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2016年3月22日

中国たより(2016年3月)  『焔の中』

井上 邦久

春節気分が少しだけ残る上海から大阪へ。大阪では二つの会合に出席し、映画『母と暮らせば』を観ました。北京そして天津を巡り、横浜に戻るとずいぶん春めいていました。

上海では正月十五日の元宵節前だったので「新年好!」の挨拶は有効であり、毎晩公私の新年会が続きました。ただ、空気汚染防止が目的とのことで「爆竹花火厳禁」の紅い幕が至る処に張り巡らされ、携帯電話にも規則を守るようにとの通知が届いていたようです。全く静かな春節でした。ある弁護士の「上海人がここまで徹底して通達を守ることにビックリした」というコメントが印象的でした。昨夏まで住んでいた社宅の隣人から新年会によばれ、例年の白酒応酬を覚悟してお邪魔しました。隣人は「山東に里帰りして少し太ったので、今日はテニスで汗を流して来た。今夜は紅酒(赤葡萄酒)にしよう」と理性的な提案でした。
併せて、奥さんとそのお母さんからは桜の頃に日本へ行き、人の少ない処で趣味の写真をたくさん撮りたいから助言を宜しく、との要請もありました。最近は中国の友人から「中国人が居ない静かな日本の町を教えて」という問合せがよくあります。

大阪で長年続いている研究会で、毎年この時期に「中国この一年」という定点観測のようなお話しをさせてもらっています。とても熱心な常連の皆さんから、継続したテーマでの質問を受けたりしますので、報告内容や資料の準備を真面目にしています。
「言うほど悪くない実態経済」、「景気よりも腐敗撲滅」、「解放軍史上で最大の組織改革」「集団指導制から個人『核心』化傾向」などについて、歴史的な考察と直近の動きに基づいた卑見をお伝えしました。

もう一つの会合は、越境電子取引についての報告会でした。喧伝されるわりに実態が分かりにくい「個人購買者による輸入」について実地調査に基づく報告書は労作でありました。最後に質問をして「日本人はルールがあいまいなので躊躇するが、中国人はルールが整備されれば商売の旨みがなくなると考える」「投資促進には繋がらないと思うが、先ず実態を調査した」という本音を聴かせて貰ったことが収穫でした。

北京と天津では監査役監査の前後に複数の金融関係や製造業の皆さん方の貴重な時間を頂いて「辺喫辺談」(食べながらお話しする)が出来ました。上海と同じ話題でも北方では異なる見方があるのを知ることができます。新聞記事に登場する要路の人の友達とか知人である皆さんのコメントはいつも斬新です。「言うほど悪くない実態経済」については裏付けを再確認できました。ただ「言うほど」の「言う」は誰が「言って」いるのか?の検証は大切であります。
北京のある公開の場で「悲観的な報道に偏り過ぎではないか」という苦言に対して、「北京の空気がきれいでは新聞記事にならない。空気が汚い時にこそ読者の関心が高まる」という喩えで答えたと教えてもらいました。(未確認情報ではありますが、実際の喩えはもっと格調の高くないものだったようです)

・・・業種や地域により全く違う姿を見せるのが中国経済の現状だ。その点を踏まえると最も危険なのは、悲観論一色、あるいは楽観論一色で中国ビジネスに望むことだろう。・・・日本企業にとっては、自社で取れるリスクの大きさを見極めながら果実をもぎ取るための戦略と戦術の精度を磨くしかない。(日本経済新聞・上海/小高記者)

今年になって印象に残った記事からの抜粋です。昨年上海に着任されたばかり、清新な印象を与える若手記者の文章です。

春節以降、PM2.5が20~30という清新な空気でしたが、人も車も工場も動き始めて,風向きも変わってきた3月2日の早暁に北京空港に向かいました。空港高速に入ったところで事故渋滞6㎞の表示、タクシー運転手と相談して第二空港高速道路への迂回を選択。距離が伸びて料金加算、時間は短縮、渋滞による空気汚染回避という「三方よし」で間に合いました。席が混んでいないとのことで、隣の空いた最後列窓側に変更して貰いました。
壁を背中にして全体を見渡せる席を選ぶスナイパー『ゴルゴ13』に因んで、勝手に「ゴルゴ13席」と称している席です。さいとうたかを(斎藤隆夫)が1968年から80歳の今も『ゴルゴ13』の連載を継続している小学館の「ビッグコミック」誌には、『沈黙の艦隊』の作者かわぐちかいじの新作『空母いぶき』が連載されています。単行本化された第1巻第2巻はともに第4刷と書かれています。現在進行形の中国解放軍の再編、陸軍主体からの転換などの動きを背景にした想定を実にリアルに追っています。

後ろに誰も居ない席で,吉行淳之介『焔の中』をほぼ40数年ぶりに読みました。小学館からP+D BOOKSシリーズとして刊行されたもので、絶版名作が安価で手に入ります。ペーパーバックとデジタル電子書籍が同価格。『焔の中』は450円でした。
「どうもみんな狂ってきたようだ、と呟きながら僕は部屋に戻り、久しく会わぬ友人たちの顔を思い浮かべた。その友人たちは、学徒の徴兵延期が廃止になったため入営してしまったり、あるいは入営延期が認められる理科系大学へ進んで地方の都市に移住したりして、僕の身辺には一人もいなくなってしまった。僕自身も、入営を指示する赤色の令状が明日舞いこむかもしれぬ状況に置かれていた。(77頁)」

1945年春、吉行は文系の東大英文科在籍中であり、理科系に転籍していった中に長崎医科大学へ進んだ親友がいたことを別の文章で読んだことがあります。
東京に居残り空襲の焔の中でも生き残った人間と長崎へ転籍して一瞬にして被爆死した人間の運命の分岐点を感じました。山田洋次監督作品の『母と暮らせば』の主人公も長崎医科大学での授業中にこの世から居なくなっています。
広島の原爆をテーマにした『父と暮らせば』と同じく何度か観ることになりそうです。吉永小百合演じる独りぼっちになった未亡人を支え、密かに慕う「上海(帰り)のおじさん」を演じる加藤健一の存在感が印象に残りました。そして、戦前の長崎と上海が実に近い距離にあったことを思い起こしました。                                               (了)