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2018年3月10日

中華街たより(2018年3月)  『戌の話』

井上 邦久

西暦の2月16日の月暦(農暦)の春節初一から戌年となります。2018年1月1日から2月15日までに生まれた児は酉年になる理屈であり、実際その習慣が中華圏では主流のようです。戌の時刻は19時から21時、方角は西北西。十干十二支では60年ぶりの戊戌(つちのえ いぬ)です。

前回の戊戌は1958年で、長嶋茂雄がプロ入りして新人王獲得、東京タワーが完成し、皇太子と正田美智子さんの婚約発表、翌年には東京オリンピック招致が決定しました。OMOTENASHIという余裕もない貧しさの中でも、ほのぼのと暮らして西岸良平の漫画『三丁目の夕日』の時代でした。

そして前々回と言えば、
1898年の戊戌の変法・戊戌の政変の年。日清戦争に敗北後、日本の明治維新を範とした政治改革を目指そうとした康有為や梁啓超らが光緒帝を擁して試みた近代化が「変法」であり、その拙速さに加えて日本や欧米列強に隷属することに疑念を抱いた西太后が保守派の支持を集め、袁世凱の寝返りを機に光緒帝を幽閉して、権力を奪取したクーデターが「政変」です。「変法」から「政変」までが短期間で「百日維新」とも揶揄されています。
亡命した康有為や梁啓超は東京や横浜を拠点に清朝の改革を目指すも、一筋縄ではいかず、康有為はカナダへ(日本政府による厄介払い?)。梁啓超は横浜中華街に居住し、『新議報』創刊などの言論出版活動で内外に影響力を発揮しました。

梁啓超については、福沢諭吉の影響や陸羯南との筆談録に残る交流など興味深い事柄もあり、(『梁啓超の日本亡命直後の「受け皿」』田村紀雄 陳立新/東京経済大学人文自然科学論集 第 118号)戊戌の内に纏めたいと思います。

 

2月10日、いわき市で天田愚庵と陸羯南に関する講演会がありました。
陸羯南研究の第一人者の高木宏治さんが、北京から一時帰国して行った講演を地元の愚庵顕彰会の皆さんに混じって拝聴しました。

愚庵の本名は天田五郎。戊辰の役に際し、旧幕側の磐城平藩の藩士として敗れ、戦火混乱のなかで家族が行方不明となり、終生その跡を追うことになった。上京して山岡鉄舟門下となり、佐賀の乱の渦中・西南戦争の前夜の九州を歩き、司法学校時代の陸羯南らと知己を得た。
山岡鉄舟の紹介で清水の侠客山本長五郎に預かりの身となり、養子に乞われて山本五郎と名乗った時代もあるが、任された富士山麓開墾・茶園経営に失敗し山本家を去った。
その後、新聞出版分野で活動していた時代に新聞「日本」の陸羯南を通じて正岡子規を知ることになり、子規に短歌を教えたとされる。
また清水時代の義父を題材に『東海遊侠伝』を著したことにより「清水次郎長」の名を広めた。晩年は京都で仏門に入り愚庵と号し、産寧坂、伏見桃山に庵を結んだ(現在いわき市に移築。立派な家でした)。嵐山を望む鹿王院、寺の人の案内で辞世の短歌が刻まれた愚庵の墓にも参りました。

天田愚庵より一回りばかり年下の文学者に内田魯庵がいます。そして魯庵の作品に『犬物語』があり、青空文庫(インターネット電子図書館)で偶然出会いました。まさに井上が歩けば犬に当たった感じです。

犬の独白形式で、先ず犬の先祖「ドール」に関する蘊蓄、「ドール」の風貌を最もよく伝える日本犬としての矜持、歴史上の愛犬家としては北条高時と徳川綱吉を高く評価、黒船以降の外国種礼賛を批判、返す刀で国粋主義の世間知らずを揶揄・・・と大気焔。続いて飼い主の令嬢(容貌は番町随一おそらく東京随一)に言い寄る男どもへの痛烈な批評が述べられます。

華尾高楠(はなおたかくす):大学学士で某省高等官

御園生草四郎(みそのくさしろう):留学生候補の学士。私立学校講師

大洞福弥(おおぼらふくや):自称青年政事家・某新聞のバリバリ記者。

荒尾角也(あらおかくなり):文芸評論家。某新聞の文芸欄担当

神野霜兵衛(かみのしもべい):耶蘇教の坊さん

鍋小路行平(なべこうじゆきひら):京都の公家伯爵の公達

・・・我こそと己惚れの鼻をうごめかして煩さく嬢様の許へやって来たのは斯ういう連中だね・・・旦那の仰る通り日本のようなまだ男女七歳にして席を同ふせざる封建道徳の遺習が牢乎として抜くべからざる国で、若い女の許へノコノコサイサイやって来るのはどうせ軽薄な小才子か、女の御用を勤めて嬉しがる腰抜の無気力漢(いくじなし)だ・・
何が一番腐敗しているのだろうと云ったら政治家と宗教家だね・・・もう既に社会に落伍して居るのだが、忌がられやうが棄てられやうが一向係はず平気の平左で面の皮を厚くしているのが恐ろしい。政治家と宗教家の評判は口を酸っぱくするだけが馬鹿げ切っておる。

といった調子で犬の口を借りて言いたい放題です。

当然ながら夏目漱石の『吾輩は猫である』を連想することになりますが、何と『犬物語』が1902年に出版された小説集に盛られており、夏目漱石『猫』は
1905年に書かれています。『猫』のタイトルを『吾輩は猫である』とし、俳句誌「ホトトギス」への連載を漱石に慫慂した高浜虚子のような編集者や助言者が内田魯庵の側には居なかったのが悔やまれます。素っ気ない『犬物語』ではなく『吾輩は犬である』と題していたら文壇史も変わっていたかと妄想します。

警察、軍用、救護、盲導、麻薬の後ろには「犬」が付き、「猫」では無理があります。また番〇、忠〇、名〇の〇に「猫」では落ち着きが宜しくありません。二つの小説の違いは「犬」と「猫」の本質的な機能の違いから来るものがあり、加えて人間との距離感が異なることから生まれる要素がありそうです。

戌の年初めに北京で開幕された大会議を伝えるライブ中継を上海で眺めて、「犬」と「猫」について色々と他愛もないことを感じていました。

(了)