ブログ

2017年12月8日

中華街たより(2017年12月) 『KAITEN』

井上 邦久

毎年11月半ばに九州、山口へ巡業しています。今年は初夏の渡米直前に、父祖の地の豊前で「掃墓(墓参り)」を済ませたので、秋は北九州の大学院への出講を軸にして、徳山で原田茂さんらと出版に関する面談と「探親(里帰り)」をしました。

「はや顔にうつろひにけり初紅葉」のラベルを貼った一升瓶は父親の晩酌用地酒として小学生時代から見慣れていました。周防徳山の地で文政年間から200年近く続く銘酒醸造元が「(株)はつもみぢ」であり、その社業をご長男に譲られた相談役が原田茂さんです。大阪へ転校するまで暫く通った徳山高校の同窓生と新宿の郷土料理店「はつもみぢ」で会食したこともあり、勤め帰りには日本橋堀留の「福の花」人形町店で長州の味を愉しんできました。酒は『原田』と決めていました。博多湾に浮かぶ能古博物館の「城代家老」の友人と会食した時に、日本酒談義となり「中国大陸では中谷酒造(天津)の『朝香』、国内なら『原田』を嗜みます」と話したことがきっかけになり、別の御縁も加わって、二人で徳山の原田茂さんをお訪ねすることになりました。

2月12日、徳山高校OGの伊東敏恵NHKアナウンサー(当時は「日曜美術館」担当。徳山の名医のお嬢さん)の講演会会場で合流。社長の案内で醸造現場の見学後、早い時間から『原田』を前にして、「無言館」(窪島誠一郎館長が野見山暁治画伯と全国を回って収集した戦没画学生の遺作を展示する目的で信州上田に設立。「北京たより」2014年11月『秋休』の旅で訪問)への20年以上に及ぶ原田家の静かなる情熱について伺いました。長兄の原田新氏は東京芸術大学を繰上げ卒業して中国戦線から南太平洋ソロモン諸島へ転戦し、1943年8月に輸送船が米軍機の攻撃により沈没し戦死されています。

その翌朝、中学校の同級生で、防衛大学に進み、イージス艦の艦長まで務めた自衛官OBも加わり、徳山湾内の大津島に渡りました。回天顕彰会会長も務める原田茂さんと同級生の案内で回天基地跡、記念館を巡りました。これ以上は望めない水先案内のお二人のお蔭で、半世紀ぶりの戦跡・戦史の見学が中身の濃いものになりました。

大津島回天基地に春の波

島を発ち七十幾年未還の春

春名のみ島に百余の墓標あり

その後、原田茂さんが7月17日に投函された懇切なお便りと多くの資料を拝読したのはボストンからの帰国後でした。「無言館」開館20周年関連取材、東京芸大「奏楽堂」での戦没画学生作品展で原田新氏の自画像と初対面、地元の俳人である兼崎地橙孫の顕彰などの近況報告とともに、米国人が著した回天関連著作の翻訳出版について以下のことを熱く綴られ、交信のコピーが添えられていました。
原著『KAITEN』(マイケル・メア、ジョイ・ウォルドロン共著)2014年5月の初版。マイケル・メア氏の父君は米軍艦「ミシシネワ」乗組員。1944年11月9日、特別攻撃隊菊水隊を搭載した潜水艦は大津島の回天基地を出撃。11月20日、カロリン諸島ウルシ―環礁に停泊中の「ミシシネワ」は回天の攻撃で撃沈。米海軍67名が戦死。仁科関夫海軍中尉戦死。戦死を免れたジョン・メアは、亡くなる前に子息マイケルに「ミシシネワ」と「回天」について記録出版することを約束させ、マイケルはそれを実現した。しかし著者二人は、日本語への翻訳と出版をしてこそ意義があるとして、伝手をたどって回天顕彰会会長の原田茂さんに出版依頼した。翻訳業務は公益財団法人水交社の協力を得て進行している。しかし印刷出版についてはどこにも引き受けてくれる会社はない・・・という内容でした。

すぐに徳山と福岡に連絡を取り、11月14日に2月と同じ三人で面談することが決まりました。徳山駅到着直後の昼食の席、挨拶もそこそこに原田茂さんは11月8日に発行されたばかりの『KAITEN』翻訳本を渡してくれました。どこの出版社が引き受けたのかと奧付を見ると、「定価 2,700円 発行:回天顕彰会 山口県周南市飯島町1丁目40番地 はつもみぢビル3F」とありました。
原田茂さんの「やる時にはやる」という信条の真骨頂を改めて見せて貰いました。「家には1000冊以上届いている。これから売っていかにゃ。お宅らからも代金を貰いますよ」と呵々大笑されました。
瀬戸内の魚と『原田』を愛でながら、酔後のぼんやりした頭でNHK夜9時ニュース番組の有馬嘉男キャスターも徳山の名刹禅寺の出身、国際的なボランティア僧侶として著名であった父親の跡を継いで、国際記者としてのキャリアを積んだ人だと教わったことを思い出し、有馬キャスターに日米合作の『回天』を読んでもらってはどうであろうかと愚考しました。

遺志を継ぐ意志勁き人汗光る

控えめに岐山彩る初もみぢ

無言でもやる時はやる新走り

先の大戦の最終段階においては、後の感覚や常識では到底ついていけない発想や行動が生まれ、それを不条理なことと切り捨てるか、或いは不合理ゆえに純化して賛美するか、乖離の幅は広く、単純ではありません。11月26日付の朝刊投書欄に奈良県在住の86歳の男性が14歳の春(1945年)に、死を覚悟して海軍予科練習生に志願したことを振り返り「親不孝の馬鹿者」であったと綴っています。豊前の旧家「姫路屋」では、秀才の長男は理系進学をして「安全地帯」で火炎放射器の研究をしながら終戦を待ち、熱気溢れる次男は予科練を志願して母姉を嘆かせた、と聞いています。               (了)