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2018年5月26日

中華街たより(2018年5月)   『大阪川口華商』

井上 邦久

大阪郡部の府立高校を卒業してから、転居や単身赴任の生活を繰り返してきました。最後の海外駐在地となった上海から、最後の単身赴任地の横浜を経て、少しボストンに寄り道してから大阪に帰還しました。
勤め人生活を卒業し、大阪に定住してから一点気になることが芽生えました。上海では旧租界地の匂いを感じる街角を色々な目的で歩き回り、横浜では旧居留地で知られる関内の横浜公園に近い中華街福建路で、様々な中国語を聴きながら暮らしていました。
上海帰りや横浜暮らしの気分が抜けないまま、なぜ大阪に中華街がないのだろう?と、少し寂しく感じ、かなり不思議に思うようになりました。
1868年に大阪は開市・開港しています。1月1日の開市(借地居住+交易)、9月1日の開港(開市に加えて船舶寄港)の対外開放が、列強からの圧力と大政奉還や戊辰戦争の渦中で行われています。
それ以前に開港した横浜や、大阪とほぼ同時期に開港した神戸に現存するような南京町や中華街が大阪には元々無かったのか?存在はしていたけれど無くなってしまったのか?という素朴な疑問と好奇心に加え、心身のリハビリも兼ねて「大阪中華街」探索を始めました。

ペリー旗下の黒船が二度目に来航した折に、羅森という広東人を通訳助手として帯同した事が嚆矢となり、欧米諸国と日本との間の政治折衝や貿易取引に中国人が貴重な仲介機能を果たしていた事を調べたことがあります。
江戸時代、特別区としての長崎に居住して貿易取引を担っていた中国人に加えて、幕末の開港地に買弁と称される貿易仲介の専門家や職人・料理人・労働者たちが南部の広東省・福建省から入りこみ、長崎華僑に続く次の世代の定住華僑層を形成しました。
開市・開港した大阪に於いても、安治川や木津川に挟まれた川口地区に居留地を設けて修好条約を結んだ欧米国人に競売し、その周辺地域に中国人が住んでいたようです。日清修好条規の批准発効(1873年)まで中国との正式国交がなかったので、欧米人の「召使」「客分」扱いとして、中国人の上陸を黙認していた時期もありました。
開国当初の日本人の多くは、官民とも貿易知識も欧米語能力も海外情報も欠けており、欧米商人からは赤子の手を捻るような存在だったのではないかと推測します。それ故に中国人の(通辞や筆談による)介在が必須だったと思われます。
因みに新政府の大阪外事方の責任者、初代運上所長(税関長)は五代才助(友厚)。彼は幕末の薩摩藩時代に上海へ千歳丸の水夫として渡航に成功し、1865年には藩命により英国や欧州を公式訪問しています。
川口には一区画250~300坪の居留地26区画が造成され、欧米の商会とその経営者の住宅が建てられ、ガス燈や並木歩道も整備されました。大阪造幣局に於ける近代工業の萌芽と並んで、川口居留地から大阪の文明開化が始まったとも云えるでしょう。木津川を隔てた対岸の江之子島に新設された大阪府庁の正門は港や居留地に面していて、大阪城方面の旧市街には尻を向けています。
しかし、五代友厚の築港計画など新政府の努力や海外貿易商の期待も空しく、泥の河である安治川の浚渫事業は困難を極めたようです。
沖合から運上所のある川口波止場までの積替え搬送が必要な大阪港に寄港する大型外洋船数は開港早々に激減しています。また大阪港・居留地の管理が神戸よりも厳しかったこと(神戸港や兵庫県の責任者になった伊藤博文は融通が利いた?)、更に1874年に阪神間に鉄道が開通したこともあり、大阪に見切りをつけた外国人貿易商は続々と神戸へ移って行き、買弁や苦力の中国人も追随したものと思われます。

川口居留地の跡地にはキリスト教布教の拠点が生まれ、教会や病院、孤児院や学校が開かれました。信愛女学校、梅花女学校、桃山学院、平安女学院、立教学校、大阪女学院、プール学院などのキリスト教学校の祖型は居留地にありました。
しかし、それも1899年の条約改正により居留地は撤廃され、手狭にもなっていた教育施設は大阪東部の上町台地方面や京都に移転し、今の川口にその痕跡は窺えません。
その後も続いて九条、川口、本田、松島を歩きましたが、中華街の痕跡は見つからず、中国人も欧米人同様に大阪に定着せず、従って大阪中華街も存在しなかったのであろう、と早とちりをしていました。
そんな折、川口居留地研究の先達の西口忠先生を桃山学院史料室にお訪ねし、蒙を啓いて頂きました。漂流中の孤舟には羅針盤や澪標のような教えでした。
続いて、中之島図書館、京大文学部図書館、天理図書館、茨木市図書館、神戸華僑歴史博物館などで幕末開港から第二次大戦までの資料を探索しました。

以下、簡単にその後の流れを辿ります。

欧米系の商業・教育関係者が去った後、川口には中国北部(華北・東北)からの貿易商社員が居住し、対中国貿易の主体となっていきます。彼らは「川口華商」と呼ばれていました。その同郷人組織である「大阪中華北幇会所」の拠点ビルは、今の本田小学校辺りにありました。昭和14年に大阪市産業部が発行した同部貿易課員の佐藤書記による『事変下の川口華商』と題する報告書が基本資料であり、中之島図書館の司書の協力で見つけることができました。

日清戦争(1894)、大清北幇商業会議所設立(1895)、大阪築港工事着工(1897)、綿紡績業の発展(大阪紡績会社+三重紡績→東洋紡)、大阪商船の華北定期航路開始(1899)、朝鮮・大陸貿易の伸長→日中貿易の拠点として、川口が急成長。「行桟(Hang zhan)」に短期間(1~2年)・単身で居住した華北貿易関係者は、大阪の売込商と提携して信用と業績を伸ばしています。満州事変(1931年)までに川口華商は千数百人を数え、綿糸・綿製品・人絹・雑貨を中心に、大阪港は対中国貿易の過半を占めています。

「行桟」:華北からの出張員や駐在員の住居兼事務所。電話・通訳・店員を準備したホテル。金融・物流・貿易代行などの機能も提供。家主も同郷人。
江戸時代長崎での中国貿易で使われた「船宿」に類似する可能性も。

・・・川口貿易なる名に依って代表せられる華商との貿易は、実は大阪港貿易の縮図ともいうべきで、近年まで同貿易の伸長は大阪港貿易のそれと同意義であった。中国貿易によって発展してきた大阪の貿易は、邦商の努力に依った事勿論であるが他面華商の活躍の跡も之を見逃す事が出来ない。
(『西区史』第二巻結語・昭和18年編集、昭和54年発行)

川口華商についての初歩的な調査によって、大阪のウォーターフロントには山東系を中心とした中国人街が発達していたこと、中国銀行大阪支店が設けられ、運輸関係企業も蝟集し、売込商が頻繁に出入りする貿易業を核にした商業地域を形成していたことが分かりました。
中華料理屋街があったかどうかは未詳ですが「本場の中華料理を食べたければ川口へ行け」という当時の評価記述も見つけました。しかし川口華商の活躍も戦争が苛烈になるまでのことでした。
満州事変後、大阪の大手繊維商社が華北・東北へ進出して直接貿易を行う一方で、中国各地では日貨排斥運動が高まり、更には円ブロック統制や輸出制限などの圧力が掛かり、商機・商流を失くした華商の帰国が続きます。日中関係の悪化そして第二次大戦に進み、大阪と中国のパイプは細くなるばかり。そして、大阪大空襲により川口は大きな被害を蒙ります。

戦後の川口の動静、大阪中華学校(大阪中華北幇公所に付設した振華小学校を源にして、1946年に本田小学校の一部を借受けて再開、1953年浪速区の現住所に移転)の歴史と現状、そして現在の中国領事館が西区阿波座に所在している背景など、今に続く大阪と中国の深い仲については、稿を改めます。

【参考】研究会『華人研』について
日中の企業関係者有志による、大阪を基点に、毎月テーマを設定し、そのための講師[話題提供者]を招聘して定期的に行なわれている研究会。
第127回の6月のテーマは「中国での清酒製造と販売・中国市場の現状報告。
講師は、中谷酒造株式会社代表取締役・天津中谷酒造有限公司董事長総経理の中谷 正人氏。
7月のテーマは「日本の食を中国へ~中国日系企業社員から独立して日本で起業するまで~」で、講師は、張 宏偉氏(大興商事株式会社代表取締役)