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2018年7月15日

中華街たより(2018年7月) 『幸存者』

井上 邦久

6月18日の朝、いつもの08時02分発の京都方面行き快速電車に乗り込もうと自転車置き場からJR茨木駅の階段へ急ぎました。上り切って改札に向かおうとした時に直下から大きな振動があり、駅員が「態勢を低く保ってください」と叫び、それでもホームに向かおうとする人に「改札に入らないでください。電車は動きません」と指示していました。地震発生の07時58分からの数分間をとても長く感じました。上り切った「直後」、乗り込む「直前」で幸運だったと後日、複数の人に言われました。

7月3日は九州の大学へ特任講師として出向く予定でしたが、台風直撃の予報確度が高まる中で待機していました。
最終的に当日の朝に休講となり、地震に続いて携帯メールの漢字変換機能は「きゅうこう」と綴ると「休講」が一番に出てくる状態になりました。その後、大雨や交通機関の混乱が続きました。
大阪中華学校で戦後秘話を聴かせてもらえましたが、御礼の冊子は濡れてしまいました。
佛教大学四条センターで予定されていた清水稔先生による太平天国についての講義もまた休講になりました。

同じ日、雨合羽姿の保険会社の検査員が来宅、家屋の状態を丁寧に調べて「一部損壊」という判断をして請求書類を置いて帰りました。近所にもブルーシートを覆せた家がある中で、連日の大雨にもかかわらず雨漏りが無かったのが幸いでした。
日本での災害や事件へ欠かさず見舞いメールを届けてくれるイタリアの友人には心配を掛けない程度に事実を伝えました。しかし広島の知人から深夜に届いた「70㎝の浸水。断水」という事実だけの短い報せに重い想像を掻き立てられます。

富士山の景観や温泉を楽しむからには地震は覚悟し、自然エネルギーが増幅する一方の天象への冷静な洞察と愚直な備え、そして一定の諦念が必要だと改めて思います。

そんな日々のなか、タイ北部の洞窟に閉じ込められた青年や少年の救出を祈りました。そして、北京から届く女性詩人の動向を注視していました。理由は異なりますが共に真昼の暗黒の中に置かれた人たちでした。

『季刊 三田文学』2017年秋季号 特集「主張するアジア」

『詩集 毒薬』より「無題―谷川俊太郎にならいて」

『朝日新聞 2018年6月12日』 谷川俊太郎の返歌

『日本経済新聞2018年6月25日』阿刀田高「私の履歴書」

『詩集 独り大海原に向かって』「鎮魂歌ほか」

この半年、雑誌・新聞そして詩集(ともに福岡市に本社を置く書肆侃侃房社・田島安江代表発行)を読むにつけ、詩人の心身の容態を危惧してきました。

7月11日の朝刊に「友の祈り届いた」という大きな活字の脇に「タイ洞窟・全員救助」、そしてその横にドイツに向けて「脱出」した詩人の写真が掲載されていました。

7月13日は、詩人の亡夫の一周忌であります。
(了)

※2010年国際ペン大会の主宰者代表として阿刀田高氏は、
「有効なことはなにもできなかった」とし、未亡人の身を案じて「私たちの心は重く、苦しい」と書いている。

※谷川俊太郎の返歌の最終段は「君のまだ死なない場所と私のまだ死んでいない場所は 沈黙の音楽に満ちて同じ一つの宇宙の中にある」と丸ごと包み込んでいる。