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2015年10月11日

中国たより (2,015年10月)     『分水嶺』

井上 邦久

諸々の事情、趣向そして偶然と洒落っ気が重なり、横浜に住むことになりました。

9月中旬の社宅物件の下見には、上海駐在から横浜に戻った商社OB、現在は著名なコンサルタント会社に籍を置き、講演や執筆などシニアコンサルタントとして活躍されているM氏が水先案内役をしてくれました。不動産屋の店長は、熱心に物件を品評するM氏と、キッチンと買物環境に注目する当方のどちらが真の借り手なのか?当初は訝しそうにしていました。

M氏とは1980年前後の北京崇文門の新僑飯店(日本企業の多くの駐在員や出張者が利用。溜まり場)で同じ空気を吸った者同士というご縁で親しくなりました。しかも学生時代に国交のない中国を訪れた経験も同じでした。但し1971年に先行した関西組は周恩来首相と面談会食。1972年訪中の関東組のM氏は廖承志氏(早稲田出身で江戸っ子と称された中国人)と面会。学生の分際で一国の宰相や日中友好活動の重鎮である廖承志さんと交流できただけで凄いことなのですが、上海の社宅(満足のいくキッチン付き)に男の手料理を食べに来てくれた時などに、M氏は初訪中が一足遅かったと残念がっていました。

当時は北京や上海への直行便は無く、香港の羅湖から橋を歩いて渡った深圳から入境しました。深圳駅の周りは一面の水田で水牛が活躍していた時代のことです。一緒に橋を渡った20人前後の関西組の一人から、この夏に突然の連絡をもらい驚きました。西安を基地として、日中共同の環境事業(トキ保護活動?)をされてきたとのこと。十代の終わりから連絡が途絶えていた人が、大陸の背中側から肩を叩いてくれた感じがして感慨無量でした。

因みに、1972年初めにニクソン大統領・キッシンジャー国務長官が訪中。同年秋には田中角栄首相・大平外相らが北京・上海を訪ね、国交正常化を果たします。1972年は周首相も多事多用な年であったでしょう。

その田中首相一行が北京から上海へ移動した時のことです。「周さんの専用機に一緒に乗って、じっくり話をしたい」と外交規範や安全上・儀礼上有り得ない要求をした田中首相は、中国側専用機の離陸後、少し白酒召されたか、赤いお顔ですぐに熟睡状態になったとのこと。大平外相はまったく論外の非礼として恐縮しましたが、周首相は「没関係、不要緊(気にしないで)」と笑って、出自と性格が正反対の田中・大平両氏の入れ子細工のような補完関係の妙を語った、とのこと。数年前、尖閣列島問題で緊張が高まった頃に、対日姿勢が過激と言われる新聞「環球時報」に掲載された日本語通訳OBへの取材記事で知りました。

その専用機が上海虹橋空港に到着してからの日本語対応の一人は、司馬遼太郎が『街道をゆく 中国・閩の道』の冒頭で、「呼吸をするように日本語を話す」と表現した瞿麦さんでした。本名は名刺にも毛筆二文字で書かれている朱實先生と思っていました。縁あって朱實先生のご自宅を訪ねるようになってから教えてもらったエピソードがあります。空港から馬陸人民公社へ田中首相一行を案内してから、周首相は一行の見学接待は上海側(張春橋が代表)に委ねて一人距離をおいて歩いていたが、人民公社の人たちに囲まれて大歓迎されていたとのこと。文化大革時代、四人組の跳梁跋扈が続いていた頃のことです。

朱實先生は、大正14年生まれとご自分で仰います。9月30日が誕生日より少し早めでしたが、馴染みの花屋で昨年同様に準備してもらった蘭の鉢植えを持参しました。例年9月恒例の集中講座の際に、同学のS教授から託された台湾で出版されたばかりの書籍(1945年~1949年の台湾学生運動に関する本)を一緒にお届けしました。

目次から頁を選んでご覧になっていた先生は、よく知っている仲間の名前をあげていきました。そして「朱商彝、これは私だ。私の本名だ」と淡々と語られました。瞿麦さんが朱實さんであり、さらに朱商彝さんも同一人物でした。2.28事件のあと粘り強く続けられた台湾学生運動にも、1949年4月6日から国民党による弾圧が暴風のように吹き荒れました。朱先生は決死の脱出行で大陸を目指し、奇しくも誕生日の1949年9月30日に天津上陸、そしてその翌日の10月1日には、北京で中華人民共和国の建国式典が挙行されています。
まさに国民党と共産党の歴史の狭間を行き抜かれた朱先生は実にお元気です。

さて、部屋探しは横浜の中心部の関内地区に絞り込んだこともあり、当日下見に準備された物件は3部屋のみに減っていました。一部屋目(築10年)よく出来た間取りと公園近くの静かな環境に恵まれていました。しかしM氏が周囲に駐車場が多いことを発見、案内板には物件を取り囲むようにマンション建設が予定され、しかも10月1日から工事開始とあったので却下。
二部屋目(築5年)は横浜スタジアムの場外ホームランが飛んできそうな交通至便の場所、しかし高速道路の入口でトラックの往来も多かったこと、長屋風で賑やか過ぎることが敬遠理由となりました。
そして最後の三部屋目(築3年)、不動産屋の巧みな比較戦術に乗せられたかと感じる最良の部屋でした。M氏から「ここは中華街の一角ですよ。前の通りは福建路と書いている。向こうにあるのは中華学校、そしてその先には関帝廟まで見えるよ。やはり井上さんは中国世界から逃げられないのかな?」と笑っていました。

入居日を切りのよい10月1日に決めて、東京本社での期首集会に出席してから、横浜の部屋で待機。午後から東京ガス、家電レンタル会社、カーテンやスーツケースなどの宅急便などが陸続と届きました。荷物を解していたら、近くから銅鑼や鐘の音、獅子舞そしてブラスバンドの軽快な音楽が聞こえてきました。中華人民共和国の国慶節を祝う賑やかなパレードでした。
パレードが通る街のあちこちに貼られたポスターには、10月10日の双十節祝賀の文字が大書され、こちらは辛亥革命から中華民国へ続く建国記念日です。嗚呼、ここは確かに中華街だな、と実感しました。横浜市営バスの最寄りの停留所は、「中華街入口」そして英語では「NEXT STOP IS CHINA TOWN」とアナウンスされます。

2009年からの上海での5カ年計画を完了して総経理職をバトンタッチ。2014年から北京に本拠を移しました。この夏、北京所長の仕事も次世代に委ねました。そして、今後は東京本社(品川)から上海そして北京や各地への目配りと必要に応じた往還をする生活になりそうです。

昨年10月、誕生月の人間ドッグ検査でマークされた項目に対して、従来とは異なる熱心さで対症管理や体質改善に努めてきました。ちょうど一年が経過して、第二段階の減量目標を達成し、血糖値など生活習慣病も正常閾値に近づいてきました。その対応過程で眼科、歯科、麻酔科なども含めて、諸々の悪玉を退治してきました。

公私の領域で「断捨離活」を意識した一年でした。自らが選んだだけでは無いと思うのですが、ちょうど一つの分水嶺を通過したような気がしています。

「上海たより」、「北京たより」そして「中国たより」。その時々に生活の中心となった場所に応じた題名にしてきました。じゃあ、これからは「中華街たより」か?と言われそうですが、当面は「中国たより」のままにさせて頂きます。                (了)