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2017年2月6日

中華街たより(2017年2月)  『ヨハンセン』

井上 邦久

前号の『羅森(ローソン)』についての拙文を読んで頂いた方から、北欧系姓名の中国語転換についての詳しい教示があり、例外はあるものの「○○森」が多いようだとの確認をしていただきました。阿蒙森(アムンゼン)隊長、漢森(ハンソン)さんも身近になりました。また兄事する荒川清秀さんよりは、以前から清国人羅森の存在が気になっていて論考もしていたとの連絡がありました。、荒川さんは『近代日中学術用語の形成と伝播―地理学用語を中心に』(白帝社)に続く『日中漢語の生成と交流・受容』を愛知大学在職中に出版予定とのことを賀状で知りました。年明け早々に先賢からの刺激をありがたく思います。

横浜中華街を含めて旧居留地一帯は埋立地であります。大岡川の河口がほぼ南北に釣鐘状の内海となり、その釣鐘の底辺に当る部分に象の鼻のように堆積した砂洲が延びて、そこに漁民が生活していたようです。入江は釣鐘湾と呼ばれ、砂州の集落は横浜村となりました。

徳川幕府ができて間もない頃、江戸の石材木材商であった吉田勘兵衛が釣鐘湾を埋め立て開墾する許可を得ました。数々の困難を克服し(人柱になったとされる「おさん伝説」は、先月も関内ホールでミュージカル上演され、南区の日枝神社の祭礼にも残っています)1674年に公式検地がなされ「吉田新田」となりました。その後も干拓が進んでいたようですが、ペリー来航の頃は、未だ遊水地・沼地・湿地が残り、明治初期になってようやく埋め立てが終わったようです。現在の中華街は湿地であったことは先月に記しましたが、幕府が欧米人に指定した居留地も、決して良い土地柄とは言えなかったと想像されます。
また行政警備面の考慮からか、東海道の神奈川宿や保土ヶ谷宿から離れ、向かいを海、残る三方を大岡川や運河などで釣鐘状に囲まれた隔離された地域でもありました。
今もJR根岸線の関内駅から北へ伊勢佐木町方面に向かう吉田橋に関所跡があります。外国人居留地側を関内と呼び、外と区分していた名残です。
関東大震災で被害に遭った瓦礫を横浜港に埋め立てて整備した山下公園から中華街方面に向かう時、横浜村から干拓途上の湿地低地へ、なだらかに下っていることを体感しながら往時をイメージできます。

・・・むずかしく言えば、ヨーロッパやアメリカの資本主義が、壮大な世界市場を開発しようとして、まずインドを手に入れ、支那を手に入れ、今まさに日本を手に入れようと働き掛けている時だった。
いかに幕府や朝廷が、鎖国、攘夷を力説しても、歴史は一日一日とその反対の方向へ歩いて行っていた。早い話が、文化何年かに、黒船と見たら、即時打ち払えという法令が出たが、幾らも立たない天保何年かになると、薪水令が出て、外国船が薪や水を求めたならば、心よくそれを供給してやれとなった。
その前後には、アメリカと下田条約を結ぶし、イギリスとも結ぶし、いくら朝廷がその調印を不可としても、井伊直弼のような人物が現れて、横浜。長崎、函館を開港して、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、オランダと貿易を始めてしまった。(中略)生糸、茶、木蝋、海産物、樟脳、米、麦、銅などを外国船がドンドン積んで持って行った。開港後一年間で、日本に入った金が千五百万円くらいあった。大変な好景気が日本を見舞った。しかし、裏にまわると。利にさとい彼らは、ドル買いのアベコベで、一億円の日本金貨を買って、生糸や茶と一緒に本国へ持って行ってしまった。彼らは大もうけをしたが、日本は大損をした訳だ。・・・

長々と引用しましたが、これは最高学府の歴史学教授の文章ではなく、小説家小島政二郎の『円朝』(河出文庫)の一節です。

明治の人気落語家で、その新作落語の言文一致体は坪内逍遥先生に高く評価された(二葉亭四迷『余が言文一致の由来』参照)と言われる円朝師匠を庶民の視線で描いた愉しい小説です。その上巻の133頁に円朝が生きた幕末から開国の時代背景を「むずかしく言えば」といいながら、とても簡潔明瞭に綴っているので引用させてもらいました。1994年に100歳で大往生した人の用語に差し障りがあればご勘弁願います。

英国は「自由貿易」政策の下、清国に開国を迫るためにアヘン戦争を起こしましたが、その商業面の先兵がジャーデン・マセソン商会であったことは知られています。1842年の南京条約前後に広州から香港に本拠を移した後、中国名を「怡和洋行」と改めました。上海開港にあたり1844年に租界地の外灘1番地(現外貿大廈・中山東路27号)に本拠を築きました。続いて1854年に日英和親条約が結ばれると、1860年には、横浜居留地1番地に外資一号としてジャーデン・マセソン商会を設立しています。英国大使館の斜向かいの日本大通りの角地、海岸沿いの道を渡れば大桟橋も目の前の、飛び切りの一等地に所在しました。今でも「英一番館(English House No.1)」と呼ばれ、シルクセンターの脇に記念碑が建っています。

その東洋一の商会の日本支店で番頭として辣腕を揮ったのは吉田健三です。福井藩を数えの16歳で脱藩、大阪で医学、長崎で英語を学んだあと、1866年に英国船の雑役夫として密航に成功。英国で二年の修行を終えて帰国した時、徳川幕府は崩壊していました。吉田健三は帰国早々に英一番館で、生糸の買い付け輸出、軍艦兵器の輸入で大きな利益を商会にもたらし、三年だけ勤めてから退職する際に慰労金一万円が贈られています。その頃に、盟友である竹内綱(土佐藩士で民権活動家、初期の国会議員)の第五子(母親不詳)の茂を養子として貰い受けます。健三はその後、輸入製造業や市内太田町での醤油醸造業などで財を膨らましています。横浜屈指の富豪として40歳で逝去した時、唯一の遺産相続人の養子茂には、大磯の大邸宅も含めて、五十万円(現在の数十億円相当?)の財産を残したと言われています。

吉田茂について贅言は要らないと思いますが、戦前の済南領事時代に第一次世界大戦後のパリ講和会議に岳父牧野伸顕の随員として出席していること、天津・奉天の総領事を歴任した中国経験があること、英国・伊国大使を最後に軍部から干されて敗戦直後の外相就任まで浪人生活をしていること(巨額の遺産は蕩尽した、と麻生家に嫁いだ次女和子=麻生太郎の母の言)、そして太平洋戦争の開戦回避そして早期終結に奔走したらしいことを特記しておきます。
横浜の土地にアヘンの匂いのする英国資本主義が流入し、その流れに乗った吉田家の資金と教育により英米派の外交官・政治家が生まれた奇縁を感じます。父、吉田健三はジャーデン・マセソン商会で働き、養子の吉田茂は戦時下での特高警察や軍部の間では「ヨハンセン」という符牒で呼ばれて、自宅に官憲のスパイが潜り込んだことを見抜けず、1945年4月に逮捕拘留もされています。その「経歴」が戦後になって、占領国側からは英米派・反戦派として好感を得たとされています。

「ヨハンセン」は北欧系の姓名の場合、中国語では「約翰森」と書きますが、吉田茂の場合は「吉田反戦」の略だったと諸書に記されています。