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2022年10月1日

多余的話(2022年9月) 『火垂るの墓』

井上 邦久

「Red Star」という品種名に惹かれ気まぐれに買ったハイビスカスが炎天下に深紅の花を咲かせ続けています。その陰で上海・横浜と種を繋いできた朝顔は控えめに咲いていましたが、9月になり開花数を増やしてきました。
酷暑の余熱が残る9月10日、仲秋節と若冲忌が重なりました。京都からJR奈良線で稲荷駅まで5分、駅前から石峰寺への登り坂で汗をかきました。

若冲忌の卒塔婆二本を供え、若冲作の柿本人麻呂像のオリジナル切手シートをいただきました。
石峰寺蔵の原画は今回初公開され、松尾芭蕉像と並べて掛けられていました。二幅の掛け軸の寸法や構図はほぼ同じです。白い官服を緩やかに着た宮廷歌人は胸をそらせ、対照的に墨染めの衣の俳人は壮健さを隠すように肩をすぼめた姿でした。
1800年に没した伊藤若冲。本堂回向は顕彰会員のみに制限、墓前での愛好家も含めた回向の列もそれほど長くありませんでした。

親戚の墓に参り、自分の墓地の草を引くルーティーン行動のあと、庫裏に戻り腰を据えて十数点の水墨画を鑑賞しました。人麻呂と芭蕉の人物像は同時期に一対で描かれたのかどうか?住職にも不明のようでしたが、双方の上半分以上の余白にいずれ画賛を描いて貰うつもりがそのままになったのでしょう、とのことでした。

寺から伏見稲荷大社の脇道を抜けて、駅前で松籟社編集職のN氏と合流し、少し縁のある「日野屋」で名物の雀をつまみにして歓談しました。
N氏は神阪京華僑口述記録研究会(関西の在日華僑一世、二世に会員がインタビューして、できるだけ生の声を記録に留めることをモットーにした活動)で、長年にわたり編集・出版の重責を担い、本年末に12年分の記録を分担要約して単行本に仕上げる企画の中心にいる人です。
N氏からは3編の口述記録の要約指導をしてもらい、「勝手に前後の辻褄を合わせてはいけない」「語ったまま、記録したまま、(中略)も極力避ける」といった指導をして貰っています。しかし、面白く読みやすくする為の「メイキング」に走るミスが治りません。

10月22日にはシンポジウムを神戸華僑会館で開催予定です。口述記録に応じてくれたジャズトランペッターらの皆さんにも登壇願う予定です。
感染拡大が続き開催延期を繰り返す中で、長年研究会活動の主軸として牽引してくれた二宮一郎さんが癌のため早逝されました。この日のN氏との対話も彼岸に逝った二宮さんのことに収斂されていきました。

フラットな視線で臆せず媚びずに語りかけ、喋りすぎずに話を聴く姿に常に「年季の入れ方がちがうなあ」と感じていました。
学術論文から民衆生活研究、そして映画評まで幅広い守備(攻撃?)範囲で「脚」「舌」「筆」をよいバランスで駆使されることに舌を巻いていました。いつも坦々としたマイペースだった二宮さんが珍しく肩に力を入れて取り組んだのが、小説『火垂るの墓』記念碑建立事業でした。
西宮市満池谷町を舞台にした小説やスタジオジブリのアニメで著名ですが、作者の野坂昭如の被災の足跡や作品舞台の特定が出来ていなかったとのことです。
二宮さんは実行委員会事務局長として、ニテコ池近くの横穴防空壕を探し、西宮震災記念碑公園内に場所を確保して、更に資金の調達に尽力されていました。庶民レベルでの平和希求の強い想いが、多くのストレスを克服したのではないかと推察しています。
記念碑完成後ほどなくして二宮さんが倒れたとの報せがあり、口述記録出版の要約文章の代筆やシンポジウムでの二宮さんの足跡報告をまさに不肖の弟子が務めることになりました。

 シンミリとならない程度に昼酒を切り上げ、すぐ近くの松籟社を訪ねました。静かな住宅街の一角、紙の匂いが漂い、書籍の中に部屋があるような趣深い仕事場でした。神奈川県立近代文学館の会報に載っていた紀田順一郎監修・荒俣宏編『平井呈一 生涯とその作品』を持ち帰らせて貰いました。その夜の一読だけですが、賞味期限がとても長そうな印象でした。


【補足・修正】
・9月3日、華人研例会でマカオを知るための報告をされ、香港を言挙げせずに香港を浮かび上げて頂いた塩出浩和氏も華僑口述記録研究会のお仲間です。
・8月『洛北余聞』の中国対外貿易の黎明期の記述について、W先輩から体験に基づく詳しい補足修正の文章を届けて頂きました。

「私が初めて北京に赴任した1972年の状況は下記でした。
北京の総公司の所在は次のように二大別されていました:
場所は二里溝と東安門に分かれ、二里溝のビルは進口大楼、東安門のビルは出口大楼と通称されていました。当時二里溝に所在する総公司は輸入が多く、東安門に所在する総公司は輸出が多かったためと思います。
その内訳は:二里溝 進口大楼 機械進出口総公司、化工品進出口総公司、五金矿产進出口総公司、技術進出口総公司
東安門 出口大楼 紡織品進出口総公司、糧油食品進出口総公司、土産畜産進出口総公司、軽工業品進出口総公司、

中国全土の輸出入を北京の総公司とだけで商談契約ができたので今思えば効率的でした、地方の各分公司が商談契約にタッチしだしたのは1980年代に入ってからだったと思います。」

丁寧なご教示に感謝するとともに拙文での不正確な記述にお詫び申し上げます。
まさに多余的話(言わずもがな)ですが、「進口」は輸入、「出口」は輸出を意味する中国語です。

2022年10月1日

『老子』を読む(十)

井嶋 悠

第41

 反(かえ)る者は道の動なり。弱き者は道の用なり。天下の万物は有より生じ、有は無より生ず。

◇学校では、休憩の時空が必要だ。階段を昇り、踊り場で休み、四方を展望し己れを見つめ、来た道を顧みる。直線階段は集中トレーニングの一時的なもの、螺旋階段の持つ意味が問われる。しかし、多くの学校は、学び、学び、学びの直線指向で、長期休暇もあれもこれもの学習。学校嫌いが増えて然るべきだろう。そして、教師も疲れている。学校の教師と塾の教師は別の人で、生徒は常に同一人物と言う恐るべき現実、事実。ハンドルに“遊び”がないと事故になる。昔の人は余裕があった。曰く「よく学べ、よく遊べ」

第42

 万物は陰を負いて陽を抱き、沖(ちゅう)気(き)(和気)以って和を為す。
 強梁者は其の死を得ず。

陰陽:天地 「陰」:
「陰」女・静・柔・内・月・夜
「陽」:男・動・剛・外・太陽・昼

◇「学校」をイメージするとき、「陰」が色濃く映る。「教師」をイメージするとき、「陽」が色濃く映る。

{これは個人的なものなのだろうか。

母のように優しく静かに内に抱き込む学校。それに気づかせられる夜。走り抜ける動的で剛毅朴訥な姿。小学生は言う。「ちょっとでも学校へ行きたい。」中学生は言う「学校?」高校生は言う「ん!?」…?
学校は、教師は「母性」の世界だと思う。だから、男性教員の存在意義があり、学校は、男女参画協働社会の雛型だと思う。男子校であれ、女子校であれ。やはり学校は社会の素であると重ねて思う。教師の役割の大きさに気づかされる。

第43

 不言の教え、無為の益は、天下これに及ぶこと希なり。

◇学校教育の最終理想像として、「不言の教え、無為の益」は可能か。この矛盾の自己の内での葛藤、克服こそ学校教育の道標と言えるように思える。雄弁の極としての沈黙の力、活動の極としての不動の存在感。
そういう教師に出会ったことはほとんどない。

第44

 足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆(あや)うからず。以って長久なるべし。[知足の計・止足の計]名誉より己が身。国家より自己、外より内。

◇学校は集団を求め、塾は個人を求める。学校における個と集団はいつも難しい問題として現われる。その点、塾は明快に個人である。教えることでの合理性は塾にあるが、教育の本質としての人格の陶冶を思うとき、教育の本源を求める教師は、生徒が直感的に嗅ぎ分け、使い分けている。しかし、現役時代果たしてそれだけの心の幅が、あったかどうか、甚だ心もとない。個と教育から視た学校、塾、自己の確立があっての社会、脚下照顧があっての国際との考えで、逆ではない。
ただ、どこをもって「足る」のか。難しい。いろいろな場面で「足る」を言うことでの過度の問題。

第45章

 大成は欠くるが若(ごと)く、その用は弊(すた)れず。・・・・・大巧は拙きが若く、大弁は訥なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。静清[清澄]は天下の正なり。

◇教育は、日々刻々動の世界ではあるが、静の世界だと思う。それは儒教も同じではと思う。最悪の教師は、己が自身で「大成」「大巧」「大弁」を意識する人である。生徒の感性はそれを見事に見抜く。心一杯ではなく、どこかに隙間を持っている時の方が、授業は円滑にいく。「教室で斃れてこそ本望」と胸張る人は多いが、果たしてどうなのだろうか。

2022年8月17日

『老子』を読む(九)

井嶋 悠

第36

 ……将にこれを奪わんと欲すれば、必ずしばらくこれを与えよ。是れを微(び)名(めい)(微妙に隠された明智)と謂う。柔弱は剛強に勝つ

◇生徒には必ずと言っていいほどに“点取り虫”がいる。結果がすべての合理的発想とも取れなくはないが、中には、「誰々に勝った」と誇る者もいる。しかしこのような人物は概ね嫌われ者である。ただ、世間では優秀者として見られ、本人は頓着しない?
試験など無くし、語学以外は大学のようにレポート形式にすれば良いと言う人もあるが、はたしてどうだろうか。
これを実践し、評価できる教師は、はたしてどれぐらいいるだろうか。私にはそんな器量はなく、せいぜいで、授業復習試験と論述試験の相乗りだったが、それとて採点と受講生徒人数で、生徒から採点苦情が出ないよう、四苦八苦していた。

第37

 道は常に無為にして、而も為さざるは無し。……無名の樸《道》は、夫れ亦将に無欲ならんとす。欲あらずして以て静ならば、天下将に自ら定まらんとす。

◇今もって事細かな校則を作り、それを生徒指導の名目で教師を“指導”する学校は少なからずある。流行は時代と共に変化するから対応も一苦労だろう。もっとも、流行は繰り返すとも言うが。実際、校則を作り、それを遵守させる方が、教師は楽とも思える面は無きにしも有らずだが、幸か不幸か?私は自由校に勤務した。その中で、例えば服装、女子校で最も効果的なのは、生徒自身がいうに生徒同士の批評だそうだ。
或る「学力」の低い生徒が集まっている学校(女子校)の教師が言うのには、それを実施したらとんでもないことになる、と言っていた。
この言葉、生徒の、自己尊重―学力(或いは学習評価)の悪循環を表わしているように思え、私の幸いを思ったことがあった。

【下篇】徳経

第38

 上徳は徳とせず。[徳=得。生来及び以後の中で身に着けた能力:道教の無為にみる実践性、儒教に見る道義性]是を以って徳あり。下徳は下徳は徳を失わざらんとす。是を以って徳なし。上徳は無為にして、而して以て為すとするなし。上仁はこれを為して、而して以て為すとするなし。
……道を失いて而して後に徳あり。徳を失いて而して後に後に仁あり、仁を失いて而して後に義あり、義を失いて而して後に礼あり。……前識(さかしらの智恵)なる者は、道の華[あだ花]にして、而して愚の始めなり。

◇社会が不安定になり、諸事にほころびが生じ始めるとしきりに標語やスローガンが街路や壁に登場する。だからそれを見ると、今何が問題かが分かる。
学校も同様である。ただ、そこには2種類ある。一つは、学校応募者の減少や質的マイナス変容での危機感が、出始めると何かと外に向けて広報を出す。無為無言で「待つ」心の余裕がなくなるのだろう。
もう一つは、学内生徒間等で諸問題が出ると、教室や廊下にそれに係る掲示が増える。その時、生徒会(自治会)が積極的な役割を果たすが、内容によっては教師たちとの協働性による成果となり、学内は良い雰囲気になる。ただ、自由指向の現代社会にあっての「義」《人としての正義》「礼」《人としての礼儀》は、「徳」や「仁」との精神性とは違って難しい問題である。
儒教、仏教、キリスト教…に基づく学校は多いが、道教に基づく学校と言うのはあるのだろうか。『道家道学院』という、教室的な学校は、全国に何か所かあるようだが。やはり、道教は「教」と言っても宗教のそれではない?

第39

 夫れ貴(たっと)きは賤しきを以って本と為し、高きは下(ひく)き以って基(もとい)と為す。是を以って侯王は自ら孤(孤児)・寡(独り者:寡徳。寡人。)・不穀(ろくでなし・不善)と謂う。此れ賤しきを以って本と為すに非ずや、非ざるか。故に数々の誉れを致せば、誉なし。琭琭(ろくろく)(立派な)として玉の如く、珞珞(らくらく)として石の如きを欲せず。…………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これを致すは一(いつ)[道]なり。

◇謙称としての「弊校」、敬称としての「貴校」。第2章の「美の美たるを知るも、これ悪(醜)のみ、善の善たるを知るも、これ不善のみ。」との、老子の考えからすれば、この謙称も敬称も「一」に帰さなくてはならない。日本人の感覚としてどうなのだろうか。私個人は、内容では老子で、形式では日本語表現なのだが。

第40

 大器は晩成し、大音(たいおん)は希声(きせい)、大象(たいしょう)は形無しと。道は隠れて名なし。夫れ唯だ道は、善(よ)く貸し且つ善く成す。←未完[形ができあがればそれで用途は限られる。永遠の積極性、無尽性。

◇卒業はそこで終わるのではない。一休みして再び歩み始める、その新たな起点である。人生には限りがあるが、道は永遠である。「明道は昧(くら)きが若(ごと)く、進道は退くが若く、夷道(平坦な道)は類(るい)なる(起伏)が若し。」
そのおぼろげな道をおぼろげにでも自覚させ、伝える場としての学校。学校は所謂学校がすべてではない。到る処に様々な学校がある。しかし、一人では手に負えないから、仮の場所として学校は在ると考えれば、随分と気が楽になるのではないか。後は、教師の、大人の、国の問題である。

2022年8月17日

多余的話(2022年8月) 『洛北余聞』

井上 邦久

予報通りの酷暑、予想通りの感染拡大のなか、千本通りを洛北へ、いつもより早めのバスに乗った。講座「疫病に向きあう」の前に、京都大学のL教授から紹介された修士課程学生と面談をするためだった。吉田キャンパスから自転車で登ってきたZ君は江蘇省出身、上海の復旦大学を経て、春に来日したばかりとは思えない癖のない日本語を身につけていた。

L教授から「友好貿易」という言葉は知っていても、その実態や日中貿易での位置づけが分からないというゼミ生へ実体験を語って欲しいという要請だった。事前に鍵になる年表と用語を伝えておき、友好商社のC社の社史を持参した。1945年、1949年、1952年、1961年、1972年、1978年、1992年、2001年、それぞれの年の意味をお浚(さら)いし、日本が独立して貿易自主権を回復した1952年から中国との国交を回復するまでの20年間を中心に話した。

ベトナム戦争や日米貿易戦争の時代。自民党総裁選が国際政治に影響していた頃。自民党非主流派や野党によって継続されていた日中国交回復運動は急展開し、周恩来首相は田中角栄首相・大平正芳外相と握手した。にわかに日中友好ブームが起こり、その後多くの友好姉妹都市が生まれた。日米貿易の陰りを危惧し、中国市場の将来性に賭けた日本総資本の方向修正だった。それまで東西貿易、配慮貿易、友好貿易、LT貿易、覚書貿易、周三原則などの試みと制約の中で、日中間の政治的・経済的・資源的な「有無相通」のバランスを取ってきた経緯を大まかに振り返りながら語った。

天産品(松節油・桐油・滑石・生漆・甘栗など)や鉱産物を一次加工した無機化学品を中心とした輸入と肥料・合成繊維原料などの輸出を友好商社が担ったことを具体的に話した。春秋の広州交易会と北京二里溝の貿易総公司の二箇所だけで商談を行う形態の中で、大メーカーや有力ユーザーが中小の友好商社を尊重した理由は、友好という旗幟を鮮明にして得た中国政府のお墨付きと人脈と語学力にあることについて、実例と私見を交えて喋った。Z君にはとても高い理解力があり、大手商社系のダミー商社が存在したことまでも知っていた。

友好貿易という政治的で制約の多い貿易形態は、1972年9月29日北京での日中共同声明により変異していった。翌日の朝刊を飾った大手企業による国交回復の祝賀広告を眺めながら、潮目の急変を実感したことを思い出す。
その後も友好商社は善戦したが、取引拡大に必要な資本力の限界と客の方針変化により徐々に淘汰され、「中国一辺倒」だった友好商社では苦戦が続いた。中国側が常套語として発した「没有合同,但是有保留友情」(契約書はなくても友情は残る)というホロ苦い言葉を、Z君は中国語の正確なニュアンスも含めて分かってくれた。一方で、中国政府の直下で貿易を独占していた貿易総公司にも変化の波は押し寄せ、地方分権・「民進国退」により、権益は減退していった。
化工総公司→化工山東省分公司→化工青島市分公司→紅星化工廠→紅星集団と短期間に貿易窓口が変化した青島紅星製の炭酸バリウムの事例が分かりやすい。
Z君は「賞味期限切れ」という日本語で友好貿易の終焉を適確に理解していた。

それから50年、国交回復後に始まった対中国ODA(開発途上地域の開発を主目的とする政府及び政府関係機関よる国際協力活動)は本年3月で予算や新規協力案件もなくなったという。

午後は仏教大学のキャンパス内を移動して、天然痘から始まる感染症についての歴史と考察の続きを香西教授から学んだ。

1849年長崎オランダ商館医のモーニケと佐賀藩侍医の楢林宗建の連携でバタヴィアからの牛痘苗が一人の児童に活着して情況は大変化。1849年から1850年の短期間に桑田立斎らが十指に余る種痘奨励書・手引書を出版している・・・と2021年10月『牛の話』で綴った。

この日の講義は、1957年長崎に来航したオランダ軍医ポンペによる医学伝習と「長崎養生所」(長崎医科大学、長崎大学の礎)開設、「養生」の意味の変遷についてであった。途中、前回講義のあとに伺った「蝦夷地の集団種痘に人体実験の要素はありませんか?」という素朴な質問への明解な回答の時間もあった。

ポンペ来航と同じ1957年の5月、幕府の公募で選ばれた桑田立齋一行が江戸を出立、白河・仙台・盛岡・田名部で牛痘生苗を植え継ぎ、箱館を拠点に蝦夷地で種痘をしたが、人体実験と言えるような高度な比較検証の能力も記録もないとの説明であった。手交して頂いた教授の論文「アイヌはなぜ『山に逃げた』か」『思想』1017号(2009年1月号)の抜刷を拝読し考察の奥行きを直感した。

バランスの取れた資料分析と鋭い考察が続く論文なので咀嚼が容易ではない。蝦夷地の産業構造の変化がベースにあり、ロシアの南下行動とアイヌ同化圧力に幕府が敏感に反応した複合要因が幕命全種痘に絡むことが何とか読み取れた。
ある意味で魅惑的な絵の背後に、蝦夷地種痘にまつわる奥行きがあることを色々と想像した。実に刺激的で魅力的な夏の課題として読み返している。

2022年8月2日

『老子』を読む(八)

井嶋 悠

第31

 夫れ兵は不祥の器、物或いはこれを悪(にく)む。…君子、居れば則ち左を貴び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。

 吉事は左を貴び、凶事は右を貴ぶ。…人を殺すことの衆(おお)きには、悲哀を以ってこれを泣き、戦い勝てば、葬礼

を以ってこれに処(お)る。

◇生徒にとって学校は戦いの場とも言える。何と戦うのか。学習?クラブ活動?人間関係?その結果さまざまな弊害も生まれる。それは思春期前期後期の非常に微妙な心の状態、身体変化の中高生ならではのところもある。
自身の中で「勝った」と確信した時、彼ら彼女らは葬礼への態度を持ち得るであろうか。それぞれの時に於いて一心に戦っている生徒ほど相手の心への慮りが増える生徒がいる。教師にそれだけの心を持ち得る者があろうか。
そうして考えてみると、「受験戦争」との言葉のあまりの巨きさに、改めて気づかされ、例えば高校野球の監督会議で頻りに不正行為[勝つためには手段を選ばず]への注意がなされることの寂しさに思い到る。

第32

 道は常に無名なり。樸は小なりと雖も、天下に能く臣とするもの無きなり。

 はじめて制して名有り。名亦た既に有れば、夫れ亦た将に止まることを知らんとす。止まることを知らば、殆(あや)

うからざる所以なり。

◇小学校一年生の初々しさは何物にも換え難い。あの眼の輝き。先生を絶対と視る透き通った心そのままの眼。樸。しかし、周りには別の樸がひしめき合い、我先にと競い合い、彼ら彼女らは優劣を知り始める。疲れて止ろうとすると大人たちはついつい叱咤激励する。彼ら彼女らに不安定な波が立ち始める。かなしいことだ。
小学校一年生の担任教師は、ベテラン教師でないと務まらない。区別、差別を存分に知った教師の吸引力。

しかし、今、保育所・幼稚園を経て、果たしてその像はどうなのだろうか。小学校高学年で既に学級崩壊が、始まっているというではないか。

なぜそのようなことになったのか、なるのか、大人達こそ立ち止まって熟考すべき時なのではないか。

第33

 人を知る者は智[知恵者・知者]なり。自ら知る者は明[明智・明察]なり。人に勝つ者は力有り。自ら勝つ

者は強し。足るを知る者は富む。強(努)めて行う者は志有り。

◇学校は、知恵者を育てるのではなく、明智な人物を意図的に育むのが本来ではないか。知識に溢れた人が優秀と言う学力観ではなく、学ぶこと一つ一つに自身を映し出すことで生じる学力。そのためには「静」の時間が、必要だ。忙しくすることを善しとする大人から距離を保つべきだ。わずかな時間で良い、じっと自身を視る。
そのことで他者との関係に平衡性が生まれる。例えばイジメは平衡性の意図的破壊であり、だから犯罪である。それを教師が生徒にすることさえある。子どもは誰を信じ、平衡感覚を培えば良いのか。

第34

 大道は汎として其れ左右すべし。万物はこれを恃(たの)みて生ずるも、而(しか)も辞[ことば]せず。…常に無欲なれば、

小と名づくべし。万物これに帰するも、而も主と為らざれば、大と名づくべし。…聖人の能く其の大を成すは、

其の終に自ら大と為らざるを以って、故に能く其の大を成す。

◇学校は静かに構え、生徒を受け容れなくてはならない。学校は器である。器が常に動けば不快な気分になる。

器を形成するのは、一人一人の教師、大人である。しかし言葉を弄ぶ教師が多過ぎる。先生って、そんなに偉いの?私は何度思ったことだろう。私はその教師だった。だから私は老子に魅かれる。

第35

 大象(たいしょう)を執れば、天下往く。安、平、大(泰)なり。

これ(道)を視るも見るに足らず、これを聴くも聞くに足らず、これを用いて尽くすべからず。

◇(学校)教育の主眼は、一人一人の人格形成にある、と言って否定する者はないと思うが、それが難しい。何

を以って、そのときどきの年齢に応じた人格陶冶の成果を表わし得るかが、具体的であるようで抽象的で分かり

にくい。そこに教科学習と言う具体性の必要性があるのだろう。そして私たちは「主要五教科」とか「芸能科」などと、老子が聞いたら卒倒するようなことを当然のごとく言い、している。

小学校中学校で、音楽・美術・体育・技術家庭・書道の充実を、自身の子ども体験からも、希望する大人は多い。私案の「中等教育と高等教育」の変革は、その点での、またいろいろな場面で使われる[総合]や[国際]との用語の再考になるのでは、独り自負している。

2022年7月16日

多余的話(2022年7月)   『サラダ記念日』

井上 邦久

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 (俵万智)

 七月六日、直江津 文月や六日も常の夜には似ず   (芭蕉・奥の細道)

西行500回忌の1689年に陸奥を歩いた芭蕉の句は、333年後の今宵も多くの人が口にすることでしょう。
1987年に俵万智が新鮮な衝撃を与えた歌集を35年後の7月6日に多くの人が思い出し、サラダの味を気にしたことでしょう。

300年を隔てた7月6日の意味に気づかせてくれたのは、作家の丸谷才一であったと俵万智自身が呟いています。丸谷才一のおかげで二つのベストセラーが「衆口難調」に陥らず、七夕とサラダが結びつきました。その意味でも、日本の韻律詩文の流れのなかで7月6日は大切な記念日になったと思います。

七夕を翌日に控え、笹を準備して短冊を飾り、星の伝説に思いを馳せる習慣は今も残っています。中国語や中国文化の入門材料として、元旦・上巳節・端午節・七夕節・重陽節という奇数月日が重なる日が使われます。生活習慣に残る節句の言葉の学習を通じて、文化伝統を初歩的に学びます。
西欧化とともに元旦は陽暦の1月1日が休日となり、会計年度の初日になります。しかし西暦の新年ではあっても「過元旦!」という通過点に止まり、陰暦の春節を待って「新年好!」となり、お年玉(紅包)のやりとりをすることは知られてきました。

7月7日は、七夕情人節とも呼ばれ男女のプレゼント交換(主として男から女への一方通行)が盛んです。
上海での駐在時代、古北路・仙霞路の宿舎の近くの「小譚花店」にしばしば立ち寄り、安徽省出身の譚さん夫妻とお喋りをしながら、日本出張の折に頼まれる商品(ベビーミルク・花切鋏など)の打ち合わせをしました。ただ二月のバレンタインデーや七夕情人節の繁忙期は商売の邪魔をしないように素通りしたものです。

上海も漸く封鎖が解かれ、赤いバラの書入れ時に間に合ったことでしょう。
いつぞや、その7月7日に販促イベントを企画した日系企業があり、内外から多くのクレームが発せられ、慌ててお詫びして中止したと聞きました。2012年前後の緊張した時期には、反日感情を刺激しないよう、多くのコンサルタント会社から過剰ともいえる自主的配慮と要注意日のリストが流されました。
「日本語は使うな、英語にしなさい」「お古の中山服を着ていれば安心」などと少々ピントがずれた助言も目にしました。7月7日は、要注意日の上位に位置づけられていました。

過剰反応の反動による気の緩みなのか、緊張感が減っていたのでしょうか?長年にわたり中国市場でビジネスを継続してきた大手の企業が、わざわざ7月7日、七七事変(1937年・盧溝橋事変)の当日にイベント企画をするということは単なるケアレスミスとは思えないことです。
日本本社の海外事業管理部署・中国現地法人の危機管理部・企画会社の幹部には多くの中国貿易経験者がいることでしょうし、日本留学後に入社した中国人社員や現地採用の職員も多く在籍していると想像します。
俗にいわれる「中国通」と目される社員たちの厳しいフィルターに引っ掛からなかったのか?中国人社員の是非判断が為されなかったのか?実に不思議です。
歴史教育の風化、85年前のことまでコミットできない、とする居直りの風潮や趨勢の中での決断とも思えません。想像をたくましくすると、「この日は拙い」「別の日にすればいいのに」という素朴な声が社内で届きにくい体質が主要因だったのかも知れません。そうだとすれば、歴史認識の議論より前の段階、「溝通」(gou tong:コミュニケーション)の問題となります。

6月の異常な酷暑が尽きて、7月も尋常ではない暑さが続いています。ご自愛専一にてお過ごしください。
時間が取れれば喧噪と暑気を逃れて映画館で過ごすのも一手です。
とりわけ『プラン75』や『教育と愛国』を観ると背筋が凍りつくことでしょう。

       文月や六日の次の分かれ道(拙)

2022年7月2日

『老子』を読む(七)

井嶋 悠

第26

 重きは軽きの根たり、静かなるは躁(さわ)がしきの君たり。

 軽ければ則ち本を失い、躁がしければ則ち君を失う。

◇「先生」と呼称される職業は多い。教育者、宗教家、医師、弁護士、政治家……。いずれも弁が立つ。弁が立つのも善かれ悪しかれ、と大人同士の時間が限られている学校世界ではとりわけ思う。雄弁家を不得手とする子どもたち(中高生)は多いのではないか。ただ、女子と男子で傾向は違うように思えるので一概には言えないが。10代から視た父性と母性…。或いは思春期前後期と「先生」。

第27

 善く行くものは轍迹(てっせき)なし。

 聖人は、常に善く人を救う、故に人を棄つることなし。…是れを明(明智)に因ると謂う。故に善人は不善人

の師、不善人は善人の資なり。

◇良い学校、優れた教師が、これである。しかし、現実の多く(或いはほとんど)は、言葉[理念]で終始するか、進学実績を競う学校も多い。教師の個人性に委ねられている場合は多々ある。絶対評価との見地に立って、全員をAにする教師がいた。私には、生徒[人]に大小高低長短等区別がないことの前提は得心できるが、その教師の真意は未だに分からないままでいる。

第28

 雄を知りて、雌を守れば、天下の谿となる。天下の谿となれば嬰児に復帰す。

白[光明]を知りて、黒[暗黒]を守れば、天下の法[模範・徳]となる。天下の法となれば無極[茫漠・無限定の世界]に復帰す。

栄を知りて、辱を守れば、天下の谷となる。天下の谷となれば樸に復帰す。素朴

◇公立学校はもとより、私立学校も教師になるには、採用試験を受けなくてはならないのが今日である。(私など例外中の例外である。だから若い人には常に私の轍を踏まぬよう注意して来た。)その試験はなかなか難関でもある。とりわけ公立学校採用試験に合格するのは、希望者の中でも学力優秀者が多い。
先日、教員希望者が減少し、質の低下を招く旨の危機感を表わす報道があった。教育委員会か文科省の役職人の発言なのだろうが、相も変らぬ官僚性で馬鹿馬鹿しいそのままだ。量より質。デモシカ時代は疾うに終わった。
この質、公立での、多様な私立での「良質」は千差万別。例えば「天下り」教師を見れば明白だ。無風、温室育ち(世間知らず)の、時には情報(知識)お化けの若者が、教師になって、多様な学校に赴任し、たまたま水が合えば順風満帆なのだろうが、その率は少ないと思う。
企業や官庁等も含め、学校卒業(終了後)1~2年の“モラトリアム”時間が、必要なのではないか。
度々主張、提案している《体験からの小中高大改革:6・6+2の14年間で20歳終了(中等教育修了)、大学の教養課程廃止、専門学校・大学の徹底した専門化等々》案、良い樸が生まれ、社会は落ち着くと思うのだが。

第29

 天下は神器、為すべからず。……聖人は、甚を去り、奢を去り、泰(泰侈)を去る。

◇どこの学校でも「個性の伸長」を言う。私の偏りなのだろうが、その時、積極性・主体性→アメリカ的個性、のイメージを描いてしまう私がいる。我ながらおかしいと思う。
こんな経験をした。「船頭多くて舟山に登る」。それを自然な巧みさで操るのがベテラン教師。もっとも、学校世界(大学も含め)、主体性への固執が最も強いのは教師世界かもしれない。山に登るどころか解体、雲散霧消し、まとまる話もまとまらない。墨守世界としての学校。これも体験からの話題。
教師で単純明快、理路整然としているのは、予備校と進学塾かもしれない。

第30

 果(勝)ちて矜(ほこ)ることなく、果ちて伐(ほこ)ることなく、果ちて驕ることなく、果ちてやむを得ずとす。

 物は壮(さかん)なれば則ち老ゆ、これを不道と謂う。不道は早く已(や)む。

◇学校の盛衰は教師にかかる。或る学校は進学で誇り、或る学校はスポーツで誇り、或る学校は更生で誇る。誇れる結果を導くのは教師であり、それを支える学校組織である。公立学校にない私学の多様と言っても過言ではない。
しかし、私が最初に勤めた学校[女子校]は、近年進学(全員が付設の大学か、他の大学に進学する。進学校を標榜していないが、進学実績は相当なものである。それは、彼女たちの自我意識と塾・予備校に因るものである。)の結果を意識的に公表しなくなった。学内改革である。その改革は、明治時代の創立理念に戻る、ということであり、結果としての進学であり、社会での彼女たちの働き、存在である。言ってみれば本末転倒を糺し正そうということである。
これをもって、その学校は終わったとの軽薄極まる感想を持つ者は、卒業生を含め内外にあるだろう。
どこか、現代日本の縮図を見るようである。

2022年6月18日

多余的話(2022年6月) 『シニアカレッジ』

井上 邦久

 「改革・開放」政策とペレストロイカについて初歩的に考えてみた。
共通点:経済停滞への危機感から、立て直しをしようとする試みである。ペレは英語でreの意味、ストロイカはconstructionと英訳されていたと記憶している。      
相違点:①情報公開(グラスノスチ)の有無、
    ②革命から立て直しまでの時間
③香港や台湾そして華僑の存在がソ連にはなかった

政治改革と対内開放から距離を置いていることについて、何度も触れてきたので重複を控えるが「経済改革・対外開放」を「改革開放」と単純省略し、OPEN POLICYと喧伝してきたメディアの責任は重いと思う。その点で中国に情報公開(グラスノスチ)がないことに繋がる。
次に帝政ロシアがソビエト社会主義共和国連邦 となった 1922年12月30日 から 1991年12月26日のソ連崩壊まで69年。一方の中国は立て直しまで約30年である。
この時間差は「経済」体験のある旧世代が残っていたかどうかの違いに影響しないだろうか。
また他方では、漢民族が「経済」を本土から離れた場所で温存培養していたことにも連動する。
一朝、本土から「経済」をやるよと声を上げると、先ずは香港から、続いてシンガポールや日本、そして恐る恐る台湾からも「経済」専門家がやってきて、「友好」と「利益追求」の両輪で大活躍をしたことはご存知の通り。
色々な摩擦や試行錯誤を繰返し、「全球的経済」の素地が生まれて21世紀を迎えたと思う。

『現代中国の経済と社会』竇少杰・横井和彦(編著)。中央経済社2022年3月30日出版。旧知の竇先生に読後の感想を伝え、質問をさせて貰う機会を得た。
竇先生は、2001年9月11日「同時多発テロ事件」と、2001年12月11日 中国のWTOへの正式加盟、この出来事を世界秩序の形成の節目と捉え、以後20年の「現代中国」を描くことを執筆目的とされた。
従来はアヘン戦争(1842)や中華人民共和国成立(1949)から歴史や党史を説き起こすことが定番であり、21世紀以降に焦点を絞った研究は少ないことを意識した由。また清朝から現代までの時間軸と所得格差に関するイメージ図に修正や見解を示してもらった。
執筆後に勃発した戦争や上海ロックダウンが、世界秩序の形成の節目であることについて、次回あらためてお訊ねしたい。

サッポロビール茨木工場の跡地に建てられた大学キャンパス内のレストラン『ライオン』で会食しながら竇先生とお話をした。
第一次世界大戦までドイツの支配下にあり、その後に日本の軍政下にあった山東省青島郊外出身の竇先生もビール工場のDNAを感じたかも知れない。
次回はJR線路を挟んだ『哈爾浜』(ハルピン)で本場仕込みの水餃子を食べましょう、と約束をした。

山東人の粉物好きについては、若い頃に広州交易会で長丁場の仕事をした時、華南の長粒米に飽きていた青島の貿易公司の友人たちに大きな饅頭を振る舞ったところ、まさに「泣いて喜んで」くれた体験に基づくものであり、青島に駐在した時も青島麦酒と饅頭・水餃子・麺類など麦に頼った生活だった。

茨木市のシニアカレッジ「激動の現代社会を学ぶコース」で、『最近の中国・香港・台湾事情』というトテツモナイ題目を受持っている。
激動は毎年のことであり、最近の状況が急変することも多いので準備がなかなか難しく、できるだけ質疑応答の時間を長めにとって補足に努めている。
訪日客数の総人口に占める比率(2019年まで香港が断然トップ)、上海ロックダウン下での「白衛兵」の活躍、ウズベキスタン綿花に強制労働はないと認定されて5月に使用解禁されるまでの流れ、上海復旦大学から西北(Northwestern)大学研究職となったMs.銭楠筠(Nancy Qian)の意見と画像、福建省厦門市と台湾小金門島の間が6㎞であることを示す地図を織り交ぜた「かやくごはん」を2時間かけて炊き上げた。
散漫なメニューであり、なじみのない具材も多いため、どの程度伝わったか覚束ない出来栄えだった。
お世話になった事務局の皆さんとの「反省会」では「もっと肩肘を張らない話にしてくれたら」など色々と有りがたい意見を頂戴した。そして折に触れて思い出す「衆口難調※」を反芻した。
※「全ての口に合う味は出せない」と訳される。
日中合作ドラマの『蒼穹の昴』(西太后=田中裕子主演)の製作過程で、王監督は日本と中国の板挟みとなり、苦心した末に「衆口難調」の言葉に思い至り気が楽になったと語ったという。

冒頭の竇先生の著書に見つけた「造船不如買船、買船不如租船」という劉少奇の言葉を、「船を造るより船を買うほうが手っ取り早い、船を買うより船をリースするのが賢い」と解釈した。そして一時的な経済合理性は理解するが、長期的な創造性の後退に繋がらないかと考えた。
南の海を航行している空母「遼寧」は、ソ連の設計によりウクライナで製造中に中国が買ったと聞いている。その母港は青島である。(了)  

2022年6月4日

『老子』を読む(六)

井嶋 悠

第21

 孔徳の容は、惟(た)だ道に是れ従う。道の物たる、惟(こ)れ恍惟れ惚たり、……其の中に精有り、その精甚だ真、其の中に信有り。

◇10代で、教科試験等の解答が複数あると言われると大概は不安で、「試験ではどう書けば良いのか」と詰問し、「どちらでも良い」とでも応えようものなら、相当信頼を失う。何となれば、それで“客観的”評価が可能なのか、となるからである。国語ともなれば尚更で、そこで教師はそのような問題は出さない。仮に無理して出すとしても授業を基に出すが、優れた生徒はそこを突いて来る。
で、両方正解とする。広い?視野で言えば、試験とはその程度のものなのかもしれないが、生徒は真剣である。進路に係るのだから。記号式の問題が、一見客観的に見えるのは、それがあるからだろう。その微妙さの最たるものが「解釈」や「小論文」問題である。生徒は教師が予想した解答を遥かに越えて、あれこれ細かく書く者も多い。四苦八苦した印象批評で、細かく減点して評価する教師は多い。反応を予測し、質問にできるだけ客観的に応える準備をしておかなくては墓穴を掘る。
ただ、多くの生徒は諦めか従順なのか怖いのか…まず聞いてこない。聞いて来るのは相当優秀な生徒か、1点2点に過敏な生徒である。
言葉という客観を介しての、阿吽の情、行間の情。いずれも理知で裏付けされた感性である。国語のおもしろさに行くまでには、相当の人生経験が必要なのかもしれない。

第22

 企(つまだ)つ者は立たず。跨ぐ者は行かず。自ら見(あら)わす者は明らかならず。自らを是(ぜ・よし)とする者は顕われず。自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。

◇学校世界は閉鎖的で権威的とはかねがね言われてはいるが、教師(多くは高校大学に多いように思うのだが)

で、ひどく勘違いしている人たちに会って来た。但し、これはあくまでも自照自省に立ってのことである。その人たちは、どれほどに私を、人を不愉快にさせたことだろう。しかし老子の教えと無縁な人は、その自己顕示に惑わされ、酔い、ひとときは世間から英雄的に扱われる事例は多い。
と、書くこと自体己が小人性を露呈しているのだが。それでも今もって許せない人はいる。
ところで、幻惑され、陶酔に浸る人が、女性に多いように思うのだが、これはやはり差別の発想だろうか。

↕ ↕第23

 曲なれば則ち全し[曲全の道]、枉(ま)がれば則ち直し、窪めば則ち満つ。破るれば則ち新たなり。少なければ則ち得られ、多ければ則ち惑う。

◇教師は謙虚であることに常に細心の注意が必要である。それでなくとも、「子どもは人質」「教師は教室で殿様・独裁者」と揶揄される教育の世界なのだから。ただ、その謙虚であること=東洋的ではなく、あくまでも日本的ではないかと思う。しかしその考え方は、消極的と負的に言われる時代。時代の変容?それにして声を大にした言葉が多過ぎやしないか。都会の喧騒、孤独。

第24

 希言は自然なり。[無言の言・不言の言]。無為の益。信(誠実)足らざれば、乃ち信ぜられざること有り。

◇「教育」への愛、情熱を持つ人こそ、教師の教師たる根拠であろう。しかし、過ぎたるは及ばざるがごとし、脚下照顧ない教師も多い。どこまでも「センセイ」なのである。生徒を前に延々と喋るのである。饒舌(字的には冗舌の方)。多言。要はおしゃべり。そんな教師を多く見て来た。生徒も生徒、馬耳東風を決め込む“賢い”生徒。苛立ちを具体的行動で現わさざるを得なくなった生徒。
学校世界独特な大人と子どものタテ社会。パワハラが多くで告発されているが、学校社会で聞くのは教師世界でのそれだけのように思える。
寡黙の重み、威風感。ヒトがヒトの中味を知る手立ては、生徒―教師でも同様。先ず直覚そして言葉。

第25

 物有り混成し、天地に先んじて生ず。…天下の母と為すべし。吾れ其の名を知らず、これに字して道と曰う。……人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る[模範とする]。

《中国:木・火・土・金・水〈五行思想〉》

◇日本の教育は、何故をもって日本の、或いはその背景に脈打つ東洋の、中国の古代思想を再考しないのだろうか。英語は戦後国際語の地位を確立しているからやむを得ないとしても、儒教や道教の考え方、感じ方が日常に溢れているにもかかわらず、欧米の教育思想が尊重されている。
その眼で、教育(学校)と自然、子どもの人間形成について考えを及ぼすことこそ現代の課題ではないか。
私自身、インターナショナル・スクールとの協働校でIB(国際バカロレア)なるものを知り、その一端を担い[日本語]眼が開けたが、10年前(2000年)に導入された「横断的総合的学習」の理念と、相通ずることではないか、と思った一人である。しかし、その後「横断的総合的学習」は基礎学力の低下を招いていると批判され、今では見るも無残に無くなっている。そもそも小中高での基礎学力自体曖昧なことで、なぜ導入時にそれを検討しなかったのか、無責任を承知で思う。
このような西洋偏重のその場しのぎの対症療法で、国際社会で日本が生きる道を見出すことはあり得ないのではないか。江戸時代の人の「読み書きそろばん」「お天道さま」との言葉が過ぎる。

2022年6月2日

多余的話(2022年5月)  『大阪画壇』

井上 邦久

 行動自粛が続いた春に京都国立近代美術館で大阪画壇に光を当てた展示会が開催されました。いまどき珍しい控えめの料金にもかかわらず、三密もなく入場制限や感染対策も不要で、ゆっくりとした時間を過ごせました。

狩野派が牛耳る江戸画壇や円山応挙が核を作った京都画壇はよく知られています。他方、大坂(阪)に画壇があったのか?という素朴な疑問さえ聞かれ、知名度も低く影も薄い。フェノロサや岡倉天心から評価されず、教科書に載せて貰えないせいなのか「知られざる」とか「不遇の」大阪画壇という寂しい扱いが続いています。そもそも大阪画壇の展示会を京都で開催することも妙な話ですが、大阪で開催するともっと人が入らないのでしょうか。
過剰な期待が外れると逆恨みしがちですが、その反対のケースもたまにはあるようで、今回の展示は愉しかったです。

長崎に渡来した沈南蘋に学んだ熊斐、そして鶴亭の花鳥画の系譜。大坂堀江の木村蒹葭堂のサロンに集った面々の墨跡。「大大阪」の頃の女性画家リーダーの北野恒富や、近代建築が増殖した中之島から川口居留地跡に縁の深い小出楢重の作品もオマケで並んでいました。
しかし、このような素人の不親切な説明では「知られざる」大坂画壇は「不遇」のままになりそうなので専門家の文章に助けてもらうことにします。

・・・鶴亭は長崎聖福寺の黄檗僧で、清の画家の沈南蘋に師事した熊斐に南蘋風花鳥図を学んだ。還俗して京都、大坂に進出。文人画家と交わった。四十代半ばで黄檗山萬福寺に戻り塔頭紫雲院の住持を勤めた。1785年に江戸下谷池之端にて64歳で亡くなった・・・。(神戸市立博物館 2016年4~5月『我が名は鶴亭 若冲や大雅も憧れた花鳥画⁉』展の図録より抜粋)

木村蒹葭堂旧居跡の石碑と案内板が大阪市西区北堀江の大阪市立中央図書館(今は辰巳商会中央図書館とネーミング。大阪市史編纂室所在)の角にあります。実業家・画家・コレクター、更に文人墨客のサロンの中心として著名。古今東西の博物収集は若冲の『動植綵絵』製作のインスピレーションに繋ったと聴いたことがあります。

数日後、親戚の墓や自分用更地を借りている京都深草の石峰寺へ参りました。春秋の寺蔵品展示会も感染対策の自粛が続いていて、特に今年は本山の黄檗宗祖隠元禅師350年大遠忌法要もネット配信で厳修される程の厳しさの中なので、石峰寺でも伊藤若冲顕彰会員のみが出入りを許される短期間の内覧会でした。
今回はいつもの若冲作品ではなく、鶴亭の屏風絵や「鶴図」を中心とした展示でした。実に安全で静寂な寺の美空間を独占したあと、しばし住職とご母堂から鶴亭についてのご教示をいただきました。

5月は大坂/大阪について、WAA例会でオンライン報告をさせていただく機会があり準備に集中しました。以前に集めた地図や歩き直して撮った画像を盛り込んで『大阪歴史散歩「かやくごはん・てんこもり」』というお気楽なタイトルを付けました。色々な加薬(かやく/具材)を炊き込んだ安あがりの夕食のような内容でした。その一端を以下記します。

道修町から北浜、中之島を歩き、淀屋橋から88番のバスで川口へ。
水にちなむ地名が多く、国貞らによる浮世絵『大坂百景』には多くの水辺の景色が描かれています。そんな「水都」と呼ばれる土地に漢方薬由来の薬業や大和川の流れを付け替えたあとの河内木綿を背景にした綿業が発達し、全国の米・俵物(中国向け海産物)交換市場を持つ「天下の台所」と称された「商都」でもありました。
明治維新直後の停滞期をしのいで二十世紀に入ると、東洋のマンチェスターと呼ばれた「煙都・大大阪」の後背地が育ち、念願の築港が完成。東北アジア航路の拡充と北幇(山東煙台中心とした川口華商)の活躍を基軸とした大陸貿易も急成長しました。
また、東洋一のアーセナルの大阪砲兵工廠を核に膨張した「軍都」の側面がありました。

戦争末期、この「軍都」を標的とした大空襲により、人家も生産拠点も貿易拠点もほぼ壊滅しました。そこに至る77年間を中心に報告しました。

この報告の資料作りの過程で、外から大阪にやってきた人がリーダーシップを取る事例が多いのではないか?という素朴な印象が生まれました。
豊臣秀吉(尾張)、五代友厚(薩摩)、小林一三(山梨)、松下幸之助(和歌山)、横山ノック(北海道)らは保守的な同調圧力から自由であり、斬新なデザインができたような気がします。しかし一方では、大阪商工会議所の創始者の五代友厚、後継の藤田傳三郎(長州)を「都市制圧者・進駐軍」と見なし、近世の高い水準にあった大阪文化を理解しえなかったとする異見も知りました(『大阪の曲がり角』木津川計)。
大阪画壇を商家の床の間に押し込めた一因もこの辺りにあるのかも知れないと愚考しています。

折しも、この春に藤田美術館が改装され「傳 傳三郎好み」とされる逸品が、照明を落とした人工空間に配置されています。暗闇でしか見えないものを訪ねるのも一興ですが、改装前の公民館風の佇まいにも味わいがありました。
新装開館の賑わいとは反対に姿を消していく建築物もあります。堂島大橋北詰の莫大小会館の斬新なモダン設計がお気に入りでした。昨今はギャラリーやオフィス、そしてカフェが雑居していましたが川口貿易が華やかな頃には、メリヤス売込商の拠点として、華商との往来が至便の場所でなかったかと睨んでいます。
大阪商人を鍛えたのは、北からやってきた華商集団だったとの説を思い起こすと、丁々発止のやり取りの声が聞こえてくるような場所でした。老朽化と非耐震構造を理由に7月で閉館、大大阪の残り香をかぐ機会もあとわずかとなりました。

仕込みが不十分な生煮えの「かやくごはん」的報告となりましたが、関東や海外のみなさんにステレオタイプでない大坂/大阪の一面を伝えることに努めました。
菊田一夫の造語「ガメツイ奴」、今東光が創作した「河内悪名」、そしてヨシモト的なアクの強さだけが大阪ではないと、少しでも報告できたとすれば幸いだと思っています。