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2015年8月10日

中国たより(2015年8月)  『暑假日記』

井上 邦久

猛烈に暑い日々、小難しい文章を読んで頂くのも、綴るのも回避したい本音を優先して、小学生のように何日分かの「夏休み日記」をお届けすることで楽をさせて頂きます。

中国語では、夏休みは「暑假」と表現すると随分以前に書きました。中国では「閑」という言葉は良く見かけますが(休閑=カジュアル。閑人免進=立入禁止)、「暇」は見かけません。この場合の「假」はJiaの4声で開放的に発音し、仮とか真実でないと言う場合の「假」は陰に篭った3声です(假幣=ニセ貨幣、假薬=ニセ薬、假的日本料理など色々あります)。

7月11日(晴);
入社したばかりの頃に巡り逢えた上司、とてもお世話になった安田課長を「偲ぶ会」に47名が集いました。4名の幹事役による猛烈に気合の入った準備のお蔭で、会場設営から会の進行まで淀みなく、追想録も充実。日本橋生まれ、小伝馬町育ちの安田さんに相応しい小林清親の朝顔の図を表紙にした追想録には、多くの仲間の文章が盛り込まれていました。
零歳児保育の壁を理解して頂き、急な欠勤を大らかに容認して貰ったこと、小林秀雄の本や六大学野球の面白さを教わったことを綴りました。受付の手伝いをして追想録を手渡したりしました。大声でワシがワシがと熱弁を奮うワシ族とは異なり、安田さんは良い意味での口下手で、爪を顕示しないタカ族でした。多くの参加者が40年前に接した安田さんの姿勢を大切に思っている、そのことを再認識させられた心温まる会でした。

7月16日(台風前夜);
「明日は飛ばないよ。その切子の猪口でもっと飲みましょう」と20年ぶりの方との席で言われました。鉱業会社の要職を勇退されてから、同級生仲間とのハワイアンバンドで活躍。誰でも知っている会場と出演日を教えて貰いました。再会記念に頂戴した切子硝子は奥さんの作品。ご夫婦揃ってのセカンドライフ技に啓発を受けました。

7月17日(台風直撃);
駄目でもともとの気分で羽田空港へ。台風が倉敷あたりに上陸した時分に「羽田への折り返しか、福岡空港への緊急回避の条件で飛びます」とのアナウンスがありました。臆することなく搭乗し、読みどおり無事に目的地の北九州空港に到着。
座り心地の良い椅子のようだった伯父の七回忌が過ぎ、此の度は伯母の49日法要と納骨法要。予想外に早く到着したので、諦めかかっていた田川市石炭・歴史博物館に直行し、筑豊炭田の多くの史料と山本作兵衛コレクションを通じて、地の底に生きてきた人たちのことを想像しました。ユネスコ世界記憶遺産に登録された頃にも放映された、炭鉱の暮らしを描いた作兵衛さんの絵にインパクトがありました。
しかし今回は絵の周りにぎっしり書かれた文章を丁寧に読んで、これこそが実体験に基づく記憶遺産だと感動しました。

7月17日(台風一過);
夕方に中津入り。祇園祭を前に鐘太鼓の稽古の音が、町内ごとにフーガのように流れる古い城下町。
父方の菩提寺の合元寺(黒田官兵衛父子に侵略謀殺された宇都宮氏ゆかりの赤壁の寺)にて、ご住職夫妻にご母堂逝去のお悔やみ「私が子供の頃からオバアサンでしたから大往生でしたね」という本音は不謹慎だったと反省。
鐘の音、寺での語らいに触発されたのか、小さく近くなったように見える寺町、福沢通り、古博多町、京町そして南部小学校へと彷徨いました。生家のあった辺りは、隣家の幼馴染が家業を隆盛にして建てた豪邸になっています。
隣家の兄弟姉妹たちとは、普段は何のわだかまりもなく遊んでいましたが、家に行った時に見つけた軍服写真を金日成将軍だと教えてもらい、三日に及ぶ葬式の鐘や泣き声を聴いて、民族風習の違いを子供ながらに知りました。

7月18日(晴・猛暑襲来);
朝から宇佐へ。伯母の実家の寺で四十九日法要。中津の海沿いの禅寺へ移動して納骨法要。ともに旧知の立派な住職が立派に先導してくれました。ふと自分の故郷はお寺の皆さんだけが繋ぎ留めてくれている、ということに気付かされました。
小学四年の三学期、ある日突然(夜逃げとは本来そういうものですが)馴染んだ世界がなくなり、その後も実に長い時間と距離を置くことになりました。仮に家業が健在であったなら、井上茶舗・春芳園主人として、大阪も東京も知らず、まして上海や北京は無縁の街だったでしょう。隣の従弟が呆れるほど刺身や鱧(ハモ)を食べました。故郷の味でした。

「父祖の地に骨を納めて鱧を喰う」最近のメール句会で何人かの方に拾って頂きました。

7月20日(晴);
早朝、京都からの新幹線、名古屋からは名鉄特急で中部国際空港へ。
天津行きの直行便は順調。空港まで地下鉄が繋がり、途中一回乗り換えで事務所の最寄り駅まで、傘なしで行けるようになりました。
地下鉄駅からオフィスビルや日航ホテルへの通路の雰囲気が何故か暗い理由を駐在員から教わりました。大型デパートが閉店となり、周辺のレストランなども連鎖して転居する人出減少の悪循環の由。
中国各地でデパートや商業ビルが大苦戦と伝えられていますが、どんよりした消費後退と、はっきりしたネット通販の伸張が背景にあるのでしょう。今後は官民一体となっての都市再開発、商業ビルの乱立、それに伴う立退き料の高騰にも変調が起きるかも知れません。

7月23日(雨);
上海では驟雨が続いていました。花屋の譚さんから晩飯を一緒にしようよと誘われました。美味しい上海庶民料理の店かなと思いきや、讃岐うどんが評判の『田屋』を予約したとのこと、聞けば『田屋』のオーナーに長年可愛がられて、色々と助言を貰う関係。門松の初発注者もそのオーナーであり、こちらは二番手だったことを知りました。
折り入っての話はいつもの長男の針路のこと。留学先はどうしても日本にしたいと息子が言う、花好きで勉強嫌いだった息子が家の近くの日本語学校に通い始めたとのこと。東京・大阪・福岡の何処が良いと思うか?と問われても、野球チームの好みで決めるような問題ではないので困りましたが、先ずは上海で日本語の基礎をしっかり作るようにと助言し、翌日には、大連理工大学の蔡教授編纂の日本語教科書を届けました。息子の針路話の次は、花屋経営の将来についての話でしたが、いつもとは趣が違いました。
譚さんは、日本人酔客相手の夜の花束商売は終わったことも、倹約奨励・腐敗撲滅政策で大宴会場や開業式などの需要も当面戻らないことも承知していました。
個人客を待つやり方(請進来)では、少々店をキレイにしても大きくは伸びないだろう、やはり自ら外に出て安定客を掴みにいくやり方(走出去)が大事ではないか、と常識的なコメントをしたところ、譚さんはニヤリと笑って携帯電話の写真集を見せてくれました。
そこには若い女性に囲まれて、満面の笑みを浮かべている譚さんが写っていました。銀行や工場が福祉活動の一環として生け花(挿花)やフラワーアレンジメントの教室を開き、その講師として出向いているとのこと、もちろん助手や材料は店から帯同。皆が同じエプロン姿なのを発見し、問い詰めたところ、自らデザインした黒地に「小譚花店」の白抜き文字の洒落た品でした。
理性消費時代に対応し、サービスと機能で顧客を開拓する姿勢に共感しました。翌日、息子への日本語教科書のお返しとして、エプロンを笑いながら手渡してくれました。

7月25日(曇りのち雷雨);
瞿麦先生を紹介して欲しいとの邦字紙支局長からの要請を実行すべく、ご自宅に同道。1949年に台湾から大陸へ決死の脱出をしてから、日中国交正常化前後の活躍までのことを中心にした話題からでした。
今回は台湾駐在経験もある支局長が台湾語を交えて闊達な雰囲気を作ってくれたので、色々と新しい知見や深い解釈が増えました。近くの喫茶店に席を移しての茶のみ話も愉しく、ついには男三人ながら別れ辛くなって、晩御飯もご一緒しましょうと車に乗った直後に大雨が降り始め、フロントガラスのワイパーが能力超過となるくらいの豪雨でした。何とか(假的でなく真的)日本料理屋に入ったあとも屋根を打つ雨音と雷声が豪快でありました。会話も豪快で、90歳に近い先生の記憶力の素晴らしさと分析洞察力に若い(?)二人も押され気味の愉しい夜でした。

7月26日(快晴);
プノンペンでの開業式に出席する為、香港経由でカンボジアへ向かうべく早朝に浦東空港に到着。ところが、香港行きの機材が昨夜の雷雨のため、到着遅れとなり規定に基づきパイロットは休息中、午後に飛ぶフライトに乗れればギリギリで香港からプノンペンへの乗り継ぎが可能(かもしれない)とのこと。急遽、夜の直行便に切り替えてもらい、一先ず社宅へ。
お蔭で、高校野球の西東京大会、千葉大会の決勝戦を確認できました。更には、前日支局長から贈呈された『還ってきた台湾人日本兵』(河崎眞澄 文春新書)を猛烈な勢いで読了しました。夜間飛行も遅れに遅れ、プノンペンには午前三時の到着でした。

7月27日(快晴);
China +1 with Chineseという方針の結実の一つである専用ラインの開業式。技術指導の大連グループ、工場運営の上海グループそして日本の顧客が結集して日程が進行しました。
移動車中で聞いた上海企業代表の言葉は切実でありました。この歳になって何故に他国の厳しい条件下で苦労しなければならないのか?人民元高、労働法などの政策加速と民間現場の実態との間にミスマッチがあり、我々は外地に「走出去」せざるを得ない。余裕をもって余生を海外で過ごしている富裕層とは混同しないで欲しい・・・                                   (了)