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2016年8月9日

中国たより(2016年8月)  『阿呆鳥』

井上 邦久

 

網走市の丘に立つ「北海道立北方民族博物館」、その季刊誌「Arctic Circle」 No.99 ( 2016年夏号)は、北極線をめぐる自然と人-激変する北極の海を探る、と題する特集が組まれています。表紙はサハリン州ボロナイスク(旧樺太の敷香町)での少数民族祭で民族衣装をまとった少女たちの写真です。
真夏に北極圏に関する氷雪の写真や読み物を見ることで、少しだけ暑気払いになります。北方民族博物館友の会の会員になって、かれこれ二十年近くになります。網走の知人宅でお世話になり、オホーツク人の遺跡を訪ねて回ったこともありました。冷戦が終わって、極東ロシア(沿海州)の事情が少しだけ見えてきた頃のことです。

タイやヒラメなどの高級魚の養殖用飼料には、ペルー沖産のイワシ系は身が黒っぽくなるとして好まれず、オホーツク海のタラ系が白身用飼料として珍重されていました。タラ漁船団は船内でフィレ加工した残りの部位を粉末乾燥させてホワイトフィッシュミールに仕上げ、日本からの運搬専用船に渡します。毎年12月1日のタラ漁の解禁日、漁船が一斉に出港するまでに、我々は前金条件で飼料の買付を完了させ、漁業会社はその金で燃料用油を調達します。売買双方が制限時間一杯まで互いに足元を見ながら、熱いせめぎ合いを真冬の漁港で行うわけです。停電が常態化していた寒い木賃宿の夜、ローソクの灯りの下でウォツカを呑んでも温まらなかったことや、新潟からハバロフスク経由でカムチャッカ半島へ飛んだ時、飛行機から見えた間宮海峡の夕陽を懐かしく思い出します。

古い時代にアムール川の河口を出て、サハリンに沿ってオホーツク海の西南辺を北海道東部から千島列島に渡ったと思われる人たちが、中継・居留地とした址が網走付近などに残っています。現在、ニブヒとかツングースと呼ばれる狩猟系民族の足跡と思われます。オホーツク文化、オホーツク人と称されている人々は、後にアイヌ系に同化した、或いは滅ぼされたとの推測がなされています。彼らは何処から来て、何処へ去ったか?という疑問はもっと時間をかけて調べる必要があります。ここでは、彼らが何を求めて遥か北方から危険を冒して渡ってきたかについてのみに絞り込みます。学問用語では、そのことを「行為目的」と言い習わせているようです。
色々と推測される中で、かなり有力な「行為目的」として、希少珍重された黒貂(クロテン、Sable)を追い求めて来た、という説があります。生息地が限られていること、需要が大きいこと、つまりは高く売れること、そして軽くて運びやすいこと・・・まさに一攫千金への強い思いが、人をして極東へ向かわせたと思われます。大陸の大河からオホーツクの海へ流氷に乗って逃げまくるクロテンを遠く千島列島まで追いつめた、というような想像も湧いてきます。高級毛皮は、ロシアから欧州の王侯貴族へ、また中国では東北出身の女真族の大清帝国などへ拡がったものと思われます。
同じく19世紀から20世紀にかけて、欧州や米国での旺盛な需要を「行為目的」の糧に、一攫千金を夢見て留まることを知らず、海を越えていった日本人の一群がありました。

東京都知事選挙の選挙民には、23区内の住民や三多摩地区の人たちとともに伊豆諸島、小笠原諸島の島民も含まれます。公的機関の人以外は入島制限されている硫黄島、そして日本最東端の南鳥島や日本最南端の沖ノ鳥島までも東京都の行政区域となります。
それにしても、遠流遠島の流刑地として伊豆諸島が選ばれていた印象が残っていた江戸末期から明治にかけて、遥かに遠い小笠原へ、そして鳥島へ渡った人々。どんな「行為目的」が彼らを突きき動かせたのか?そのことを40年以上の調査研究を積み上げて、一冊の本にまとめられたのが下関市立大学教授の平岡昭利氏の『アホウドリと「帝国」日本の拡大』(明石書店:2012年11月10日初版)でした。以下に項目タイトルを列記します。

第Ⅰ部 アホウドリと日本人の無人島進出

1 アホウドリを求めて ――      「南進」への行為目的
小笠原諸島の領有とアホウドリ  「南進」へのプロローグ
2 マーカス島から南鳥島へ ―― 発見から領有へ
羽毛採取から剥製業、    鳥糞(グアノ)・リン鉱採掘へ
3 アホウドリと尖閣列島
4 羽毛輸出の拡大と鳥資源の減少
5 幻の島中ノ鳥島の発見と領有

第Ⅱ部  バード・ラッシュと日本人の太平洋進出

  1. グアノ・ラッシュとバード・ラッシュ ―-太平洋への日米の進出
  2. ミッドウェー諸島の借り入れと主権問題
  3. 北西ハワイ諸島における1901年前後の鳥類密猟事件
  4. バード・ラッシュ ―― 鳥類密猟の構図と悲劇

 

第Ⅲ部  バード・ラッシュから無人島開拓へ

1 南大東島の開拓とプランテーション経営 アホウドリからサトウキビへ
2 北大東島における開拓とその後の発展 ――サトウキビ農業とリン鉱採掘
3 ラサ島の領土の確定とリン鉱採掘事業

 

第Ⅳ部  南洋の島々への進出から侵略へ ――アホウドリからグアノ・リン鉱採掘へ

  1. 台湾島北部の無人島への日本人の進出
  2. 東沙(プラタス)島と西澤島事件
  3. 南洋群島アンガウル島への武力進出とリン鉱争奪

 

夏バテを理由にして8月のたよりは、積読書籍を利用した手抜き作業に留めます。ただ地図上の島々を追いかけだけでも地理的空間の拡がりと日本人の変わらぬ行動様式にタメ息が出てきそうです。次にキーワードの注釈を付して夏休みの宿題のような報告とします。
付言すると、平岡氏の本が出版された2012年は南の島での諍いが喧しく報道されていた頃でありましたが、40年をかけた労作完成がたまたま騒動に重なっただけでした。

※1 アホウドリ:・・・絶滅の危機に瀕する国の特別天然記念物だ。大型の海鳥で翼を広げると二メートル半に達する。夏はアリューシャン列島やベーリング海などに渡って過ごすと推定され、冬になると繁殖のため日本にやって来る。かつてはコロニー(群生地)が各地にあったようだが、現在では鳥島と尖閣列島ぐらいにしか見られない。・・・鳥島のアホウドリは急速に姿を消していった。小笠原諸島、大東諸島の繁殖地にも見られなくなった。国はアホウドリが絶滅の危機にあることを認め、1906年に保護鳥に指定した。・・・北太平洋に広く生息していたアホウドリは絶滅したと報告された。五百万羽以上が殺されたとされ、わずか六十年ほどのうちに消したのだ。乱獲というには軽すぎる。人間が行ったアホウドリの大量虐殺だ。   『漂流の島 江戸時代鳥島漂流民たちを追う』高橋大輔(草思社 2016年5月)より

※2 バード・ラッシュ:欧米で羽毛、剥製などの奢侈品が流行し、原料輸出が急増。鳥島を開拓した玉置半右衛門(八丈島の大工出身)は巨万の富を得た。アホウドリの習性として、飛翔までの助走距離が長く、速度も鈍いため追いかけて撲殺できた由。
19世紀末から20世紀初頭、西からアホウドリを追いかけてきた日本のバード・ラッシュと海鳥糞(グアノ)を肥料として希求する米国のグアノ・ラッシュは、中部太平洋の要地ミッドウェー島・ウェーク島でぶつかった。日本は主権を出張せず、居住許可を要請。米国は羽毛採取を残酷と非難。海鳥捕獲禁止を決定。日本政府は出航者に対して注意を促すが、密猟が続いたとのこと。(平岡昭利氏著述)

※3 ラサ島:沖縄県島尻郡北大東村大字ラサ。東証一部上場のラサ工業株式会社はラサ島でのリン鉱石事業が出発点。資源の枯渇を懸念して、1918年に新たな無人島開発をスプラトリー(南沙)諸島で着手するも、市況悪化・資源枯渇・戦争激化により撤収。

※4 西澤島事件:香港南東330㎞の東沙島(プラタス島。面積1.74㎢)にて、鯖江市出身の西澤吉治は1907年から桟橋、倉庫、軽便鉄道などの投資を行い、グアノや高級貝類を台湾へ輸送。島名を西澤島とし、私製紙幣「西澤島通用引換券」を発行した。滅亡直前の清朝外務部の指示が徹底しなかったのか、広東当局の動きは鈍く、1909年になってようやく領土問題が表面化。排日運動など中国ナショナリズムの高揚のなか、賠償金交渉の結果「西澤島」は消滅した。交渉過程で軍艦『明石(艦長:鈴木貫太郎)』『音羽(艦長:秋山真之)』が派遣され資産・資源評価の調査活動を行った。これは、秋山真之による南洋開発関与の端緒である。また西澤吉治の二男西澤隆二(詩人筆名:ぬやまひろし)は日本共産党の元幹部。正岡子規の妹の律(りつ)の養子正岡忠三郎と仙台での同学の縁による交流が、司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』に詳しく記録されています。その作品の主人公の一人とも言うべき西澤隆二(タカジ)の個性を際立たせる為に、父の島であった西澤島のエピソードが印象的です。                                             (了)