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2017年3月5日

中華街たより(2017年3月)  『吉田博』

井上 邦久

 前号の『ヨハンセン』では、吉田新田開発の吉田勘兵衛、横浜開港期の富豪吉田健三、そしてその養子の吉田茂と吉田姓が頻出しました。そこに屋を重ねて、吉田姓を採り上げるのは止した方が良いのでしょうが、奇しくも最近じっくり風景画を観る機会があり、その画家の姓名が吉田博でした。勢いに任せて第四の吉田さん、吉田博の数奇で屈折した人生と画業の一端について綴ります。

戦後占領下の日本で、吉田茂首相がGHQのマッカーサー最高司令官と渡り合っていた頃、マッカーサー夫人は吉田博の豪邸を訪ねて、その作品を鑑賞購入しています。吉田博が年期の入った英語を駆使して、多くの米国人相手に版画制作のワークショップ(体験型講座)を主宰し、彼の超絶技法を伝えている記録と写真が残っています。講座のあとは賑やかな即売会だったことでしょう。
マッカーサーが初めて厚木飛行場に降り立ってすぐに「吉田博は何処だ?」と口にしたという伝説もあるようですが、その真偽の程は確認できないものの、米国における吉田博の知名度や人気がとても高かったことを物語る逸話でしょう。米国東海岸に在住中の友人に吉田博の評判を聴いたところ、「私は名前も知らなかった。しかし、検索したら直ぐにニューヨークの美術館での展覧情報が見つかりました」との連絡を貰いました。

1876年、旧久留米藩士の上田束の次男として久留米に生まれ、黒田藩の藩校であった修猷館中学(現福岡県立修猷館高校)に入学して間もなく、同校の図画教師であった吉田嘉三郎に画才を認められた上田博は、15歳にして吉田家に養子として迎えられ吉田博となりました。吉田嘉三郎自身もまた大分県中津の晴野家(中津藩の御用絵師の家柄)から吉田家へ養子に入り、4人の女児を得ていました。その吉田嘉三郎の勧めで吉田博は17歳で京都、翌年東京の画塾に転じて、「絵の鬼」と称されるほどの修行に努めています。その背景には、18歳の年に養父吉田嘉三郎が急逝し、上京してきた養母と4姉妹、そして養子縁組後に生まれた男児の生活を支える立場に追い込まれていたことがあるでしょう。
明治美術会展覧会への油絵の出品、横浜の外国人相手の山廼井美術店やサムライ商会(原三渓の知遇を得て横浜屈指の海外向け美術商となる。新渡戸稲造が社名を名付けたと言われる。現在横浜市南区大岡に所在する同名の刀剣専門商との関係は未調査)を通じて、水彩画を外国人に販売しながら(売れる絵を描きながら?)苦しい生活を維持していたものと推測されます。

一方、黒田清輝(薩摩出身)と久米敬一郎(佐賀出身)のフランス留学組が明るい画風の「新派」として注目を浴び、東京美術学校西洋画科の新設に関与し、時を経ずして教授に就任。そして黒田・久米の門下生たちは国費留学生として続々とフランスへ向かうという華々しい流れがありました。彼らは明治美術会を旧弊な存在として離反し「白馬会」を結成しています。

「絵の鬼」となって励んでも、フランスへの国費留学や美術学校登用の可能性が乏しい「旧派」明治美術会に属していた吉田博は「新派」への激しい対抗心と画才への自負心、そして何よりも生活の為に米国行きに活路を求めます。
横浜で絵を買ってくれた上に、東京まで訪ねて来てくれた東洋美術収集家のチャールズ・フーリア氏の紹介状を頼りに米国行きを決意。借金して片道だけの船賃を工面し、描きためた作品を携え、吉田博は同塾生と二人1899年9月27日に横浜港からサンフランシスコ経由でフーリア氏の住むデトロイトを目指しています。デトロイト美術館館長に作品を認められ、続いてボストン美術館でも展覧即売の機会を得て、勤め人の俸給十年分以上の収入を得ています。

その後、欧州各地を巡り、帰国してからは「旧派」を糾合する核心として黒田清輝と「白馬会」メンバー(吉田博は彼らを常に「官僚」と呼んだ由)との対峙が続きます。女流画家の先駆けとなっていた義妹の吉田ふじを(嘉三郎の次女。後に博と結婚)との米国・欧州への渡航により、海外での評価が更に高まったようです。

帰国後の様子は、漱石先生の『三四郎』第八章から抜き書きさせてもらいます。(中央公論「日本の文学」夏目漱石Ⅱ-132頁)

・・・長い間外国を旅行して歩いた兄妹の画がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つところに並べてかけてある。・・・「兄さんの方がよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。・・・

朴念仁なところがある三四郎と洗練された美禰子の感情が微妙にすれ違うシーンとして吉田兄妹による226点の帰朝特別展示会を利用しています。

1920年代に入って吉田博は木版画の創作に大きく舵を切って行きます。関東大震災の被災救済を目的とする第3回目の渡米の際、木版画が思いのほかに好評であった(或いは、水彩画の鮮度が落ちた?)ことや、幕末以来に流出した粗雑猥雑な浮世絵が米国では高値で取引されていたことから決意したとされています。帰国後、従来の常識を破って自ら版元となり、更には「自刻自摺」を目指して、自ら彫りや摺りの修行を今度は「版画の鬼」として行っています。そして、いわゆる超絶技法と称される『朝日』(1926年)『渓流』(1928年)などの作品に結実しています。同時期に描き、彫り、摺られた瀬戸内海風景シリーズも秀作ぞろいですが、中でも『光る海』(1926年)はダイアナ王妃が生前に執務室に飾っていたことでも話題になっています。

以上の事柄は、安永幸一氏による研究報告「近代風景の巨匠 吉田博-その生涯と芸術」や昨年来、千葉・郡山・久留米で開催された生誕140年展を準備された学芸員、研究者の著述に負うところが多く、またNHK「日曜美術館」で知ることも多々ありました。吉田博展は、久留米市美術館で3月20日まで、続いて上田市立美術館(4月29日~6月18日)、最後に東京損保ジャパン日本興亜美術館(7月8日~8月27日)で開催される予定です。

木版画への大転換をした理由は他に、若い頃から顧客が歓ぶ画、ありていに言えば良く売れる画を追求する姿勢(CS:Customer Satisfaction:顧客満足)が旺盛だったのではないか、更には市場変化にも敏感に反応できる(先読みし過ぎる?)資質によるものではないか、と勝手に推測しています。芸術至上主義や苦学清貧の中で作品(商品ではなく)を創造することを尊ぶ日本の風土には、自他相互に馴染まなかったかも知れないと愚考します。

また同じ時期に、二人の大切な人を失ったことも影響しているのではないかと考えます。一人は黒田清輝(1924年没)。吉田博が職人肌でビジネス感覚を持っていたのとは対照的に、黒田清輝は美術学校教授から帝国美術院院長、子爵として貴族院議員にまでなった一種の政治家としての生き方をしています。「黒田清輝を殴った男」と喧伝されていた吉田博としては負けじ魂のぶつけ先を失い寂しくなったのではないかと深読みしています。

もう一人は小林喜作(1923年没)。北アルプスの「喜作新道」を開いた人として有名です。筑後浮羽での幼少期から高い処が好きだった吉田博は、小林喜作の案内で大規模な登山行を続けています。最良の場所で最適な気象と時間のもとで山岳画を描いていますが、小林喜作の死後は山の画が激減しています。

 

横浜港に到着した外国人が、ホテルに逗宿する前に吉田博の画を求めて扱い店に直行したという逸話が残っています。明治の陶芸家である宮川香山の真葛焼(横浜焼)の人気も同様に語られていて、大桟橋から南太田の窯元まで人力車が活躍したようです。欧米から宮川香山作品の買戻しに苦労された田邊哲人氏のコレクションを観ると、確かに超絶技法の点でも吉田博の作品、特に版画に共通するものを感じました。吉田・宮川とも欧米での人気に比べて国内では地味な存在であったことも似ています。久留米駅前で地元出身の青木繁や坂本繁二郎に関する大きな案内看板を目にした後で、吉田博の作品は久留米市美術館に一枚も収蔵していないと云う学芸員の率直な説明に驚きました。

吉田茂には莫大な遺産と教育機会というストックがありました。
吉田博には強烈な意志と行動主義というパッションがありました。
吉田博の行動力には開港横浜の進取性開放性が寄与していると感じます。当然、横浜美術館には作品が収蔵されています。(了)