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2017年7月12日

中華街たより(2017年7月)  『羅森 Ⅱ』

井上 邦久

梅雨入り宣言のあと好天が続きました。独房から退出した日も好天でした。朝一番に来室された主治医が「おめでとうございます」と言ってくれたのは、丸一か月に及ぶ入院生活を経て無事に送り出せた祝意と、関節手術患者を見送るには足元が悪く、傘が要る日を避けたいという職業的な配慮からのことと理解しました。どちらも有難いことでした。
リハビリと節制に努めつつ、主治医の「生活の中から恢復するのが自然」という言葉と友人の医師からの「社会的統合を目指せ」という励ましを旨に、日にち薬を呑んでいます。

術後初出社が1974年4月から続いた会社勤めの最後の出社でした。パソコンとIDカードそしてバッジを返し、年金手帳を受け取りました。その足で京都へ向かいハートフル京都での第311回日文研フォーラムの最前列の席を確保しました。

今年は日文研設立30周年の記念行事が続いていて、一か月前に催された梅原猛初代所長が磯田道史准教授を聴き役にしての講演は大きく報道されていました。
当日は、日文研研究員である劉宇珍南開大学・外国語学院(中国)教授が「筆談で見る明治前期の中日文化交流」と題して日本語で講演をされ、コメンテーターの劉建輝日文研副所長と司会の佐野真由子准教授との鼎談が続きました。日中比較分野の両雄と称されるお二人の劉先生の穏やかな口調での鋭い分析に強い刺激を受けました。筆談による交流は、清国初代公使の何如璋や参賛官の黄遵憲等と元高崎藩主の大河内(松平)輝声とのものが知られています。武蔵国野火止の平林寺に長く埋もれていた筆談録をさねとうけいしゅう(実藤恵秀)氏が掘り起こして戦時下に公刊。戦後になって「東洋文庫」に『大河内文書 ―明治日中文化人の交流』として納められました。学生時代、恩師の桑山龍平教授がこの筆談記録の一部を授業テキストとし、日中交流史の一つのカスケードを示唆してもらってから細々と水源を辿ってきました。

(黄遵憲については、2015年5月に「shanghai」と題した小文を綴りました。http://www.shanghai-leaders.com/column/life-and-culture/inoue/

若い頃からのご縁があるテーマであり、今回のフォーラムには必ず参加したいと念じていました。オーバーホールを済ませた病院や勤め先から退出して再入学した感じでした。
蘭学・英学は漢文に載って流入してきた、中華尊崇意識が過剰で筆談紙を表装までして残す日本人と書き散らしたままの中国人、不遇の漢文派(佐幕派、アジア主義者)は中国に自らの夢を仮託した、そこには「和臭」の気配も、そして日清戦争を境にして筆談交流も消滅・・・一つ一つをじっくり聴きたくなるような問題提起が両雄から次々に放たれました。その中で、劉建輝副所長が羅森の名前を挙げて、ペリーの対日交渉に漢文力で参画したことを語られました。
年初に『羅森』と題した拙文で、日米外交史の陰で交流に貢献した清国人を取り上げたこともあり、更に身を乗り出しました。

羅森(ローソン)ヨハンセンから吉田茂、吉田博と、開港横浜に材を採った文章に欧米人や欧米に縁のある日本人をテーマにしたため、この半年間は中華街から離れていました。
今回、劉建輝さんから「羅森」のその後はどうしたの?と背中を叩かれた気がしました。

東アジアの漢字文化圏でのみ有効である筆談。明代に朝貢した朝鮮・琉球等による筆談記録もあり、古くから国際交流の大切な手法であったのは事実でしょう。幕末第一回目の幕府派遣の「千歳丸」で上海に渡った高杉晋作も五代友厚も漢文筆談を通じて国際性を磨き始めたと思われます。漢学素養と実用性が合致して国際性に繋がる非常に幸福な一時期でした。しかし二十世紀を迎えるまでに欧米系語学の浸透、日清戦争、清国の衰退、中国人留学生の70%が日本留学を経験するといった時代の変化がありました。欧米語や日本語の比重が高まるにつれ、相対的に漢文筆談や中国語通辞に重きが置かれなくなったとされます。また、政府の欧化政策、フランス法学、ドイツ医学などが体制の主流になる反面で、藩閥政府に相容れない民権派やアジア主義者が、母国では実現しそうにない見果てぬ夢の出路を大陸に求める際に、漢文筆談が使われた事跡筆跡が残されているようです。

これらのことをフォーラムで教わり、啓発を受けながら、次のことを思いました。
日米和親条約は英語・蘭語・漢語の三か国語で筆記締結されていることから、羅森氏は面目躍如であり、日中米の狭間で実に幸福な個人的存在であったと思います。
劉建輝氏、劉宇珍氏は卓抜した日本語能力を努力によって獲得され、学識や実力を加えて、日中双方の文献を渉猟解読することを可能にされ、豊かな比較文化・比較文学の研究世界を実現されたと感じます。
翻って自らの企業通訳としての生活を顧みるに、技術も見識もはなはだお粗末でしたが、一方で時代の変遷と中国各地の地勢を垣間見てきたのも事実であり、これからその体験に幾分かでも系統だった知見を肉付けできれば幸いだと思っています。

6月22日、午前に術後二か月検診で順調な恢復を確認いただき、午後には立命館大学で今年も実務者講座のお話をさせてもらいました。対象者が経営学部の高学年300人であることを意識した準備をしました。質疑応答が活発であり、質問者や授業後に話しかけてきた学生の多くが中国人留学生であったことが興味深かったです。足腰の状態を懸念された教授が椅子の準備をしてくれましたが、気が付けば最後まで立脚講義ができていました。

6月30日から豪雨と台風の隙間を縫って、里帰りをしてきました。徳山・中津・宇佐・大分を巡り、お世話になった方々への報告と御礼、法要と墓参の旅でした。宇佐では豊前一宮の宇佐神宮で御礼参り(脚部手術を決めた時に、京都の護王神社を訪ねてお守りをもらいました。和気清麻呂が道鏡による政治壟断を排するために、宇佐神宮の託宣を受けに行く途中、足が萎えたところを猪の群れが助けたという故事があります。それに因り和気清麻呂を祭る護王神社は狛犬の代わりに猪がシンボルになっています)と双葉山記念館を訪ね、小さな大相撲ファンクラブの理事長職を後進に譲ることを報告しました。

10歳の冬、いきなりコンセントを引き抜かれたような形で離れた故郷に、漸く穏やかな気持ちで戻り、今後は「一豊前人として生きる」自覚をしました。旅装に忍ばせたのは、劉建輝氏の『増補 魔都上海 日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫)でした。

(了)