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2018年1月9日

中華街たより(2018年1月)  『井上茶舗』

井上 邦久

開港後の横浜港から海外向けに輸出された品目として、よく知られているのは生糸と緑茶であります。
甲州・秩父・信州・上州などの生糸が八王子に集められ、輸出窓口の横浜港まで運ばれていました。八王子と横浜の中間に位置する町田は宿場町や中継地としての機能で賑わったようです。町田駅から町田版画美術館へ向かう道のあたりが、宿場町の本町田、物資中継地の原町田地区です。

小田急線町田駅近くの旧街道沿いには、石碑と説明板があります。石碑には「絹の道」と書かれており、「一帯一路」のシルクロードを連想させます。「鎌倉街道」「町田街道」そして「浜街道」と呼ばれた交通の要所ですが、「絹の道」という命名は生糸が町田を通過しなくなった戦後になってからとのことです。
町田は横浜シルクのブランド、富岡製糸場などとともに開国開港に繋がる歴史的な場所として知られてよいと思います。ナイロンが普及してシルク需要に影が差し、横浜鉄道(現在のJR横浜線)の開通により街道機能が失われ、生糸や土地の記憶も薄れていったのでしょう。

次に緑茶について書きます。年末に個人的な発見がありました。
12月12日、第316回日文研フォーラムは歴史学者のロバート・ヘリヤー(Robert Hellyer)氏による「『Japan Teaブランド』の構築―太平洋を渡った緑茶」の発表があり、熊倉功夫氏(MIHO MUSEUM館長・和食文化国民会議名誉会長)がコメンテータ、佐野真由子氏(日文研准教授)が司会を務めるという贅沢な構成でした。

江戸時代の長崎で欧州向けに緑茶輸出が細々と為されていたようです。横浜・神戸開港後の日本緑茶輸出の伸長は目覚ましく(181㌧/1859年→226㌧/1860年、4500㌧/1968年)、国内生産量のほとんどが輸出に回され、そしてそのほとんどが米国向け。その背景には開港したばかりの日本への高い関心と、それ以前の市場を独占していた中国緑茶への敬遠が背景にあった模様です。
映画『静かなる情熱』で、詩人のワズワ-ス牧師の夫人が、宗教的な理由から客先でのお茶を断るシーンで「私は中国人に生まれなくてよかった」と水を所望していたのを思い出します(冗長な説明は省きますが、1860年~1862年の事と推定されます)。

その後、米国の貿易商の資本投下により横浜・長崎・神戸に製茶工場が作られ、中国人技術者の指導でプルシャンブル―着色精製が為された(中国茶葉の着色精製加工は現在に至るまで行われることもあるようですが、不詳)、そして日本での生産供給態勢が整い、対米主要品目として増加します(18,000㌧/1890年、20,000㌧/1913年)。1893年のシカゴ万博に初展示するなどの積極的な市場開発が進み、「Japan Tea」ブランドの地歩を固めています。
米国(資本・販売)・中国(技術・貿易)・日本(生産・労働)の「協力」が幸福な産業発展に貢献した時期の代表的な商品が緑茶でした。

その後、1890年以降のセイロン・インド紅茶の進出、珈琲文化の浸透に加えて、日本製品へのネガティブ・キャンペーンも相まって、緑茶輸出は大打撃を受けます。しかし、1923年には10,000㌧前後にまで急減した輸出産業を救ったのは、意外にも日本国内市場であった、というのがヘリヤ―氏の発見でありました。
寺や上層階級の喫茶茶道の需要は別にして、庶民が茶舗で緑茶を購入して、家庭で急須に淹れて飲む、という習慣は、どうやら大正から昭和の初めにかけて、広まったようです。それまでは自らの畑の茶の木から茶葉を得るか、白湯を飲んでいたとの説です。

国内生産数量の拡大と対外輸出数量の減少による供給過多のところに、消費経済の勃興による大衆文化の変化があり、その一つの事例としての緑茶購入という新しい購買活動が生まれたということです。
豊前中津藩の両替商「姫路屋」がどんな経緯で昭和の時代に茶舗を営むようになっていたのか?何の疑問も感じないお茶屋の子供は隠れん坊遊びで茶箱に潜り込んでいました。茶箱に残った緑茶の匂いや店先で焙じるほうじ茶の香りは「失われた時」を思い出させます。

ところがヘイリー氏の発表や熊倉氏や佐野氏との対話を通じて、両替商から茶舗への移行の時代背景が浮かんできました。すぐに親しい叔母に問い合わせたところ、江戸の両替商は明治の質屋となっていたが、嫁いできた祖母が「店に来る客が一様に辛く苦しい顔をしているような商売は嫌だ」ということから、大阪で貿易商を営む縁戚の伝手で宇治茶を仕入れ販売する茶舗を始めた、という家の歴史を初めて知りました。

ベランダの隅に一個だけ残しておいた茶箱には「山城国宇治町 芳春園岩井本店」とありました。祖父母の第一子である伯父が1922年戌年生まれなので、家業の茶舗への転換はやはり大正末期から昭和の初めのことと推測されヘイリー氏の分析に合致します。九州豊前の小都市の中津では、緑茶を買って飲む時代の潮流に乗り、宇治からのサプライチェーンを獲得できた一種のベンチャー企業であったのかも知れません。

その後、緑茶輸出は1991年に253㌧まで減少し、開港当時の振出しに戻りました。ビタミンCが豊富な緑茶は健康志向に適し、高い品質管理も要求される、一方海外では空前の和食ブーム、この願ってもない環境にありながら、和食には日本茶という文化を海外に紹介していないのは遺憾であり、「和食+日本酒」や「抹茶スイーツ」の次には、「和食+日本緑茶」という文化を広めていかねばと思います。
ただ、おひざ元の日本の食生活や流通の変化により一般消費者の緑茶葉需要は減少、お茶はペットボトルで飲むものという習慣が増加しているのが実情でしょう。
漢字検定一級の読解問題として「急須で淹れる」が出されるかも知れないと、お茶どころの富士市在住の友人から贈られた緑茶を味わいながら夢想しています。                             (了)