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2016年5月9日

中国たより(2015年5月)  『松村翁』

井上 邦久

 

毎年、花の頃。ほぼ十歳ずつ離れた三人が再会し、その一年間の物忘れ話や病気自慢をしながら昼の食事をして別れることを続けて来ました。この数年は、箕面から東京から、そして上海から集まり、大阪城近くにある太閣園で桜の庭が見える窓寄りの席を確保してきました。昨年春に店の人から、改装工事が始まるので来年は使えないと聴かされました。ちょっと残念な気分になっていると、最年長の松村昇さんは「たまには趣向を変えて、串カツでも自由軒カレーでもよろしいがな」と、いつものこだわりのない口調で言ってくれました。
梅田スカイビル地下にある昔の大阪の町を模した食堂街で、串カツかカレーを食べたら昭和一桁生まれの松村さんにも喜んで貰えるかな、と段取りを始めようとした矢先に訃報が届きました。内輪だけの葬儀にすると聞きましたが、すぐに十歳年上の今井常世さんに連絡をして、翌朝箕面に向かうことを決めました。

北摂の箕面は寒い冬日でしたが、とても和やかで温かいお見送りができたのは、ご家族ご親族のお人柄のお蔭と「何を深刻ぶってるねん」と遺影が語り掛けてくれたからでしょう。斎場の隣は、いつも松村さんにご馳走になっていたインド料理店。そこでも今井さんとの話は尽きず、箕面から立ち去りがたい気持ちで、駅前のイタリア風の店で長い時間を過ごしました。やはり今年も花の頃に再会しよう、できたら松村さんの子供さん達とご一緒しようという決め事を一片の慰めにして、二人は東上する新幹線の自由席に乗りました。

1980年夏、中国広西壮族自治区龍勝県の滑石鉱山への出張には、松村産業から松村楠敏社長、松村昇常務が、蝶理からは石原・山﨑両先輩と「未出走未勝利」の新馬が末尾に連なりました。復活復権した鄧小平が1978年から主導した経済制度改革と対外市場開放政策の柱の一つに地方分権化の動きがありました。それまでは広州交易会と北京商談のみであった国際貿易の機会が、上海も含めた地方へ分権分散されようとしていました。その変化への対応として、社内でも各営業部による中国要員の「争奪戦」があったと後に聞かされました。中国貿易室や中国プラント室での見習い業務から、合成樹脂の国内物流の仕事を5年続けた後に、採算最優先の営業部へ移ったばかりの新馬新米でした。

従来は、北京の五金鉱産総公司が一元管理(牛耳っていた)滑石貿易も、戦前からの老舗産地の遼寧・山東は独自の輸出を始めており、松村産業を含む日本市場は他の商社が窓口を寡占していました。積出港から遠く、実績のない新興後発の広西は「秘密の花園」のような未知数の存在でした。先ず、北京二里溝の五金鉱産総公司を表敬訪問して、広西出張の挨拶と土産の品を渡し(親分に仁義を切るような感じがしました)、併せて国内旅行証の発行を依頼しました。当時はパスポート以外に開放されたばかりの都市へ移動するにも旅行証明が必要で、その保証は主に北京の大手機関に依頼することが多かったです。

北京で無事に国内旅行証を確保して、広州経由で桂林へ。
桂林空港で五金鉱産広西分公司の谷課長らに迎えられ、翌日、マイクロバスで6時間の鉱区へ向かいました。「滑路」(スリップ注意)という標識が続く山路を、後部座席の鶏や亀や野菜とともにあえぎながら走りました。バスの中での話題の中心は松村昇さんでした。

滑石は英語でタルク(TALC)と言い、米国モンタナ州や北朝鮮、インド、パキスタンにも産するが日本は中国東北地域のタルクに頼ってきた。国交正常化前は政経不分離の原則の下で長崎国旗事件などによる交流断絶が原料杜絶に繋がっていた。モース硬度「1」の最も軟らかい鉱物。爪で線を刻むことができるくらい軟らかい。原石を粉砕したものがタルカムパウダーであり、天花粉(ベビーパウダー)として昔から使われている。安全な鉱物なので、薬品や食品の成形剤に使われている。関西の伝統産業である製薬業、食品業の基本となる粉砕機械は細川ミクロン、日本ニューマティックなど大阪のメーカーが先行している。数量的に多い用途は製紙や樹脂の増量強化剤(フィラー)向けである。子供の時にセメント地面に絵を書いた蝋石もタルクであり、工業用石筆として造船溶接の下書きにも使われる、一定の長さが必要な石筆用途には大きなタルクの塊が必要となる。但しタルクの地層にはアスベストが並存するケースがある、水質土質の細菌管理とともに非常に大切なチェックポイントである・・・松村教授の車内講義は今も鮮明な記憶として残っています。

「これは素晴らしい処女鉱区!露天ベンチカット(階段式採掘)でこんな大きな規模の山は見たことがない」と云う呟きを耳にした後の商談では、長期独占契約への流れが理解できたとともに、関西のオーナー企業の即断即決の威力を目の当たりにした思いがしました。
鉱区からの帰りの道中、誰もがそれぞれの理由で機嫌がよく、後部座席の鶏たちも居なくなり、随行した料理人も御役御免で熟睡していました。そんな緊張が緩んだ車中で道路標識の「滑路」は近い将来に「滑石路(TALC ROAD)」になるでしょうね、と軽口を叩いたら松村昇さんから「商売はそんな甘いもんやないで」とたしなめられました。
その後、業務担当者となり多くの日本製トラックや粉砕機を鉱区に届け、生産量と輸送量と品種を増やしました。松村産業の理解と協力により、タルクで代金回収する補償貿易の形式を繰り返しました。そして、次のステージにジョンソン&ジョンソン社が登場します。その日本法人の新将命社長、今井常世須賀川工場長、米国本社のアシュトン博士らとの鉱区訪問でした。NASAの航空写真による分析も含めて龍勝地区にはアスベスト層は見つからないこと、鉱石の水洗い後の分析管理手法などの確認を経て、世界屈指のタルカムパウダーブランドへの納入の道が見えてきました。今井常世さん(拙稿の北京たより(2014年11月)『秋休』に詳述)と松村昇さんとの三人の個人的交流が続くことになった端緒でした。

中国要員としての業務の充実を図っているという自負が生まれた頃に、松村昇さんから、
「井上はん、米国に出張してくれへんか?アシュトン博士との業務も委託するし、ついでに色々と他の仕事もして来ればいい」と言われました。すでに上司には話を通していたようでした。後で聴いたところ、「中国関係に専念しているのは良い事。松村産業にとっても有難い。しかし、最近の井上はんの発想や弁明が中国スタイルになっているのが一寸気にかかる。今井はんのように米国留学のキャリアのある人のようには成れなくても、米国や欧州など他の文化を知ることで、中国を相対化する視点を持てたら好いと思うたんや」との事でした。

30歳そこそこの当時では浅い理解しかできませんでしたが、その後に韓国や東南アジア、そして米国やイタリアを中心とした欧州を巡るようになって、松村さんの助言を得心することができました。
中国業務に何とか慣れてきたのは良いけれど、仕事に馴れや人間関係に狎れが生まれていた事、中国一辺倒の「中国通」や「中国屋」に陥りそうであった事、そして中国語ができれば良しとする姿勢になっていた事を軌道修正する機会になりました。
その後、松村昇さんは社長を務めてから相談役になり、今井さんは別の大手外資企業の宮崎工場建設を機縁に宮崎県の起業コーディネーターを続けています。ベビーパウダー事業は先走った販売方策がジョンソン&ジョンソン米国本社の逆鱗に触れて消滅。発展自立した広西タルクは独自に東南アジアへ販路を拡大という動きを生み、その都度、まさに「商売はそんな甘いもんやないで」を実感させられました。更に時が流れて、風のたよりで広西の露天鉱区は掘り尽くされ、かつて無尽蔵にあると思われていたタルク大塊を出荷する際に廃棄していた小粒を拾いなおして細々と出荷を続けている噂を聞きました。

数年前に京都西陣の町屋を購入した今井さんの別宅に泊めて貰いました。翌朝いつものように近くの浄福寺を訪ねて、蝶理株式会社の前身である大橋商店の創業者一族のお墓と昭和18年に中興の祖である大橋理一郎社長が建てた戦没社員(店員?)の忠魂碑をお参りしました。そこから御所近くにある松本明慶佛像彫刻美術館まで歩きました。松村昇さんの長女の松本華明館長の好意により特別に開いて貰った館内で、箕面から駆けつけてくれた松村昇さんの長男さんと四人で色々な話ができました。その後、岡崎での仏像展覧会会場で松本明慶大仏師に再会して、松村昇さんに繋がる縁者の団円となりました。

「仏師に向いている人とは、器用とか才能とかが適している人のことを言うのではない。日々の事柄すべてを仏師として志向している人のこと。喩えれば帰宅して赤ちゃんを抱いていても、その指の動きに注目して翌日の仏像彫刻に活かそうとする人」と明慶さんの弁。

晩年「相談されない相談役」と自嘲しながらも、パキスタンタルク開発に情熱を燃やしていた松村昇さん、松村翁に通じるものを婿殿の言葉から感じた次第です。

瀬をはやみ筏は組めず花は去る (拙)

(了)