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2018年2月6日

中華街たより(2018年2月)  『なぜ大阪に中華街はない?』

井上 邦久

小走りに時は過ぎゆきはや二月

日本の正月が終わり皆既月食で大きな赤い月を拝んでから、徐々に月が小さくなっています。そして春節がやってきます。
今年は西暦の2月16日が初一(月暦の元日)です。かつての中国では、帰省ラッシュが始まり、春節の飾りつけや爆竹を買ったり、散髪に行ったりするのが庶民の年越し風景でした。今では長期の休暇を利用した海外旅行と仮想通貨の話題が多いようですが。
月暦1月15日、元肖節の満月の夜までは春節の気分が続きます。春節は最も寒い時期であり、日本では二月の閑散期に当たるので中華圏からの来日観光客はありがたい集客の塊となります。
横浜の中華街は例年通り、神戸南京町では「南京町生誕150年」「第30回春節祭」と銘打って書き入れ時となります。大阪の天王寺公園で「第2回天王寺春節祭」という三日間だけの一過性のイベントが催されるようですが、大阪の在日華僑系の皆さんの関心は高いとは言えないようです。

古い時代からの博多や長崎の唐人町は別格として、幕末に開港した神戸には南京町、同じく開港由来の横浜中華街は今も活況を呈しています。また最近では、東京の池袋北口や大阪の日本橋付近に、港湾業務とは無縁の中国人街が拡がろうとしています。
各人の経済的動機と各時代の背景を負った中国からの来訪者や移住者の拠点となり、機能を拡充していったChina Townは世界各地にあり、サンフランシスコ、バンクーバー、そしてボストンと多くは伝統的な港湾都市に所在しています。

米国ペリー艦隊の浦賀来航時に交渉通辞として随行した広東人の羅森を嚆矢として、幕末明治期の横浜や神戸には多くの中国人がやって来たことは昨年に複数回にわたり書きました。
中国人は、西欧人と日本人の間を取り持つ通訳業に始まり、執事や貿易実務を担い、更には資本を蓄えて緑茶輸出などの事業展開を図ったという機能のお話でした。
昨年9月5日まで、日経新聞に連載された伊集院静の『琥珀の夢 小説鳥井新治郎』には大阪から神戸在住の欧米系貿易商の豪邸に売り込みに行き、中国人執事に翻弄されながらも販路を開拓していく、サントリー創業者の若き日の姿が描かれています。
それを読んで、なぜ大阪商人が神戸まで足を運んだろうか、大阪には欧米や中国の商人が居なかったのか、そして同じ幕末に開港した横浜や神戸のような中華街がどうして大阪には存在していないのか、という素朴な疑問と好奇心が生まれました。

難波津と称された時代から、大阪は大陸との交易や北前船による廻船取引の中心地であり、商業の発展した町であったことは言うまでもありません。そして、横浜に十年遅れたとはいえ、1868年(慶応4年)に大阪は開港されています。これに合わせて、安治川河口の川口地区に居留地や税関(運上所)が設けられています。
開港への大きな期待からか、大阪府庁や大阪市役所が川口居留地と木津川を挟んだ目と鼻の先の江之子島に建てられています。当初、大阪居留地は人気を集め、海外や神戸から欧米系の貿易会社が転入しています。
商人に続いて宣教師が定住し、キリスト教会や教育施設が建てられます。おそらく中国人が様々な仲介役として活躍していたことでしょう。
居留区を核にした、主要官庁や外資系商社、教会や学校がそのまま順調に発展していけば、大阪市街の様相は現在と異なり、西寄りのウォーターフロント地区が政治・経済そして文化の発信中心になっていたものと思われます。そして横浜に負けない中華街文化も大阪に根付いたのではないかと夢想します。
ところが、内外の期待も空しく、居留地の拠り所の安治川水系の浚渫が進まず、その結果大型外航船の大阪への寄港が激減し、貿易商は神戸へ転出していったとされています。
残った居留地にはキリスト教系の施設(平安女学院・プール女学院・大阪女学院・桃山学院・明星学院などの前身)が並んでいました。しかし、キリスト教文化や教育の発信地としての存在も短い期間のこととなり、1897年に天保山で築港起工式、1898年に川口居留地廃止という流れの中で、教育施設の多くは京都や上町台地方面へ移転していきます。
強い西風・緑化の遅れ・不便な交通・大阪中心部の整備進捗などの理由も挙げられていますが、ここに川口の居留地文化そして中華文化は終焉したものと思われます。往時の華やかであったであろう記憶は薄れ、現在はみなと通りに面した本田小学校の脇に、居留地跡記念碑と居留地地図を刻したプレートが僅かに時代の足跡を伝えるのみです。

一方では、日清戦争を経て、1903年の築港大桟橋の完成(第一次築港事業は1929年まで継続)を見て大阪港の貿易港としての機能や存在感は高まりました。アジア向けの対外貿易の主要港として、1930年代の大阪港は横浜港・神戸港を貨物取扱高で凌駕していました。
そして、その貿易業務の主体は日本企業であり、貿易実務や英語を習得した日本人が実務をこなしていたと想像され、欧米系の貿易商の存在感や中国買弁による仲介の必要性は、幕末明治初期に比べて低減していたものと推察します。
以上の事から大阪には中国人の定住者や資本の蓄積が神戸や横浜に比べて少なく、中華街もなかったのだろう、という仮説に至りました。
ところが、大阪港湾振興会が主宰されている港湾関係組織や企業の皆さんの勉強会「泊り火会」で、各位に「大阪中華街」について尋ねました。どなたもご存知ない中で、港湾同盟会長から、「大阪に中華街があった」とお聴きして、驚きました。
その後、川口や九条地域を歩いて地元の人に尋ね、五感+αを頼りに往時を想像していますが、中華街の痕跡は容易に判明しません。貿易商やキリスト教関係者が去った跡地に中国人が集団で居住した、本田に南北二つの会所があった、日中戦争や大空襲で中国人の多くは国内外に去って行った、といった断片的な事柄を知りましたが、あまりに茫洋としており、続けて調査を深めたいと思います。

2008年から2009年にかけて、毎日新聞大阪版に「わが町にも歴史あり…知られざる大阪」と題する連載を、松井宏員記者が丁寧な町歩きをもとに残しています。川口居留地についての詳細な記述はとても参考になりました。ただ中国人の足跡や中華街については多くを語らず、松島遊郭の方向に流れているのが残念です。

本田小学校からしばらく歩き、修復された日本聖公会川口基督教会から北へ歩を進めると土佐堀通りは近く、YMCA土佐堀校がそこにあるのも納得します。宮本輝の小説、小栗康平監督による名画『泥の河』の舞台もこの辺りで、湊橋のたもとには文学碑もありました。まさに泥が港の機能を低下させ、経済の主体が一気に転出離散していった歴史に資本の論理の厳しさを感じます。

150年前の開港直後に、港側の施設の造成に眼を奪われ、湊側の機能低下への対策が後手になったことに、日本の行政に散見される或る種の本末転倒の事例が見えてきます。                         (了)