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2013年10月14日

上海たより  第2回  『加倍』 ―「倍返し」を中国語では? そして言葉と人と歴史とー

井上 邦久

 

『あまちゃん』最終回、2012年夏の北三陸鉄道再開祝賀シーンに、何度もソ連国旗が出ていたのが印象的でした。その翌日、緊張の会議シーンにカメラマンが写っていたご愛嬌とともに『半沢直樹』も終わりました。

二つのTV番組は中国のDVD店に並んでいます。またDVDを待つまでもなく、放映翌日にインターネットで中国語字幕付きで流されて、熱心な当地のファンの支持を得ているようです。弁護士事務所のパートナー先生も早くから『半沢直樹』を追いかけて居ました。

豊富な日本経験の持ち主で、熱心なタイガースファンでもある先生に教えて頂きたいことがあります。今年の流行語になりそうな「倍返し」を、中国語字幕では「加倍奉還」と表現していることの可否についてです。

東京から逆に上海ドラマを追いかけている後輩社員から、女性同士の諍いシーンでも「加倍奉還」というセリフが出ていたとの報告を貰いました。この中国語訳では、日本語の単純語感から見ると、倍にして(感謝の気持ちを)お返しする、という印象を受けてしまいます。他に適切な言葉がないか色々と調べていますが、「加倍回撃」という訳し方くらいしか思い到らず、自信はありません。

相手の名前を訊ねる時の中国語の用法は、普通には「你是誰?」「你姓什麼?」などがあり、相手を尊敬する丁寧な言い方としては「您貴姓?」を使い、問われた方は「免貴姓○」(○は陳とか汪とかの姓)と応えます。尊敬される程の者ではありませんが(「貴」を「免じる」)○と申します、という謙譲表現を挟むことで滑らかな会話となります。

ところが、ずいぶん昔の中国東北地方を走る夜行列車内で起こった喧嘩の最中、「お前は誰やネン?」とぶつける状況となった時に、この「您貴姓?」が口から出てしまい、周りの爆笑を買って、結果として座が和んで事なきを得た、という失敗(成功?)実例を、今年も大学の集中講座の学生たちに話しました。

ところが、或る中国の人から、喧嘩のような緊張した状況でとびきりの丁寧な「您貴姓?」を使うと、言われた方は却って震えあがって、抜き差しならぬ深みにはまる惧れもあるから注意するに越したことはない、と教えて貰いました。

「加倍奉還」にも、表面的な丁寧さが、まさに凄い脅しを含めた「倍返し」になっているのかも知れないな、とも思い始めています。

いずれにせよ、文化や言葉が異なる相手との喧嘩は難しいので、よく自分と相手を見極めて(見くびらず、少しおだてて、臆せず、毅然として・・・)からにすべきだと思います。喧嘩と口説きと値切りは、日本語も含めたどんな言語でも難しくて、残念な思いを若い頃から続けています。

国慶節式典の行われた10月1日、北京は雨。傘も髪も服も黒一色の男たちが、序列に従って歩む儀式を、上海の地下鉄11号線車内テレビで眺めていました。満員の車内の人たちは、画像には無関心のようで、席を譲ってくれた少女を褒め上げるオバちゃん、訛りの強い言葉で子供を叱る賢母、SONYのヘッドフォーンを当てて自分の世界に没入している学生・・・誰も画像を注視するどころか、無視や軽視という程の意識もない、まさに無関心の状態でした。2号線江蘇路駅で11号線に乗換えて、10番目の南翔で降りる客が多く、その次の馬陸駅では乗降客はまばらでした。残りの多くは次の嘉定新城か上海賽車場(F1レース場)へ向かう乗客でしょう。

立派な馬陸駅の周りには、民家は見当たらず、造成中のマンション広告が目立ちました。馬陸駅に降りてはみたものの、地図もなく、水を買うのも難しい状態でした。

そこへ黒服ネクタイの青年が近寄ってきて、立派なパンフレットとともにマンションと自分の売込みをして、モデルルームに行ってくれ、決める時は自分の携帯電話に是非連絡し欲しいと言いました。

「好、研究研究(OK、考えてみる)」と言って退散し、停車場から直ぐに発車しそうな「馬陸1線」バスに飛び乗りました。初めての町では、先ずバスに乗って終点まで行くのが習慣です。何処まで行っても1元(15円)なので経済的には困難は少ないのですが、時間的には風任せなので少々困難が伴います。

駅の周辺はマンション建設ラッシュ。貰ったパンフレットには、「夢見た家が眼の前に」「NOBLE、WHO SAID DISTANT」と遠隔地とは言わせない掴み言葉が。55平米のワンルームから98平米の3LDKという、上海中心部の半分くらいの面積、頭金20万元からということです。何とか背伸びしてもアキレス腱を切らずに、共稼ぎ夫婦が「研究研究」できる範囲かも知れません。詳しくは不動産屋の趙海亮青年に問合わせて下さい。

10分程して馬陸鎮人民政府の辺りを通過しました。続いて広大な工業区に沢山の自動車部品や電機部品の工場が並ぶ地域を過ぎると、ブドウ畑が現われて終点は観光ブドウ園でした。1980年初の馬陸人民公社に優秀なリーダーが現われた、「巨峰」の栽培を広めながら天候や市場動向に大きく左右されない体質強化の為、研究所・販売チャンネル・観光ブドウ園などを作っていった、そして今では「馬陸ブドウ」はブランドになったと看板に書いていました。

しかし、国慶節休暇の終わる10月8日で閉園ということであれば、30元の入場料を払って入場するまでのことはあるまいと、即売場だけを覗きました。売り子さんたちも閑そうだし、売り場のブドウも少なく侘しい雰囲気でした。「ここにあるだけ、他ではもうブドウは売っていないよ」という不動産屋の青年とは異なる不熱心さが面白くて、味や鮮度は期待せずに10元の包を買いました。(社宅で冷やしたら、期待外れに美味しい巨峰でした)

 

40年以上前、雑誌『中国』という一種の啓蒙雑誌がありました。主筆の竹内好による「中国を知るために」という連載は単行本にもなって、初学者の入門書・指南書として分かりやすく熱心に読みました。その中に、果物の話がありました。

夏から初秋には、たわわに実をつけた柿の木も晩秋には収穫や落果を続けます。それを見て、中国人は「もう、無くなった」と言い、日本人は「まだ、有るではないか」と反論する。数えきれないくらいあった果実が、数えるばかりになった状態を「もう無い」と感じるか、「まだ有る」と考えるか、という一種の文化論でした。

ブドウ園には「もう無い」と判断した日本人は入場せず、「まだ有る」と言う中国人の売り子の言い方が面白くて、竹内好の古い文章を思い出しました。

その竹内好が1972年初めのニクソン訪中の報せに接して、朝日ジャーナルに緊急寄稿した一文の題が、たしか「晴天の霹靂」であったと記憶しています。蒋介石の中華民国政府との関係、ベトナム戦争、ソ連とのバランスから見て、米中関係の良化は無いとしていたが、その有りえないことが起こった、と不明を率直に認める文章だったので印象に残っています。

しかし、不明であったのは直前まで知らされていなかった日本政府も同じであり、それからほどなく反中国・親台湾の佐藤栄作長期政権が退陣し、田中角栄内閣が成立しました。そして、バスに乗り遅れまいとする総資本の後押しで中国を訪問し、戦争状態の終結と国交正常化の交渉を行ったのは、42年前のこの季節でした。

42年前の9月29日の出来事について、9月26日付『環球時報』13頁、周斌氏(元外交部高級通訳。79歳)の手記が掲載されています。北京で「中日共同声明」に調印したあと、周恩来首相の専用機で上海へ移動した機内での田中角栄首相、大平正芳外相の様子。上海虹橋空港到着後に直行した「馬陸人民公社」での周首相と張春橋(上海市革命委員会主任。後に四人組として訴追)の振舞い。上海虹橋空港での別れ際に周首相が「天皇陛下に宜しくお伝えください」と語ったことなどを通訳した体験を記述しています。以下に部分抄訳します。

田中、機上で鼾をかいて爆睡    大平、詩作について(周)総理に教えを請う

「田中角栄 上海訪問19時間の追憶」

1972年9月29日午前10時「日中共同声明」発表。多年の外交関係中断から恢復。

午後1時30分 田中・大平は北京を離れ、3時30分 上海に到着。

翌30日午前10時半 上海を離れて帰国。

田中は自らの専用機をあえて使わず、周のソ連製専用機への同乗を強く希望

 

搭乗10分足らずで、田中は深い眠りに。「機上会談」を要請した田中の外交儀礼を逸した振る舞いに、大平は大いに当惑し、「済みません」を繰り返しながら、揺り起こそうとするも、周は不快感を微塵も見せず、懐の深い態度で大平を感動させた。

 

(中略)上海虹橋空港から錦江飯店に向かう前に、嘉定県馬陸人民公社で立寄り。

周は張春橋が接遇する一行から離れて、公社の工場や田畑にいる群衆の中に入って行った。

涙ながらに訴えてくる女工たちに暖かく接していた周の姿勢を、後に田中は回想録に記述し、中国が強大になっても、日本の脅威とは成り得ず中国は侵略国家ではないとしている(後略)

 

内容の多くは既に知られた事柄ではありますが、今のこの時期に、この記事が『環球時報』に掲載される意味を考えさせられました。併せて、自分自身が1971年2月の上海初訪問の際に案内されたのが、やはりこの馬陸人民公社であったことを思い出しました。

周りの上海人社員たちに、馬陸について聞いても「ああブドウの馬陸ですね」「高速道路や地下鉄ができてから大きく変わっているでしょう」という反応止まりでした。親切な一人が馬陸鎮政府に問い合わせの電話をして、人民公社はもう跡形も無くなりそうであることを確認してくれました。大方は無くなっても、何かが有るのではないかと思って訪ねて来た日本人は、ブドウ園から同じバス、同じ席に座りました。往路とは反対側の景色を眺めながらも人民公社の痕跡は見えませんでした。バスの乗客も42歳以下と思われる人が大半でした。

文革と云う、触れて欲しくない時代のこと、しかもその代表選手であった人民公社のことを訊ねる時には、相手をよく見極めて喧嘩にならないようにすべきですが、今回はその質問ができそうな候補者にも遭遇できませんでした。資料によれば、一時期「馬陸・大阪友好人民公社」という蜜月の存在もあったようですので、大阪府知事か大阪市長に問い合わせましょうか?

 

馬陸駅に戻り、一駅上海寄りの南翔駅から歩いて南翔老街をさっと歩きました。名物の小龍包

発祥の店は大混雑だったので敬遠して、「しまむら」「ユニクロ」「パリ三城」「青山」などが犇めく駅ビルで生煎(小龍包を焼いたモノ。4個で6元)を食べて遅いランチとしました。これも期待以上に、美味しかったです。