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2016年6月19日

中国たより(2016年6月)    『朱子学』

井上 邦久

5月末に上海へ、そして上海から広州を往復しました。上海での要件が月曜午前の約束となったため、週末から上海入り。上海のオフィスに顔を出したら、唐突に広州に出かける用件が生まれました。お蔭で、週末の上海で色んな方々とゆっくりお話しする機会を得ました。また、今回思いもがけない訪問となった広州は、学生時代に初訪中した際に香港から先ず足を踏み入れた都市です。春秋の広州交易会にも1980年から20回連続して参加しました。

「経済改革、対外開放」政策の立ち上がりを、最前線で定点観測できたことを今も幸運に感じる、強い思い入れのある広州です。
1978年から1979年にかけて、鄧小平が掲げた「経済改革、対外開放」政策がさかんに謳われるにつれて、「改革開放」と略することが多くなりました。更には「Open Policy」と喧伝されることで、一種の錯覚が生まれて行った気がします。確かに深圳や厦門などの経済特区の開設や「利用外資」のスローガンの下で「対外開放」が進行しました。
しかし、それはあくまでも「対外開放」であったことを忘れてはいけません。「対外開放」を「対内開放」さらには「対内解放」にまで過剰に期待したことが、1989年6月の北京での悲劇に繋がる一因になったと思います。1980年代の中国社会には政府に対する淡い期待、厳しく言えば「甘え」があり、それが民衆運動の過程で加速することによって、政府が許容する臨界点を超えた時、権力のグリップが握り返されたと考えます。

漢字を共有する日本と中国。同文同種の甘えは危険だと諸書に記され、戒められてきました。しかし、ついつい日本的な翻訳、日本人好みの解釈が定着して、錯覚や誤解のもとになってきたことも否めません。
その一例が上記の「対外開放」を厳密に峻別していないことです。「対外」という限定的な言葉が付いている以上は、「対内」の開放はないのだという当たり前と言えば、当たり前の警鐘を鳴らすべきであったと思います。
ついでに言えば、中国語の原文には堂々と「利用外資」と書いているのに、その訳文をわざわざ「外資を活用して」とする翻訳文が多くあります。悪い冗句ですが、「中国に投資して、相手側に利用されて損をした」とボヤク人が出てこないように「外資を利用して」と正確を期すべきだと考えます。たしかに中国語の「利用 li yong」には、日本語の利用・使用・活用の語意もあります。そして一方では「うまく使う」「利する」とともに「甘える」「依存する」という使い方もあるようですから。

さて、上海での週末週明けの時間を利用して、色々な会合を開かせて貰いました。それぞれのメンバーが語る味わい深い話題を通して、様々な考察と啓発の機会を頂きました。

雨がしとしと日曜日の昼、1923年に建てられた洋館を利用した餐館に、濡れた傘を携えて7名の男女が集いました。会費100元の飲茶とお喋りの開始です。
上海の華東師範大学で博士号を修得した九州出身の中村貴さんを囲む形に座りました。中村さんは「上海歴史散歩の会」の松江散歩に際して見事な資料を書下ろしてくれました。事前に読んで内容の豊かさや潔さに感心し、散歩当日の控えめながらも要点を外さない姿勢にすっかりファンになりました。新進気鋭の研究者が江南のホームグラウンドで、最新学術の精華に基づく「ガイド」役をしてくれたことを「贅沢」だと感じました。その後、しばらくして中村さんの博士号修得祝いの小宴で、「贅沢だよね」と何気なく口にしたら、傍らの散歩の会事務局の入江さんが共感してくれました。この種の「贅沢」を感じ合えることもまた「贅沢」でしょうか?

さてこの日の会話も上海は何故「申城」と呼ばれるか?黄浦江の名の由来は?という身近なテーマからスタート。戦国時代の四君子の一人である春申君が開拓した上海の故地を「申の城」、春申君の姓の「黄」を上海の母なる川の名に利用して「黄浦江」としたという説明でした。 弁護士やコンサルタントの皆さんの発言に続いて、コーチング会社のKさんから「この一年、コーチングの対象が駐在員から中国のナショナルスタッフ(NS)中心に変わってきた。また、従来の上海中心から武漢・重慶という西方の都市部にもコーチング業務が広がりつつある」という新鮮な話題が出されました。

国内の市場開拓が本格化  → 駐在員の力量では不足 →NSリーダーの需要増

住宅・教育等の価格費用増 → 駐在員の経費が増加  →NSリーダーの需要増

市場が西方都市部へ展開  → 現地に根差した要員育成→NSリーダーの需要増・・・

という構造変化についての分析が集約されていきました。

続いて、そもそも「コーチング」とは何ぞや?という根本の議論になり、Kさんの丁寧な解説でも理解が難しく、「喩えて言えば、机を挟んで相対して指導を受けるTEACHではなく、机を前に二人が並び、良い方向を目指して話しながら気付いていくのがCOACH?」という年輩者のたとえ話で何となく分かったような、分からないような状態になりました。そこへ中村さんから朱子の言葉の紹介があり、その内容が「コーチング」理解に重なるのではないか、という発言で一同が得心しました。やはり、年輩者の物知り風のたとえ話より新鋭の研究職の説得力には切れ味がありました。

後日、中村さんから送ってもらった出典を以下に記します。

『朱子語類』巻十三・九 原文「某此間講説時少。践履時多。事事都用你自去理会。自去体察。自去涵養。書用你自去読。道理用你自去究索。某只是做得箇引路底人。做得証明底人。有疑難処。同商量而野水」

日本語訳
「私のところでは、講義の時間は少なく、実践の時間が多い。何事もすべて君自身が取り組み、君自身が身をもって考え、君自身が修養せねばならん。本も君自身が読み、道理も君自身が研究せんといかん。私はただ道案内人であり、立会人であるにすぎん。疑問点があれば一緒に考えるだけだ。」         出典 三浦國雄『「朱子語類」抄』講談社学術文庫 33頁

上海から戻り、梅雨の晴れ間の鳥越まつり。総武線浅草橋駅で台東区鳥越一丁目出身の竹上さんと待ち合わせ。鳥越神社氏子として育った竹上さんの案内で、戦災を免れた路地を辿り、幼馴染のお店が続く買い物横町の近く、お兄さん夫妻が住む実家でビールをご馳走になりました。神社のお札、鳥壹と染めた粋な手拭い、そしてオリジナルの寿恵廣(すえひろ=扇子)まで記念に持たせていただきました。昼食は柳橋まで歩いて大黒家さんで。竹上さんの縁戚でもあり、何時に増しての美味しい天麩羅を頂きました。女将さんからのお土産は人形町の富貴豆煮つけでした。
頂いてばかりのこの日の仕上げは、「いつもはこの種の新書は買わないのだけど・・・実体験者本人が書いているので」と竹上さんが遠慮気味に渡してくれた『キリンビール高知支店の奇跡』田村潤(講談社+α新書)でした。新聞広告で知ってはいましたが、ビジネス成功談は苦手なので食わず嫌いになるところでした。お蔭で朱子学の実践例を知ることができました。本屋で「まえがき」と「あとがき」を立ち読みすれば、エキスが感じられ全部を読みたくなる確率はソフトバンク・ホークスの勝率くらいでしょうか。

最後に、実践的なコーチと言えば、やはり野球。以前にも触れたことのある佐藤義則投手コーチに行き着きます。ダルビッシュ有、田中將大を育て、現在はソフトバンク・ホークスを支えています。

「教え子に理論をおしつけることはせず、納得するまでとことん付き合う。それが佐藤の流儀だ。松坂大輔らの大きな戦力が加わった今年のソフトバンクだが、一番の「補強」はこの男かも知れない」(二宮清純)

朱子学の宣伝はこの辺で留めます。                                            (了)