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2016年11月7日

中国たより (2016年11月)  『番外編』―再会―

井上 邦久

フランチェスコ・ビセーニャ氏はネズミ歳です。
奥さんもフィレンチェ大学の同窓で、自宅アパートもフィレンチェ市内にあります。階段を歩いて三階までは直ぐですが、セピア色の映画に出てきそうな手動式ドアの三人乗りのエレベーターで昇って自宅を訪ねるのが好きでした。
2009年7月から中国に駐在してから、ASEANと韓国への短期出張はあっても、欧米へ出かけることは皆無になっていました。2006年からは機械や車両事業の主幹も兼務していたので、ライフサイエンスの仕事でイタリアへ赴くことが減っていましたし、その間にビセーニャ氏はさっさと医薬原料メーカーを退職していたので、かれこれ10年余りお好みのエレベーターに乗る機会がありませんでした。

口にすると身体に重篤な問題を起こす毒劇物も含めた無機化学品の担当者から、ヒトや動物の口にして貰うことで売上が伸びるライフサイエンス部の主管者になったのが1998年。異例の人事でした。不良在庫と履行能力の怪しい契約残をそれぞれ5億円も抱えた、末期症状の部に未経験者をパラシュート降下させたのは、敗戦処理投手としての措置であると明言する幹部もいましたし、火中の栗を拾うことはないと助言してくれる先輩もいました。天邪鬼気質と此れ以上は悪くなることがないという或る意味での気楽さでライフサイエンスの学習をしました。1989年6月の事件で、中国貿易が一気に冷え込んだ時期に青島事務所長と北京の化学品担当の兼務駐在をした時も、今は最悪だからやっただけプラスだと考えて、行動した経験も思い出しました。
資金や資産を圧縮し、取引先数を三分の一・取引品目を半分に減らし、新規開発と利益率最優先・・・という当たり前の手法で基盤強化を行った上で、全社からヒト・家畜・魚の口を通過する商品を全てライフサイエンス部に集約してもらいました。中国比率を20%以下に抑えるという、当時としては時流や社風に反した方針を立てました。
ライフサイエンスというFDAを始めとする国際ルールを遵守する商品特性を考慮して、高付加価値で独占寡占が可能な商品開発をするには、製造業としての独自性を持つメーカー、農業牧畜の伝統産業の進化系事業を追求すべきだ・・・となると中国よりも欧米のユニークなメーカーに眼を向けることが大切だと考えたからです。

牛の胆汁を出発原料とする医薬品メーカーがミラノとジェノバの間のノヴィリグレ村にあります。その会社の貿易部長としてビセーニャ氏は時々来日来社しているとのことで名刺交換をしました。商談や会食は担当者たちに任せて、会食の場に遅れて参加したのは、ちょうど週末の東京観光リストをビセーニャ氏に渡しているところでした。取引が僅少だからでしょうが、遠来の客人にリストを渡すだけで事足れりというのは一寸冷たいなあ、という感想が生まれ、併せて20平米足らずの川崎の単身赴任者社宅で週末を過ごす生活に嫌気が差していた個人的な理由もあって、御節介にも土曜日をご一緒しましょうと言ったら、三方良しの反応となり乾杯をしました。

根津美術館ではちょうど光琳の「燕子花図」が展示されていました。研究熱心なビセーニャ氏に伊勢物語のかなりいい加減な筋書きを伝え、「在原業平はドンファンか?カサノバか?」といった色の道に不案内な人間には即応しにくい難問をぶつけられました。
近くの太田美術館で浮世絵を眺めながら、江戸庶民の豊かさと粋がどこまで伝わったかは別として、ビセーニャ氏と様々な交流ができました。成り行きで日曜日も大仏や八幡宮以外の鎌倉を見たいとの要望に従い、鎌倉通の知人から教わった観光客の少ない穴場を歩きました。土光敏夫さんのお墓のある安国論寺で、経団連会長がメザシを食べながら日本の合理化を考えたなどという話で盛り上がりました。

ビセーニャ氏をフランコと呼ばせてもらうようになった日曜日の夕方、「明後日からは関西で仕事をするが、関西の観光名所は大きな駐車場の横の寺とか、エレベーター付きのコンクリートの城とか、イタリアでは考えにくい状態だ」との辛口コメントがありました。
それは聴き捨てならぬと「奈良を歩いたのか?」と問うと知らないという返事。ならば、祝日を使って奈良に行きましょうという自然な流れになり、鹿に迎えられて興福寺の五重塔のエリアに入った段階で「君の言いたいことは分かった」と握手になりました。東大寺で干支に因んでネズミのお守りを贈りました。

それから数年、実に幸運なことにイタリアの小さなメーカーと日本の大メーカーを、中くらいの商社が仲介する合作提携が始まり、毎月のようにイタリア出張や日本での受け入れが続きました。復帰して頂いた薬剤師の資格を持つ先輩に医薬GMP管理体制を整備してもらったり、フランコの奥さんや上司とのささやかな直接交流の為に日伊協会でのイタリア語講座に通ったりもしました。取引拡大の過程で、好事多魔とも言うべき事態も発生しました。
2001年9月10日に千葉県で狂牛病(BSE)が見つかり、その翌日のニューヨークでの大事件とともに、一生忘れられない二日間となりました。それからしばらくは狂牛病対策に奔走しました。米国中心のルールを日本側が間違いなく咀嚼し、それをイタリアに履行を求めるという容易でない業務の結節点を、薬剤師の先輩とともに何とか務めたつもりです。

色々な局面でイタリア人の好い加減さにぶつかりました。中国の戦術的ないい加減さとは異なりましたから、初歩からイタリアのスタイルを学んで行きました。

毎年の大晦日の電話で「いつまで待たせるのか?早く遊びに来い」と言われ続けて、今回ようやく再会できました。前回の訪問時は、ご夫婦二人だけとの交流でしたが、今回は娘と旦那と孫娘二人、息子とナポリ出身の魅力的なフィアンセと総勢8人で出迎えて貰い、手作りのトスカーナ料理にキャンティワインが進みました。日本土産のなかで、三島食品の「ゆかり」(紫蘇・シソのふりかけ。英語では何というのか?ハーブの一種だと好い加減な説明)はライスやパスタに合わせて東洋的な味わいだったと好評でした。今も研究熱心なフランコは、この食品は有名な作家と縁があるのか?と日本通の片鱗を家族の前で見せていました。

小一時間のドライブでピサに着きます。大理石の産地として名高いピエトロサンタのアトリエで制作を続け、イタリア各地の街中に展示される安田侃さんの作品。今年は幸運にもピサが舞台でした。かつてジェノバの本社からフィレンチェへの道中で回り道をしてもらい、安田さんの工房を探し当てたことを思い出したのか、フランコも御縁を喜んでいました。
次回来日時に、安田さんの出身地のアルテピアッツァ美唄を案内するのは難しいでしょうが、今では北海道まで行かなくても東京のミッドタウンの通路にある巨大な卵のような作品、三菱商事の前にある代表作などを案内できます。

ピサの斜塔はずっと修理中だったので上までは見ずの状態でした。今回は上まで登りました。エレベーターはないのか?とフランコに問うと、大阪城とは違うと笑っていました。