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2017年1月6日

「中華街」たより(2017年1月) 『羅森』

井上 邦久

中国の都市部におけるコンビニの存在は、すでに日常の風景に融け込んで久しく、中国の若者が、おでん(関東煮)を昔からある食べ物のように買っています。コンビニエンス・ストアという新しい商業形態を、まったく素直に「便利店」と訳し、ファミリーマートは「全家(Quan Jia)」、セブンイレブンはそのまま「7・11」、そしてローソンは「羅森(Luo Sen)」と店名表示されています。
その中で、音訳である「羅森」のローは「羅」を使うのは分かりやすいのですが、ソンは「宋」でも「松」でもSongという発音であり、「森」よりは近い音です。ただハンソンやパターソンなどの北ドイツや北欧系の「○○ソン」の中国語音訳には「○森」を充てることが多いようです。1939年、米国オハイオ州で牛乳屋を創業したLawson氏の苗字から由来する「羅森」が、祖業以来のミルク缶の看板と共に中国でも生き続けているわけです。

上海の街角で、この「羅森」の青い看板を目にする時、つい連想してしまう中国人がいます。その人の名は、幕末の浦賀にやって来たペリーの黒船、その主席通訳官のSamuel Wells Williamsに随行してきた広東省出身の羅森です。ローソン(LAWSON)資本が米国と日本と中国を結び付けた広東人の羅森を意識しているかどうかは知りませんが、横浜開港史や横浜中華街史に記載された内容から羅森について少し触れてみたいと思います。

広州の出身とされる羅森は、香港で実務を経験して英語も堪能だったようですが、その前半生の履歴は不詳です。しかし、ペリー一行の随員として鎖国中の琉球・日本に来訪し、日米和親条約交渉や条文起草の陰のキーマンかも知れない存在として歴史に残っています。前年に四艘の蒸気船が東京湾にやって来た際には、日本語と阿蘭陀語と英語の介在でWilliams通訳官が孤軍奮闘して直截な交渉したと推察されます。宣教師出身で日本人漂流民からも日本語を学んだWilliamsですが、幕府官僚の高踏的な言葉使いや形式的な候文には恐らく苦労したのでしょう。そこで、漢籍に通じた日本人と中国人の間での筆談による交流の必要性を感じて、二回目の来航には補佐役として羅森の随行を要請したようです。

羅森は下田や箱館(今の函館)滞在中に多くの日本人と交流し、数々の墨跡を残し、そして香港の月刊誌に『日本日記』を連載しています。開港・開国に到るまでの日本を米国や中国に繋ぐ最初の接点を担った中国人と言って良いでしょう。北海道(松前)の昆布のサンプルを託され、その後の交易のきっかけを作ったのも羅森とされています。因みに、密かに黒船による出国を企図した吉田松陰はWilliams通訳官と会えたものの、松陰の意思は十分に伝わらず仕舞いでした。そこで松陰は、口頭通訳・文章作成・日常交渉などを通じて日本人の間で有名になっていた羅森との同席を希望するも「就寝中」と云うことで会わせて貰えなかった模様。ここで松陰と海外の接点はあえなく消えたわけです。

羅森は日本各層の人たちと交わり、その際に日本人に乞われて扇子に文章を書いたり、漢詩を即興で作ったりしたと記録されています。アヘン戦争で傷んだ母国の轍を日本が踏まないように希求し、日本と中国の友誼提携にも踏み込んだ文章もあるようです。
そんな羅森の評判が上がる一方で、日本の高級文化人の一部には「尊敬する中華の文化人が,何故に紅毛(西洋人)の従者となっているのか」という否定的な見方も記録されています。
中華文明への尊崇意識は日清戦争前後までは残るものの、中国の伝統文化と社会実態との乖離が徐々に伝えられるに従い、あたかも過剰期待の反動にように尊崇から蔑視に転換していくパターンの端緒に羅森が居るとも言えるのではないでしょうか。

1854年の羅森の来航に続く横浜開港に伴い、外国人の隔離策とも言うべき関内居留地が区切られていきます。欧米人の多くが高台に設けられた山手居留区に移り住む一方、もともと埋め立て地である湿地帯を開発して、買弁と称される中国人(広東や三江=江蘇・浙江・江西の出身者が中心)が集中して住む地域が生まれて行きました。買弁とは単なる欧米人と東洋人の通訳をするだけの存在ではなく、貿易実務の請負や異なる文化習慣の介在者としての商社的機能を果たした存在ではないかと初歩的に考えています。
今後とも調査考察を続けて正確を期したいと思います。

居留地の一角、現在の横浜市中区山下町の500㎡四方の地域に、貿易業・製造業を始め各分野の中国人が定住してCHINA TOWNを形成していきました。その後、関東大震災や横浜大空襲などにより壊滅的な打撃を受けるなかで、日本政府による就労業種の制限政策などの影響もあり、中華料理店の比重が大きくなっていき、現在のような中国雑貨や食料品店舗の他は圧倒的に中華料理店が偏在する横浜中華街に移行していきます。

横浜中華街には中華街憲章(The Yokohama Chinatown Chapter)が定められています。

第一章 礼節待人(Courtesy)                第二章 創意工夫(Creativity)

第三章 温故知新 (Tradition)                第四章 先議後利(Customers Satisfaction)

第五章 老少平安(Safety)                    第六章 桃紅柳緑(Amenity)

第七章 善隣友好(Hospitality)

この憲章は横浜中華街発展会協同組合が、日本社会のなかで歴史や政治に翻弄されながら大同を希求し、辿りついた合意内容に基づき設定したと聴いています。しかし、「新興勢力」の伸長などの新たな潮流が押し寄せ、憲章通りには遂行されていない現実も目にします。

この世界の片隅の横浜中華街に住みながら、山下町での孫文や梁啓超のような歴史的人物の足跡を辿ること、買弁の機能功罪を掘り下げること、そして過去の華僑と近年の在日中国人との違いについて考察をすることを通じて、もしかすると中華街から覗き眼鏡のように中国そして世界が見えてくるかも知れないと、初夢のように正に夢想しています。
今年は太陽暦の新年と太陰暦の春節が同じ月にあります。1月27日に関帝廟と媽祖廟で春節カウントダウン、1月28日には、元旦を祝した獅子舞(採青)で賑やかな一日になります。

今年の「中国たより」は、「羅森」の紹介に続いて中華街の萌芽概況から筆を起こしました。              (了)