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2014年6月24日

北京たより(2014年6月)  『御縁』

井上 邦久

4月の句会に北京から届けた三句。そのうちの一つ、

この猫も十五の春に背伸びする

 という一寸ふざけた拙句を、複数の同人に拾って貰えたので喜びました。

十五の春に50名の枠を目指して、全国からの若駒が六甲山麓に集まりました。
住吉旅館で三重県からやってきたT君と遭遇しました。試験そっちのけで語ってくれる古典音楽や万葉集の内容に、かなり背伸びしてついて行くのがやっとでした。
「こんな学校、合格しても入らない」と精一杯背伸びした言葉も異口同音に発しました。結果は二人とも二次試験で不合格、それぞれ地元の公立高校に進みました。
三重ノ海(元理事長)が新入幕を果たした春でした。

旅館での二泊三日の御縁が続いています。5年前の6月に中国への赴任にあたって壮行のたよりを送ってくれました。その一文にあった「空とぶ遣唐使」という言葉に触発されて、これまた背伸びをした句を作りました。

空を飛ぶ遣唐使われクールビズ

昨年の端午節休暇には、家族で上海に来てくれて楓涇水郷で粽を食べ、天山茶城で苦丁茶を選びました。フルマラソンランナーのT君は、和平ホテルから早朝の北四川路を魯迅公園まで軽く一走り、夜は上海料理を黄酒で愉しんでカロリーの過剰補給をしていました。
因みに日本での会食では伏見や地元の清酒を好み、灘のほろ苦い酒も共に嗜みますが、上海料理にはやはり上海楓涇産の老酒(『石庫門』黒ラベル)を勧めました。

「町医者になる」という言葉を残して東京の大学病院を去り、故郷の診療医療のために長年黙々と尽力したT君も、この春にようやく地域の会長職を後進に譲れたとの静かな喜びの連絡が届きました。

楪(ゆずりは)は黙したままで席を去り

一方、潔くない遣唐使は、五カ年計画内容を果たした後も続投中です。席は去らず、席を温めない生活を続けています。5月末に北京を離れ、上海・台北・嘉義・台南を巡り、桃園空港から香港経由で陸路深圳入りしました。

6月2日は端午節三連休の最終日でしたが、今回は日本の暦に従って休まず、
全国各地の主要拠点から結集した主管者が熱心な自主トレを行いました。
会議の後は紅白酒合戦;最近隆盛な紅酒(赤ワイン)派と伝統的な白酒派の合戦。大連や天津などの白組代表が、偽酒の心配のない安価な『二鍋頭』(57度の白酒)で勢いを増し、紅組を凌駕駆逐して快勝しました。
この5年、年に2~3回ペースで開催場所を持ち回り、課題共有の会議、拠点スタッフとの交流、そして訪れた街の風に触れることを目的にしています。
上海たより(2010年8月6日)の冒頭部分より

上海航空FM851便は虹橋空港を離陸して、杭州湾を一跨ぎしたあと、浙江省・福建省の山波の上空を約1時間南下しました。そして福州湾付近で機首を90度左旋回、海上に出て一路、台北松山空港に向かいました。午前便の機内は台湾へ戻る人は少なく、圧倒的に多い大陸からの団体客で満席でした。聞こえてくる会話は、台湾では何を食べるか?僕は小菜、私は台南坦仔麺といった緊張感のないもので、政治的にも職業的にも特別な任務を帯びているとは思えない集団でした。そんな屈託のない雰囲気の中で、この空路を60年余り前に蒋介石を始めとする国民党の幹部が大陸を脱して台湾へ向かったのかと思ったり、眼下の台湾海峡や通過した蒋介石の故郷の浙江省寧波市奉化地区の風景に歴史的な重みを感じる日本人はまさに異邦人でした。

海上を飛ぶこと半時間余り、懐かしの台北陽明山が見えてきました。その中腹に所在する文化学院大学から交換教授制度で来日されていた江樹生教授から閩南語(閩は福建の古名。福建省東南部から広東省、台湾で使われる中国語の一方言。台湾語とも称される、と広辞苑には書いています)を2年間教わりました。華僑の友人と二人だけの不肖の受講生は、熱心な江教授を嘆かせ続けました。その後、江教授は、かつて台湾を占拠していたオランダに残る文献を追って、欧州へ留学されました。餞別代わりに学生にとっては、なけなしの金で買った大和赤膚焼の小皿をお届けしたのが唯一の慰めです。思えばそれが台湾との御縁の始まりでした。

初日の台北では亜東関係協会(台湾側の対日本窓口)での外務官僚の勉強会に特別参加させて貰いました。当日の講師を務められた邦銀支店長の御好意によるものでした。
その夜は、上海・香港以来の御縁が続いている学兄が亜東交流協会(日本側の対台湾窓口)幹部として着任されたので、銀行支店長とともに囲み、台湾にちなむお話を聴かせて頂きました。その中には、1942年5月8日に没した八田與一の命日に、南嘉義の烏山頭ダムで営まれている追悼会に出席された支店長の興味深いお話もありました。

翌日早朝の新幹線で嘉義に向かい、台北日本商会と台日産業技術合作協会の共同主催による活動に参加。耐須集団傘下の食品大手の愛健集団(特定保健食品14種類を開発)、合成樹脂とその収益の社会還元で有名な奇美集団や工業開発研究院などを訪問。夜には台南市長の頼清徳市長が参加された交流懇親会に加えて頂きました。

頼市長は1959年生まれ。医学を専攻されたスマートな方。ごく一部の街の声(タクシーを運転してくれた人たち、水割りの酒を作ってくれた人たち)にも頗る評判が宜しいようでした。民進党の「次の次」を担う全国人気ナンバーワン市長とのことでした。

台北支店のスタッフ全員とのランチミーティングでも、「次」の総統候補とされる蔡女史が「お嬢さま育ち」であることが話題になりました。父親がフォルクスワーゲンの総代理商、大学に通うにも高級外車を運転していたという出自と対照的に、頼市長は2歳で父親を亡くし、台湾大学、成功大学の医学部を卒業した刻苦奮励の評判も聞きました。

台北市長時代の高い評判が見る影もなく、今や支持率が20%を切ろうとしている国民党の馬英九総統の例もあります。頼氏には一寸先が闇の世界で自重自戒しながらも存在感を高めて貰いたいものだと、深夜の坦仔麺(50新台湾ドル)を高校の後輩でもある当社の支店長にご馳走しながら語り合いました。  美味い坦仔麺を求め歩き、かなり遠くで見つけた半露半屋の店からホテルまでのタクシー代(110新台湾ドル)は支店長に払ってもらいました。

亜熱帯の6月に鳳凰花の赤、阿勃勒の黄が咲き競う古都台南での土曜の朝。

支店長とは別の自由行動をさせてもらい、往時に長崎平戸と結んだ貿易港安平古堡(1624年侵攻したオランダ人が建てた熱蘭遮城;Fort Zeelandia。鄭成功も拠点化。倭寇など日本関係資料も多く掲示。英国との戦争に備えた砲台跡やオランダ式漆喰やレンガ建築遺跡も)に行きました。NYのマンハッタン島に柵が設けられた頃に、オランダ東インド会社が安平砂洲に設けた貿易拠点。NYの柵はウォール街に進化しましたが、安平の城は古跡観光地に留まっています。

その記念館の売店にオランダ人総督日誌の中国訳版が置いていました。
大部4分冊、1分冊1,600台湾ドルの本。高い、重い、直ぐには読めないから、この本には出会わなかった事にしようと思い始めた刹那、ふと翻訳者名に眼が留まりました。

訳者江樹生?が江樹生先生!に変わるのは直ぐでした。前の晩、支店長に話した閩南語の先生、その人の名前でした。すぐに訳者前言を読むと、1971年に文化学院から日本へ、阿呆な生徒に呆れてとは書いていなくて良かったですが、直ぐにオランダへ渡り交流史研究を深めたとありました。間違いなく江先生である御縁に驚きました。入場門で事情を話し一度町に出て、現金を引出してから売店に舞い戻り、第1冊だけ分けて貰いました。限定300セットとあるので、分割販売は店としても困ったことでしょうが、個人的な熱心さと大陸富裕層とは違う財布の薄さを理解してくれたのでしょう。

在来線の台南駅。成功大学キャンバスの見えるベンチで列車待ちをしている間、支店長にオランダ人総統日誌を見せて顛末を話していたら、彼は発行者として頼清徳と書かれているのに気付かせてくれました。それが前夜ご挨拶した台南市長であることを二人で確認しました。台南市の文化事業として支援した書籍発行であることを理解し、ますます市長への好感度が上がりました。
お二人の名前が並んでいるのを見て、まさに温故知新の御縁への感慨を深めました。台北に戻った夕方の会合。台湾での生活が長くなった友人(奥さんの実家は民進党支持)とお喋りをしながら台南での思い込みの検証をしました。

6月3日午後、深圳での主管者会議を終えて三々五々それぞれの拠点に戻る仲間(中には残った紅ワインを持った人も)と別れて、独り北京行きのフライトに乗りました。向かい風のせいか1時間遅れて4時間近くの機内で、ひたすら『嘉南大圳之父;八田與一伝』を読み続けました。

嘉義から台南への移動途中、戦前に東洋一と謳われた烏山頭ダムの官舎跡そしてダム建設功労者として今も慕われている八田與一夫妻の墓と作業着姿での半跏思惟風の坐像を参観できました。主催者の参観と昼食を共存させる時間と場所への配慮と選定に感謝しました。

駆け足参観だったので、売店で中身も見ずに伝記だけを買いました。巻頭に「八田與一が台湾に留めた恩徳と功績」と題する李登輝元総統によるいわくつきの文章が載せられていることも知らずにいました。(2002年、慶応大学「三田祭」での講演予定原稿。日本政府からのビザが発給されず、幻の原稿となった文章)

翌日の北京では、語学研修生とその友人のイタリア人留学生らとの会食場所として長安街に近い店を指定。食後、25年前に戦車が実働した長安街を歩きながら往時茫々を実感じました。

あの日から胸の振り子は朱夏を指し

        (了)