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2018年8月8日

中華街たより(2018年8月)   『西川口中華街』

井上 邦久

8月2日、朝8時からBSプレミアム『英雄たちの選択』の再放送を観ました。
幕末の弘前藩出身で、千島から奄美や琉球先島を踏破した記録を残すとともに、時の藩や政府に物申した笹森儀助の生涯を辿る番組でした。
その冒頭、笹森研究の第一人者である松田修一さんが、類まれなる先見性と行動力を以て多面的な生き方を貫いた笹森儀助について過不足なく見事なコメントされていました。

松田さんは東奥日報社の編集室長・特別編集委員として社説責任を受け持つだけでなく、会津藩その後に移封された斗南藩についての長期連載を続けています。
今年は桜の頃に青森市善知鳥神社や弘前城近くでご厄介になり、地元銘酒とともに交流を深めました。陸羯南と笹森儀助そして、林檎と櫻の深い関係(同じバラ科に属して接ぎ木技術が要)について教えてもらいました。

見終わったテレビからは異常高温を伝えるニュースが続き、「不要不急の外出は控えなさい」という警告が発せられていました。夕方の約束まで東京水天宮の宿で大人しくするのが、まさに英雄でない普通の大人の選択であることは十分に分かっていました。しかし、前日に埼玉県蕨市在住の方からお聴きした西川口や芝園団地の変容の話が気になっていました。

1970年代の後半に当時の埼玉県浦和市に住んでいました。
川口はキューポラのあった町、西川口は青い灯赤い灯を京浜東北線の電車から眺めるだけの町でした。
この十年来、蕨市芝園団地の日本人住民の高齢化が進み、5000人の住民の半分が中国化して社会学的分析のモデルになっているとの記事を読んだことがありました。また、西川口では池袋に劣らない勢いで中華料理店や食材店の密度が高くなり、気の早い人は「西川口中華街」と呼んでいると聞いていました。

何十年か振りに西川口駅北口の階段を「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とか、「飛んで火にいる夏の虫」や「火中の栗を拾う」など訳の分からない言葉を呟きながら降りました。
駅から少し歩くと中国語が聞こえてきました。ハングル看板やタイ料理店などもありましたが、東北三省から福建・四川、新疆ウイグル、更には「周黒鴨」(武漢発チェーンの日本第一号店?)まで大陸各地の「本場の味」の店が圧倒的に多くありました。
ただ昼に営業している処は少ないようでした。横浜や神戸の中華街とは異なり、勤めを終えた各地出身の中国人達と日本人の物好きが利用しているような生活の匂いを感じました。
ウロウロと徘徊彷徨している内に昼飯時となり、身体の「火気」対策に四川麻辣湯料理店に入りました。よく冷えた店内には客はまばらで、若者が一人で切り盛りしていました。野菜や豆腐などのトッピングは自分で選び、量り売りで料金を確定させ茹でてもらう、それを店自慢の各種スープ(湯)や麺に合わせる安直・快速・安価・そして結構美味なものです。
北京時代に残業を終えた帰宅途中に同じスタイルの店で食べていました。たっぷり汗をかき、十分に水を呑み、冷気の中で体力を温存しつつ、まばらな客の話を聞くともなく聴いてみると・・・
「王さんのように池袋で店を持ち、日本で結婚し、お金もある人は今回の取材には不向きなのです。どなたか知り合いでこれから日本にやってくる人を探してください。成田空港に降り立ったもののどうすれば良いか途方にくれる、日本社会との摩擦で苦労する、できれば就学児童を帯同した人がいい」・・・
来春にドキュメンタリー番組を企画しているテレビ局の人と成功者の王さんとの会話のようでした。
「主題は、苦労しながらも、日本人の理解者の協力を得て、逞しく生きていく『日中友好』のお話です」という企画先行も凄いなあと思いましたが、ずいぶん昔の日中友好ブームの頃に何度も見たり聞いたりした既視感が気になりました。

麻辣味の気分になりながら、7月末に大阪の華人研例会でお話をしてもらった張さんのことを思い出しました。
山東省青州出身の張さんの噂を聞いた時、先入観が邪魔をして「刻苦奮闘の末、事業を大きくした成功譚を大声で話すギラギラしたタイプの起業家」の一人ではなかろうかと誤解し、いささか食傷気味でした。
信頼する幹事仲間から講師候補として是非にという薦めもあり、先ずはランチをご一緒して、「ギラギラ先入観」を反省とともに払拭しました。(古来、人と会食を重ねることは、人を知り友を得る上での出発点とされます。「礼尚往来」)

ベテランの聴衆を前にした会でも、張さんは朴訥な風貌と語り口で、十代半ばで地元企業に就職し、その企業が広島の食品会社と設立した合弁会社に運転手として転籍したことから話を始めました。
広島工場での実習生労働体験を経て、業務と日本語の習熟、外からの日本と内なる中国の双方から信頼を得て要職を歴任(外からの評価を得たあと、内なる人達からの信頼感を維持することが難しくなるケースを度々見てきました)。二年前に円満退職して大阪での起業を志すに際し、広島の会社から貿易部門顧問としての関係持続を要請され、併せて日本の大学を卒業した子息も広島の会社に就職したとのこと。
育ててくれた日本企業への感謝と企業内メンターへの尊敬を謙虚に語り、両国の社会と文化への鋭い洞察を話してくれました。なかでも「通訳は、一人だけに頼り切らず、複数いる方が良い」という卓見は実務の修羅場をくぐった体験から生まれたものだろうと唸りました。

張さんの起業が「日本の中小企業には貿易となると商社を通してやるものだ、という牢固な習慣があるようなので、大阪と山東で商品開発と物流機能を差別化できる商社を設立する」という発想から生まれたのは興味深いことです。
今後、事業が日本社会でどのような展開を図り得るか、安易な憶測は控えます。
ただ、張さんの発想や機能は1930年代の日中貿易に於いて、大阪の川口居留地跡を拠点に中小企業との連携と外地での商社機能によって成果を上げた川口華商に相通じる面があるかも知れないと素朴に思います。

酷暑の西川口中華街で大阪川口華商を想う白日夢のような話です。(了)