ブログ

2015年7月7日

中国たより(2015年7月)   『断捨離活』

井上 邦久

株主総会やそれに伴う会議の日々、そして各種身体検査の日々を何とか終えて、上海へ帰任する6月22日。日本航空のカウンターでの会話。「1時間半後の中国国際航空便に変更して頂けないか?協力してもらえれば1万円を進呈します」「上海での用件もあり残念ながら協力できない。予約超過ということは超満席ですか?」「そうなんです」ということで、早めに搭乗して荷物を置くスペースを確保しました。
乗り込んでくる人たちの多くは、片手に幼児の手、もう一方には何個かの土産物満載の紙袋持参でした。

席の周りには上海語が飛び交い、日本語は皆無でした。
すぐ後ろの席の女児が少し興奮気味に「日本航空のお姉さんは、記念品をくれた。行きの時にももらったのに又もらえて嬉しい。今晩、お祖母さんに、日本で沢山のものを買った話をしよう。あれを買った、これも買った。新しい鞄も買った」と繰り返していました。

上海現地法人の上海人の従業員が「最近、家の子供は上海語が苦手で、普通語が先に出てくるけど、親として善いことか、悪いことか判断に迷います」と話していたことを思い出しました。
後ろの席の女児の語り口も、ちょうどよいスピードの正確な普通語の発音なので、外国人にはとても聴き取りやすかったです。降りる時、「何年生?」と聴いたら、「まだ幼稚園児です」「大きいし、しっかりしているから、9月から小学校?」「そうです。勉強が厳しくなる前の旅行です」「新しいスーツケース一杯に詰め込んだ『日本』を、お祖母さんに話してください」と言うと、少し照れくさそうに「明白了」と素直に応えてくれました。

「爆買い」というあまり上品とは言えない言葉が流行していますが、その資金源についての分析を野村證券(上海)顧問の卓子旋氏が試みています。
卓顧問によると、「官二代」「富二代」に続いて「坼二代」という言葉が生まれた、高級官僚や富裕層の二代目と異なり、都市の再開発にともない、住居の立ち退きや取り壊し(坼)に遭遇した人たちは、親しんだ町や隣人と別れる代わりに一声500万元(20円/元)の補償金を手に入れるとされています。多額の不労所得を手に入れた家族の子弟を「拆二代」と称しています。
それだけ多額の補償をしないと住民が納得しないのか?補償金をまかなっても遥かに超える利益が地域政府や土地開発業者には期待できるのか?そのメカニズムはいつまで持続できるのか?と素朴に思います。
それはともかく、「坼二代」たちが手に入れた巨額の補償金を株式や定期預金で運用すれば、利息収入だけでも、500万元×年利5%=25万元と仮定すると、平均的な従業員年収の2倍近くになります。

15年くらい前に国有企業の民営化や清算が進められた時期に、たまたま管理職として派遣されていた公務員のなかで、機を見るに敏な連中が破格の安値で社宅や工場を「購入」し、私有化、民営化あるいは転売しました。
その連中が「富一代」です。直言居士として人気のある郎咸平教授は「あまり上品でない言葉で喩えれば、雇われていた女中が母屋を乗っ取ったようなものだ」と分かりやすく表現しています。「富二代」にせよ「坼二代」にせよ、もとはと言えば国家の財産を掠めて私物化し、対価は税金でまかなわれたとも言えるので、同根の輩と言えるでしょう(だんだん言葉が上品でなくなりました)。

6月23日、五月晴れ(旧暦5月、梅雨の晴れ間)のなかを出社。机に緑色の袋がありました。端午節祝いの大きな粽が2個、送り主の顧問弁護士の添え書きとともに入っていました。長年節季の届け物を頂いて、季節の変化とともにご厚意を味わっています。顧問弁護士とは文化的交流が中心で、実務面でお世話になることは比較的少なかったのですが、昨年から、合弁会社の清算や債権回収など種々解決に難儀する課題が急速に増えました。中国社会全体からみてもこの傾向は顕著でして、独占禁止法問題・大型債権焦付き事件・三井商船の船舶差押事件なども起こりました。

2014年は、①高度成長の終わりの始まりの年、②弁護士事務所が大活躍した年と総括しています。
弁護士の皆さんとは文化的交流中心の関係に戻りたいのですが、当面は実務面での課題も多く、状況は甘くなさそうです。
その日の昼には、日本から到着されたばかりの化学メーカー社長が来訪され、医薬関連の新たな事業構想を聞かせて貰いました。夕方には、ウルムチで18年前から大型ショッピングモールの運営をされている大阪の繊維系会社の皆さんから色々と教えて貰いました。
ともに大状況の厳しさとは異なる、自らの世界の活路を目指している方々で大いに啓発されました。

6月24日、早朝から北京へ移動して所長業務の引継ぎと社宅の引き払いを始めました。
空気汚染の指標であるPM2.5という用語が初めて新聞に掲載された頃に居を構えました。APEC BLUEという居直りのきつい青空も体験しました。
1989年から足掛け三年ほど駐在した頃の牧歌的な雰囲気から見れば、ずいぶんと近代的な外観の都市になりました。実務以外にも日本語スピーチ大会の協賛をしたり、留学生の活動支援をしたりという経験もしました。

少ない体験ではありますが、今回の北京で感じた発想法やシステムには存外古いスタイルが残ったままのような気もしました。個人的には、休日の愉しみにしていた中江丑吉(兆民の長男。戦前の北京生活者)の足跡探しは、旧城内南東地区に住居跡を特定できたままで他の追体験は積み残しとなったことが心残りです。
元々上海の社宅以外に北京別宅を設けたときに、生活用品は必要最小限に控えてきました。それでも増殖を続ける調理用品や本などを今回思い切って整理しました。その過程で山下英子さんのベストセラー『断捨離』の中国訳本が出てきました。

政治的ストレスが高まった時期に王府井書店の日本コーナーが大幅に減らされ、人気の村上春樹作品も語学コーナーに押しやられたことがあります。
元々、東京や大阪の書店の中国・韓国コーナーには「嫌」「反」とかの文字が目立つのと対照的に、中国の書店の日本コーナーには、源氏物語から始まる古典から現代小説までの幅広い翻訳本や学術書が並んでいます。芥川賞直木賞作品は逸早く翻訳されて書棚に並びます。「反」や「嫌」で中国を捉えたつもりの日本人と、「源氏物語」や「村上春樹」で日本を知ろうとする中国人との姿勢の違いを憂慮してきました。その豊富な日本関連書籍が店頭から激減した時期に、一階の最も目立つ場所に平積みされた『断捨離』翻訳本に驚き、衝動買いしました。冷静になってから、中国で『断捨離』が売れる時代が到来したことに改めて驚きました。

『断捨離』を購入した当時、中国では非理性的な生産過剰が修正される前に、理性的な消費が始まったのではないか?という仮説を立てました。
それから3年、その仮説も含めた様々な理由で中国経済は減速から停滞の道を辿っています。
腐敗とインフレという蒋介石の国民党の失政を、共産党は再発させてはならないというトラウマが存在するのではないか?と思われるくらいの腐敗撲滅運動と保守的な経済運営が続くと思われます。1949年、国民党は大陸から「断捨離」されました。今は、共産党が国民から「断捨離」されないために懸命です。

しかし国家の動向とは関係なく、すでに大陸から離れることを決断できた人たちは「留学」「移民」といった形で故国を捨てることを選択しています。
もしかすると、現在は「爆買い」と揶揄されている人たちの中には、海外旅行を通じて将来の「子弟留学」「一家移民」の下見聞をしているという深読みは穿ち過ぎでしょうか。意識表現するかしないは別にして、現世での最大限の幸福をしっかり追求する、この一点は確かだと思います。しっかりした幼稚園児は二十年後、日本のどこかに根を下ろしているかも知れません。

そんな究極の「断捨離」とは異なるスケールの小さい北京脱出の朝、古い友人から「それでも少しの郷愁はあるでしょう」「引越は新たなスタート」というメールが届きました。
そして「断捨離」とは玉葱の皮を剝がしていくだけのことではなく、「断捨離」を通じて活性化することが本来の目的であると思い至りました。生活の場を潔く整理し、仕事から解脱しながら再生し活性化すること、「断捨離活」が大切だと思い至りました。

「北京から鞄一個の夏転居」                   (了)