存在感が減っているお報せに留めます。

2日の夜遅くまでの仕事を終えて、3日の土曜日。日本では憲法記念日にどんな旗を立てているのか、複雑だろうと想像しました。1960年前後の小学生には、素朴に大切に思った記念日でありました。北京への午後便まで、九龍サイドのホテルから潮風の匂いのする方角へ歩きました。階段を上がり降りしながら、海と香港島が見える処まで来ました。
上海の外灘から黄浦江を挟んだ浦東側のビル群に、日本企業の広告を見ることは減りましたが、香港島には依然として「HITACHI」「TOSHIBA」などの大看板があります。1971年に初めて訪れてから、折々に広告の変遷を興味深く見てきました。
1980年代には重電・家電・繊維企業に混じって、大阪北浜のヒサヤ大黒堂の「ち゛」とだけ大書されたネオンサインもありました、春秋の広州交易会往還の折に定点観測しては日本経済の懐の深さに感動していた事を思い出します。

ハーバーサイド風景に誘われて、神戸一郎の歌『銀座九丁目は水の上』が甦り、歌いながら歩きました。
4月末に逝去した1960年前後の青春歌手の冥福を祈りながら『ああ十代の恋よ、さようなら』『リンゴちゃん』などのヒット曲も口ずさみました(と言ってもご存知の方は減っているのでしょうが、吉永小百合主演の『青い山脈』で青山和子とデュエットした主題歌、或いはロッテチューインガムのCM曲を思い出せる方は思い出してください)。昭和歌謡史の青春歌手、アイドル歌手の系譜は、橋・舟木・西郷の御三家(或いは三田明を入れて四天王)から説き起こされることが多いのですが、実はその直前にポマードで髪を固めた元祖アイドルの神戸一郎(確か神戸商科大学卒業?)が存在していたことを忘れてはいけないとかねがね思っています。

香港空港での通過儀礼は二つあります。
同じネクタイ屋で、同じストライプ系のネクタイを何本か買います(今回は季節の端境のせいか70%OFFでした)。
次に出国手続きを済ませた場所に並ぶファストフードの店の一つ『正斗』の名物、ワンタン(「餛飩」とも「雲呑」とも表記)麺の列に並びます。能書きには、「湖南省民間小食―--白肉餛飩加水麺條蛻変而成」とあり、広東省の秀才が科挙試験で上京した帰りに伝え、不断の改良を重ねた。戦後の1946年、百家争鳴して競い合い4大派閥時代もあった由。「かん水の効いた麺は爽滑、柔軟で歯応えが良い(弾牙)、餡は海鮮と豚肉が多重多層、スープは香濃味清」とありますが、何よりも42香港ドルと安くて、待つことなく供されるのが魅力です。他の空港には時間ギリギリに行くのに、香港空港だけには十分な余裕を持って快速電車に乗り、ネクタイと雲呑麺を通じて香港を味わいます。

北京の5月4日は三連休の振替出社日でした。定時退社して、事務所最寄りの地下鉄大望路から二駅天安門寄りの永安里へ移動。外交公寓一帯に友誼商店がまだ残っています。
1978年の対外開放政策の開始後、しばらくは外貨管理が厳しく、二重通貨制度が採られていました。外国人には「兌換券」という外貨でのみで両替できる通貨の使用を義務付けられていました。外国人に開放されたホテル、食堂や航空券購入には「兌換券」支払いが決まりでした。
各地での買い物は、友誼商店での兌換券使用に限られていた時代もあり、カシミヤセーター、絹のハンカチなどの土産を買いに通ったものです。厳重な門とドアとガードマンに仕切られた友諠商店の外には、人民元のみで生活する庶民が羨ましそうに覗き込んでいました。人民元と兌換券の両替を懇請したり、外国人の臨時の友達になって商店に潜り込もうとする光景もありました。
別世界の商品が陳列されていた憧れの友誼商店も今は昔。圧倒的なモノ不足・外国製品信仰の渇望熱気は去り、過剰生産・カネ余りの中「理性消費」という言葉が支持されています。
山下英子さんの『断捨離』の翻訳本が書店に平積みされている中国です。なのでガードマンが昼寝をしている友誼商店を訪れる外国人も中国人も僅かです。外資系大型家具店が敷地の大半を占め、残りの場所で高級芸術品やシルクなどが細々と売られています。
ただ、1階の奥にある超級市場(スーパーマーケット)は穴場です。外交官たちのアパートに隣接していることもあり、新鮮・多品種・安価という、とてもありがたい買出しの場所です。外資系市場では1本10元以上する薔薇が、2元から3元。野菜やレモンも同じような比率で安く,新鮮です。場所柄、チーズやワインは選択肢がとても広くて、「理性消費」が可能な真っ当な売り場です。

パンや野菜を買ってから、花売り場に行くとカーネーションがありました。そうか歳月は巡って、5月11日は「母親節」でした。値段を聞くと大きな束で25元(350円)、値段には文句はないけど、2日後には上海、東京を経て韓国に行く予定なので、勿体無いかな、と貧乏性になりかけましたが、まあいいかと買いました。
翌日、他の店で訊くと、同様の花束で88元とか100元と吹っ掛けてきました。

買い物のあと近くのベトナム料理店でライムを搾ったポー(汁そば)に春巻を奮発支援(?)してから建国門の長安大戯院まで歩きました。会場には同じような花束を持参した人たちが多く居て、こちらのカーネーションの大束も違和感がなくなり、何だか自分まで贔屓の女形の追っかけをしている気分になりました。先月購入済みの『五四全国青年京劇歌唱大会』、各地からの若手が京劇のさわりを演じるのを、うつらうつらしながら聴きました。いつもは180元の席が100元なのも納得。運よく6月27日『伍子胥』の切符を購入できたので、次回は東京からの客人夫婦と気合を入れて聴くつもりです。

カーネーションは社宅で2泊してから、北京事務所の美化に貢献し、一部は「母親節」当日から長期出張する女性職員に渡し、自宅で待つ女児の為に持ち帰って貰いました。
5月10日に会った韓国水原市在住の友人から、韓国では数日前から「母親節」が続いている事を教えて貰いました。ソウルの街の至る処に結ばれた黄色いリボンの束、帰らぬ人を待つ想いが書かれているとの事。

実りある春秋歳月を知ることなく逝ったり、「母親節」も行方不明のままで過ごしている、人災の被害者たちに心からの哀悼の意を表しました。その船名を拙文タイトルとして残します。 

                                 (了)

 

 

 

 

上海たより(2012年5月)『上海の五月』に、

・・・ベランダの鉢植えの草木も三年目の春を迎え、緑の色を濃くしています。今年も沈丁花は香り、桃は白い花を咲かせました。

三連休の初日の夕方、食材や本を買った帰りに寄った隣の花屋。譚老板(ラオパン=大将)から、もうすぐ母の日だからとカーネーション、それともお前さんの趣味の料理には要るだろうとハーブ、今日はどちらにすると聞かれ、結局両方の小鉢を持たされました。無理に金を出すと水臭いと言われるので、いつものようにシレッと頂戴しました。
昨年3月まで、次男坊誕生で喜ぶ彼の要請で、ご指名の明治乳業製粉ミルクを、日本から何度も運んだことから時間差・物々交換の習慣が定着しました。3月の震災までは、日本製のミルクで育った譚ジュニアは元気に歩き回っています・・・こんなスケッチを綴りました。

歳月が過ぎ、譚さんはますます家業に励み、内省的な長男は高校受験、次男坊は父親ゆずりのドングリ眼で機嫌よく遊んでいます。「我が家は出身が悪いから、子供の教育には、つい熱心になってしまう」と語る譚夫人は、安徽省の旧地主の孫娘です。「父親ほどではないけれど階級差別の辛さを味わった」と餃子の餡を詰めながら坦々と話してくれました。
時々、店の奥で仲の良い一家と手料理をご馳走になっています。

「香港では労働節3連休は有りませんから」という香港店からの連絡で、5月1日に日本からの出張者と合流して監査に立ち会うことになりました。
香港でも当然メーデーは休みであることは承知しながら、香港店に駆けつけて「街は休みじゃない?」とわざと咎めると、「労働節連休は有りませんが、メーデーは有ります」と一国二制度の香港らしい模範回答が準備されていました。

最近、香港では選挙制度の見直しなど北京政府からの圧力に対する反発が強まり、一方では大挙して押し寄せてくる本土からの買い物客やビジネスマンに対応する必要から普通語が地元の広東語を侵食していることを実感します。
普通語(PuTongHua)は、日本では標準語と訳されることが多いのですが、自己流解釈としては、1949年以降に北京政府の公用語(報道、教育などの基準)とされた北方系言語で、北京官話(清朝高官=満大人=マンターレンの使う言葉=ManDaren Chinese)を母体とすると思っています。
1912年以降の中華民国政府の「国語」との違いは、音声表記がローマ字化されている点、漢字表記が簡体字化されている点だけしか知りません。生粋の北京語を聞く機会が減りましたが、聞き取りにくく苦手意識があります。
北京語と普通語の違いは改めて触れる事にして、香港では広東語以外に英語、普通語が幅を利かせ、「国語」や日本語の存在感が減っているお報せに留めます。

2日の夜遅くまでの仕事を終えて、3日の土曜日。日本では憲法記念日にどんな旗を立てているのか、複雑だろうと想像しました。1960年前後の小学生には、素朴に大切に思った記念日でありました。北京への午後便まで、九龍サイドのホテルから潮風の匂いのする方角へ歩きました。階段を上がり降りしながら、海と香港島が見える処まで来ました。

上海の外灘から黄浦江を挟んだ浦東側のビル群に、日本企業の広告を見ることは減りましたが、香港島には依然として「HITACHI」「TOSHIBA」などの大看板があります。1971年に初めて訪れてから、折々に広告の変遷を興味深く見てきました。
1980年代には重電・家電・繊維企業に混じって、大阪北浜のヒサヤ大黒堂の「ち゛」とだけ大書されたネオンサインもありました、春秋の広州交易会往還の折に定点観測しては日本経済の懐の深さに感動していた事を思い出します。

ハーバーサイド風景に誘われて、神戸一郎の歌『銀座九丁目は水の上』が甦り、歌いながら歩きました。
4月末に逝去した1960年前後の青春歌手の冥福を祈りながら『ああ十代の恋よ、さようなら』『リンゴちゃん』などのヒット曲も口ずさみました(と言ってもご存知の方は減っているのでしょうが、吉永小百合主演の『青い山脈』で青山和子とデュエットした主題歌、或いはロッテチューインガムのCM曲を思い出せる方は思い出してください)。昭和歌謡史の青春歌手、アイドル歌手の系譜は、橋・舟木・西郷の御三家(或いは三田明を入れて四天王)から説き起こされることが多いのですが、実はその直前にポマードで髪を固めた元祖アイドルの神戸一郎(確か神戸商科大学卒業?)が存在していたことを忘れてはいけないとかねがね思っています。

香港空港での通過儀礼は二つあります。

同じネクタイ屋で、同じストライプ系のネクタイを何本か買います(今回は季節の端境のせいか70%OFFでした)。
次に出国手続きを済ませた場所に並ぶファストフードの店の一つ『正斗』の名物、ワンタン(「餛飩」とも「雲呑」とも表記)麺の列に並びます。能書きには、「湖南省民間小食―--白肉餛飩加水麺條蛻変而成」とあり、広東省の秀才が科挙試験で上京した帰りに伝え、不断の改良を重ねた。戦後の1946年、百家争鳴して競い合い4大派閥時代もあった由。「かん水の効いた麺は爽滑、柔軟で歯応えが良い(弾牙)、餡は海鮮と豚肉が多重多層、スープは香濃味清」とありますが、何よりも42香港ドルと安くて、待つことなく供されるのが魅力です。他の空港には時間ギリギリに行くのに、香港空港だけには十分な余裕を持って快速電車に乗り、ネクタイと雲呑麺を通じて香港を味わいます。

北京の5月4日は三連休の振替出社日でした。定時退社して、事務所最寄りの地下鉄大望路から二駅天安門寄りの永安里へ移動。外交公寓一帯に友誼商店がまだ残っています。

1978年の対外開放政策の開始後、しばらくは外貨管理が厳しく、二重通貨制度が採られていました。外国人には「兌換券」という外貨でのみで両替できる通貨の使用を義務付けられていました。外国人に開放されたホテル、食堂や航空券購入には「兌換券」支払いが決まりでした。

各地での買い物は、友誼商店での兌換券使用に限られていた時代もあり、カシミヤセーター、絹のハンカチなどの土産を買いに通ったものです。厳重な門とドアとガードマンに仕切られた友諠商店の外には、人民元のみで生活する庶民が羨ましそうに覗き込んでいました。人民元と兌換券の両替を懇請したり、外国人の臨時の友達になって商店に潜り込もうとする光景もありました。

別世界の商品が陳列されていた憧れの友誼商店も今は昔。圧倒的なモノ不足・外国製品信仰の渇望熱気は去り、過剰生産・カネ余りの中「理性消費」という言葉が支持されています。

山下英子さんの『断捨離』の翻訳本が書店に平積みされている中国です。なのでガードマンが昼寝をしている友誼商店を訪れる外国人も中国人も僅かです。外資系大型家具店が敷地の大半を占め、残りの場所で高級芸術品やシルクなどが細々と売られています。

ただ、1階の奥にある超級市場(スーパーマーケット)は穴場です。外交官たちのアパートに隣接していることもあり、新鮮・多品種・安価という、とてもありがたい買出しの場所です。外資系市場では1本10元以上する薔薇が、2元から3元。野菜やレモンも同じような比率で安く,新鮮です。場所柄、チーズやワインは選択肢がとても広くて、「理性消費」が可能な真っ当な売り場です。

 

パンや野菜を買ってから、花売り場に行くとカーネーションがありました。そうか

歳月は巡って、5月11日は「母親節」でした。値段を聞くと大きな束で25元(350円)、値段には文句はないけど、2日後には上海、東京を経て韓国に行く予定なので、勿体無いかな、と貧乏性になりかけましたが、まあいいかと買いました。

翌日、他の店で訊くと、同様の花束で88元とか100元と吹っ掛けてきました。

買い物のあと近くのベトナム料理店でライムを搾ったポー(汁そば)に春巻を奮発支援(?)してから建国門の長安大戯院まで歩きました。会場には同じような花束を持参した人たちが多く居て、こちらのカーネーションの大束も違和感がなくなり、何だか自分まで贔屓の女形の追っかけをしている気分になりました。先月購入済みの『五四全国青年京劇歌唱大会』、各地からの若手が京劇のさわりを演じるのを、うつらうつらしながら聴きました。いつもは180元の席が100元なのも納得。運よく6月27日『伍子胥』の切符を購入できたので、次回は東京からの客人夫婦と気合を入れて聴くつもりです。

 

カーネーションは社宅で2泊してから、北京事務所の美化に貢献し、一部は「母親節」当日から長期出張する女性職員に渡し、自宅で待つ女児の為に持ち帰って貰いました。

5月10日に会った韓国水原市在住の友人から、韓国では数日前から「母親節」が続いている事を教えて貰いました。ソウルの街の至る処に結ばれた黄色いリボンの束、帰らぬ人を待つ想いが書かれているとの事。

実りある春秋歳月を知ることなく逝ったり、「母親節」も行方不明のままで過ごしている、人災の被害者たちに心からの哀悼の意を表しました。その船名を拙文タイトルとして残します。 

(了)