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2016年5月31日

  上海の街角から(2016年5月) 『上海の街角で』

井上 邦久

JR環状線の大阪駅から一駅下ると福島駅があり、最近は個性的な趣向や料金の店ができて、客足も増えているようです。この数年、古いスタイルの商店からの模様替え,商売替えも進んでいます。その古いスタイルの典型のような小さな店が、福島駅から20メートルくらいの場所にあり、店名の「ミヤコ楽器店」に惹かれて何回か通ったことがあります。

大阪府北河内郡四条畷町の高校生だった頃(大阪万博の前でした)、片町線という単線電車に揺られて繁華街に出ることは滅多になくて、たまに思い立って大阪駅前の旭屋書店でペーパーバックの英文小説を買うか、心斎橋筋でレコードジャケットを眺めるか、という精一杯気取った動機づけで交通費を捻出していました。
当時の心斎橋筋は大丸・そごう百貨店を筆頭に老舗が並ぶ風格のある商店街でした。音楽関係では、YAMAHA音楽教室を別にすれば、大月楽器店とミヤコ楽器店が突出した二強でした。当時のレコード歌手は販売促進のために、大手のレコード販売店を訪ね、場合によれば仮設のステージ(ビールのカートンボックスなど)で新曲を歌うことがありました。
大阪では心斎橋筋の二強の店にサービスをして、多く売ってもらうことはレコード会社にとって大切なことだったでしょう。過剰なサービス精神とバランス感覚で、新人歌手の芸名を「大月みやこ」としたことも、当時としては話題性があったのでしょう。

今世紀の初め、心斎橋筋の変貌は凄まじく、イタリアからの客人は街並みが乱雑になるのは嘆かわしいと憤慨していました。この友人は「曽根崎心中」の切り場で涙を流すようなイタリア人ですから、老舗の衰退や安直な今様の店つくりを許せなかったのかも知れません。ミヤコ楽器店も2002年に心斎橋筋から店仕舞いをして何年も過ぎているのに、同じ店名のCD販売店が福島にあることに驚いたわけです。
新曲のCDも置いていたのでしょうが、かつての大阪郡部の高校生が好んだ青春歌謡CDが多くありました。吉永小百合と三田明のデュエット曲集の発見などは特筆ものでした。レジの若い店主に、「失礼ながらこちらのミヤコさんは、あの心斎橋筋のミヤコさんと関係があるのでしょうか?」と聴くと「お祖父ちゃんの代までは心斎橋筋で大きな店をやっていました」とのこと。「そうでしたか・・・」という返答しかできませんでした。

拙文の連載を始めるに当たって、テーマと題名をどうしようかと考えました。基本となるテーマは上海の街にちなむことを、できれば1930年前後の事と今の上海に結び付けて書かせて貰おうと思いました。
時は国民党の隆盛期、官僚・金融資本主導の経済も二桁成長。東西南北の中山路で租界を封じ込める道路建設は、海外列強からの蚕食を喰い止める象徴的な工事だったでしょう。国父孫中山先生の名前を冠したのも、道路の目的や企図からして共感できます。そして、五角場での新都心建設に着手します。ペンタゴン状に道を配し、政府系機関の建設が始動していました。
立派なスタジアム、水泳場の名残は現在もあり、そのアーチや窓の数が3個であるのは三民主義の象徴でしょうか?また、その近辺を歩くと小さな寂れた路地に「民権路」「政府路」などと大仰な名前が「保存」されていることに感動を覚えます。
そんな1930年代の名残を残す上海の街をスケッチしようと決めました。ちょうどその頃、戦前の上海を題材にした曲に詳しい大先輩から『上海ブルース』と並んで『上海の街角で』という歌謡曲があるよ、と教えて貰いました。さればと、連載の題名を「上海の街角から」に決めて、拙文を綴り始めました。

そうなると、その歌謡曲を丁寧に聴いておきたいという実証主義?と行動派の血が騒ぎ、福島駅のミヤコ楽器店(たしか楽器は置いていませんでしたが)へ赴きました。さすがの古い歌謡曲に強い店でも、目指す曲を探し出すにはかなりの時間と粘りが必要でしたが、『昭和の流浪歌』(テイチクレコード=帝国蓄音)というCDがあり、『カスバの女』『星の流れに』とともに、佐藤惣之助作詞、山田栄一作曲、東海林太郎が歌う『上海の街角で』を発見できました。

♪リラの花咲くキャバレーで逢うて 今宵別れる街の角

紅の月さえ瞼ににじむ 夢の四馬路が懐かしや♪

上海航路の船乗りと日本から上海に出稼ぎに来ているダンサーが、一年を経て別れ話になった。船賃の足しくらいの少しのお金を渡して女性を日本に返し、自分が華北の新天地で一旗揚げるまで待っていろ、という男にとっては都合の良い内容です。タンゴ風の曲調は、戦後の『上海帰りのリル』に通じる気もしますし、ストーリー的にも繋がらないこともない?しかし、それはどちらでも良いことです。

問題は歌詞の間に挟まれたセリフです。

「・・・あれから一年、激しい戦火をあびたが、今は日本軍の手で愉しい平和がやって来た・・・」という能天気なことを復刻版のCDでは渡哲也が語っています。1938年に出されたオリジナル版のセリフの主は誰か?上述の先輩にお尋ねしたら、「それは佐野周二」と即答してくれました。
上原謙、佐分利信と三羽カラスと称された二枚目銀幕スター、という説明より、「サンデーモーニング」の関口宏のお父さん、「アカシアの雨のやむとき」の西田佐知子のお舅さんが佐野周二です、という方が分かりやすいかも知れません。

このセリフにある1937年の「激しい戦火」によって、国民党の短い春は終わり、五角場の新都建設計画は霧消しました。今年、その国民党候補に圧勝した民主進歩党の蔡英文総統は「小英」と親しまれ、具体性に欠ける経済政策を「空心菜(蔡)」と揶揄されています。

大月みやこはベテラン歌手として活躍を続けていますが、福島駅近くのミヤコ楽器店はすでに無くなっています。闇市跡の建物だった旭屋書店で買った『ドクトル・ジバゴ』は冒頭のみ辞書を引きながら読んだと思われる赤鉛筆の跡がありますが、残りの多くの頁は半世紀に渡り、きれいなままで本棚の隅に保存されています。                                       (了)