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2019年8月27日

夏の高校野球全国大会はやはり甲子園がいい

井嶋 悠

野球観戦の趣味のない私で、息子が小学生の頃、敢えてプロ野球観戦に連れて行ったが、野球そのものよりナイターに映える芝生に感動した記憶が残っている、そんな程度である。だからテレビ中継もほとんど観ないし、観ても途中で終わる。そもそも地上波中継の大半が、あのカネがすべての巨人だから尚更観ない。
因みに、かつての“西鉄ライオンズ”というチームは非常に印象が残っている。ただ、それも稲尾がどうの、中西がどうのとか、監督三原が名将であったとか、そういった野球に直接つながることでの印象ではなく、彼ら選手たちの公私豪傑振りに強く魅かれたからとの邪道である。

ところが、加齢がそうさせたのか、今年異変が起きた。
履正社高校と星稜高校の決勝戦、最初から最後までテレビ観戦をし、高校野球の魅力に開眼した。プロ野球とは、私なりの理由から比較には相応しくないと思っているが、これについては後で触れる。
両校のレベルの高さがあったからこそ、なのかもしれないが、地方大会から決勝まで戦い抜き、全国約4000校の頂点を目指す両校の選手、監督、応援団がもたらす緊張感と昂揚感が、そこに満ち溢れていたからと私は思っている。 この緊張感と昂揚感、音楽表現で言えば心地良いリズム感である。
攻守選手のめりはりのきいた俊敏な動き、まだ幼さも残る表情(この表情について、笑顔が今では全高校?共通項のようだが、時に不自然な、また場違いなものも感じられ、笑顔のTPOがあってもいいのではないか、と個人的には思っている。)、大人への兆候が明らかになりつつある鍛えられた肉体、選手たちとの相互信頼が自然態で伝わる監督の采配、それらを鼓舞する応援団の音楽と声との融合。音楽劇的感動。

それらはプロ野球にはない。プロ野球にあるのは、職業(プロ)としての自覚と技術とそのための冷静さ、それらが醸し出す“間”である。劇的(ドラマ)性が強調されるが、強調するのはアナウンサーと同調する解説者、一部観客、そしてマスコミだけではないのか。リズム感が全く違う。2拍子と4拍子の違い?
試合の平均時間を見ても、高校とプロでは、前者が2時間前後、後者が3時間前後と自ずと違っている。 この違いは、サッカーともラグビーとも違う。これは、試合時間内と外(がい)の違いから来るのかもしれない。

解説者は難しい理屈ではなく、あくまでも聞き手に徹した実体験からの言葉をさりげなく言う人が良い。その意味でかの清原和博さんは、一度だけしか聞いたことはないが、良い解説者になると思う。あの事件で思い考えること多々あったはずで、ますます味わい深くなったかと思うので早く復帰してほしい。彼が復帰したら私のテレビ観戦が増えるかもしれない。但し、巨人戦以外で。

アメリカ大リーグのダイジェスト版を観て、日本の野球“道”との呼称に懐疑的な(野球に限ったことではなく、本来道のついているもの以外でのいろいろな場面、領域で持ち出される“道”精神)私は、大リーグの選手たちの少年性、観客のリラックス性を羨ましく。微笑ましく思う。さすが“アメリカ”の国技だけはある。
また、高校野球の関係で言えば、阪神球団“死のロード”とか自虐的言い訳などせず、自身たちの原点であろう高校野球を真っ白な心で再自覚、再自己発見してはどうか。
閑話休題。

少年野球が、サッカーに押されて減少傾向にあるとは言え、愛好者は根強くあるようだ。その野球が日本に移入されたのは明治時代とのこと。 これについては、元国語教師の牽強付会ながら、やはり正岡 子規の短歌を共有したく思う。
明治35年、子規は結核と脊椎カリエスによる3年間の壮絶な苦闘の末(その時の様子は『六尺病床』に詳しい)、35歳で亡くなったが、その2年後に刊行された歌集『竹乃里歌』に、「ベースボールの歌として」との題で9首が収められている。その中で2首を紹介する。

「久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも」
「うちあぐる ボールは高く 雲に入りて 又落ち来る 人の手の中に」

子規にとってスポーツは全く無縁だったそうだが、野球を知るや熱中した由。21歳の時である。捕手の実践体験も持つ。
その子規が、夏の甲子園大会を観れば、さぞかし強い感銘を持ったことだろうと思う。

因みに、子規の絶筆は三句で、高校の教科書にもよく採られている。
「糸瓜(へちま)咲(ざき)て 痰(たん)のつまりし 仏かな」
「痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず」
「をとといの へちまの水も 取らざりき」

夏の甲子園は8月に行なわれる。 15日の正午、試合中であっても黙祷が捧げられる。また6日は広島、9日は長崎の被爆の日である。
15日はなぜか、燦々と降り注ぐ陽射(ひざ)し、突き抜ける碧空、躍動する白雲、の印象が濃い。平和への私たち、すべて?の人々の祈念を象徴するかのように。

彼らの雄姿の巨大さに気づかされた、酷暑の2019年8月だった。 夏の高校野球全国大会は甲子園がふさわしい。それを最もよく知っているのは、当日の選手たちであり、元選手たちであり、プロ野球で活躍した、している選手たちであろう。
だからなおのこと、その裏面、例えば甲子園に出場することでの膨大な経費の調達、選手と一般生徒の在校中、卒業後の進路のこと、学費(特待生、寮制度を含め)に係ること、日々の学業との両立、主に私立校での監督の地位の現在と未来、更には勝つためには手段を選ばず的指導、学校運営等々、大人社会の至難な諸問題を克服してこその感動であることに思い到らなくてはならないだろう。 そうでなければ、きれいごとで終わってしまう。
しかし、それらは栄光と感動のための、大人そして生徒の、必然的に求められる心身労苦であり現実である、との考え方になって行くのだろうが、私としてはどこか寂しさが残る。
そうかと言って、出場公立高校への脚光に、学校の都鄙格差を思えば一概に与する私でもない。

私は、33年間中高校教師生活を過ごし、74年間生き、様々なことでの表裏、現実と理想に、驚かされ、打ちのめされ、今、これを書いている。

2019年7月4日

爺さん[達]は怒っている ―無党派爺の悪口雑言―

井嶋 悠

婆さん[達]も怒っている。

現居住地県には世界遺産日光がある。自宅から車で1時間余りである。 日光には[見ざる・言わざる・聞かざる]が、安置されている。この人生訓を無視し、見て、聞いて、言う(怒る)ことにした。 余りにひど過ぎるから。国情が、世相が、欺瞞が。いかにもうるさい爺さん向きの社会状況ではある。

現代日本社会に、狭い言い方をすれば政治に、怒っている。それも大いに怒っている。 この頃では、権力と言う腐臭さえ漂いつつあるようで、怒ると併行して鼻栓が必要なまでになっている。
私は74歳(韓国流で言えば75歳。韓国では生まれた時が1歳で日本の数え年に当たる。しかし、母胎内での生命時間、またゼロの意味を考えるとすばらしいと思う)の立派な?爺さんである。
ただ、爺さんが爺さんに怒ることもある。これは私の生き方がそうさせるのである。 高齢者運転に関して、心身への現在自覚もなく過去を美化し運転への自信を得々と言う爺さん。老いを御旗に同情を起こさせ、尊大な言動をする爺さん。他人(ひと)のことを聞いているようで聞かず結局は自身の考えだけを言う聞き下手の話し下手の爺さん、政治だけでなく様々な場面で迎合と寛容をない交ぜる爺さん、等々。
これらは、もちろん爺さんを婆さんにいつでも置き換えられる。

では、お前と言う爺はどうなのだ?もちろん、こうならないよう細心の注意を払っている。ただ、小人のかなしさ、随所で漏れを指摘されているとは思う。

そんな私は若者を、とりわけ10代から30代にかけての、歯がゆく、苛立たしく思うのである。いずれ多くの自身が、路頭に迷うがごとき困惑と不安に襲われるのは眼に見えて明らかなのだから。 香港のデモを、その現象も本質も対岸の火事と漫然と眺め、欧米の同世代の若者の表面だけをなぞっているのが何と多いことか、などと言えば若者から叱責を受けるだろうか。
昔は云々との老人言葉は避けたいが、どこかあまりに軽佻浮薄が目立つのは私だけか。目立つから軽佻浮薄と思うのかもしれない。地味に日々を積み上げている若者を知っているだけに。

何でもかんでも自己責任を金科玉条とする潔(いさぎよ)さ?で、政治に眼を向けるのは暇人、好き者のすることとわきまえ、カッコヨク生きることに専心し、ふと気づけば早三十路、孔子の言う而立(自立)どころか、そこに醸し出されて来る虚しさと将来不安。老人の杞憂? 引きこもり=犯罪者を、ヘイト言説を、いつしか肯定する自身に気づき狼狽(うろた)える。こんなはずではなかったと。

1950年代、イギリスの演劇『怒りを込めて振り返れ』を端に、“怒れる若者たち”との言葉が広がった。その頃、日本では60年安保問題で、若者の大きな揺り動かしがあった。私が15歳、中学生の頃である。その10年後、私は大学院生であった。70年安保等、日本社会再考のうねりの時で、「全共闘」云々とは措いて、若者に何らかの意思表示を社会が求めた。
私はその波を直接に、間接に浴びた一人であったが、周囲が私に寄せるほどの存在はなかったに等しい。ただ、当時の全共闘現役世代から、なぜかあれこれと依頼(モーション)があったことは事実である。
私は私にできる限られた中で自身を考えたが、思考と行動を合致できなかった。要は、脱落者(ノンポリ)であった。そのことは私に様々な陽と翳を投げ掛け、自身を考える契機(きっかけ)となった。それが私の人生の、+になったのか-になったのかは今もって分からない。当然のことながら?
しかし、私自身は陽翳いずれも、積極的に作用したと今思っている。 それほどに複雑な心が巡るので、私より少なくとも数年若い世代が、安直に全共闘世代を讃美的に言うことには、無性に腹が立つ。これも爺さんならではの為せる業。 恐らく、私の社会への怒りの原点はその辺りにあるのではないかと思っている。

それから50年、自然な爺さんとなり怒り、歯がゆく思っているのである。 なぜか。日々の現実を、余命との響きの中で思えば思うほど、次代に託し、つなぐにしては余りにも無責任ではないかと思うのである。

具体的に挙げる。 初めに、ここ数年《内を視る》ことの重要性を思っている私ゆえ、国際[外交]を挙げる。
現首相の外交力が、一部か多数かは知らないが、誉めそやされ、本人もその気らしく、これまでどれほどの国費(数百億円)を使い、どこに行ったかについては以前投稿した。 私には信じられない。 前東京都知事のアメリカ出張費が、辞任の一端となったのは未だ記憶に新しいかとも思うが、それと較べれば〔象と蟻〕がごとき差の莫大な国費(国税)を使っての外交成果に何があったのか、あるのか。直近で言えば先日のイラン訪問は一体何だったのか。「トランプと言うボスの。小間使い。」日本と言う国の代表の誇りなど微塵もない。(政治家お得意の美辞麗句ではあるようだが、政治家のそれほど醜悪で残酷なものはない)だからなおのこと、その大統領就任式前に得々と行ったゴルフ外交が過(よ)ぎる。日本(人)へのあまりの恥辱醜態と私は確信する。 また、領土問題に係る対中国、韓国、ロシア、経済問題に係る対EU、イギリス、アメリカ、石油に係る対アラブ圏等々、そして拉致問題を「絶対の使命」とまで言う対北朝鮮、との成果はどれほどに伸展したのか。
虎の威を借りた狐。抽象的でも理念的でもはたまた弁解的でも、更には感傷的でもなく、私たち国民に確かで具体的説得力を持った言葉が、どれほどに発せられ、私たちはそれを聞いただろうか。

【余談】 私の学校現場での経験から言えば、内を治めきれない権威指向の人格乏しい者(校長)に限って、外に眼を向け。その成果(多くは理念だけの)を上滑りの言葉で言うのは定番である。

先のことと関連あることとして、その人たちの中では一筋通っているのだろうが、一人の主婦の発言からノーベル平和賞候補とも言われる『日本国憲法』の、しかも第9条に手を加えようと首相は、自衛隊員の誇りを謳(うた)い目論んでいる。どこまで私物化すれば気が済むのだろう。

以下、内政に関して怒りを書く。 先ず、私に直接関係ある領域から。
教育と福祉。
教育の無償化。政府は鬼の首を取ったかのように自画自賛するが、現状の歪みの変革なしの実施が格差の上塗りとなることは周知とさえなっている。 無償化そのものを否定していない。なぜ塾・予備校あっての小中高大、との現実に眼を向け、足を踏み入れないのか。無償化する前に塾予備校不要の教育社会実現を目指すべきである。 それは、小中高大の教員意識の、学校教育の、その入り口である入試方法の在りよう、すべてにつながって来る。
ただ、外国人子女教育等々、諸事情から学力補充が必要な場合もあろうかと思う。その場合は、在籍校と連携した「補習塾」を運営するという方法は必要になろう。
公私立問わず学校に一度ついたレッテル、印象(イメージ)を払拭するには時間がかかる。しかし、塾・予備校を除外して再建し、息がつまりそうな現行の[六・三・三]にあって、伸びやかにそれぞれ生徒が未来の自身のために学校時間を生きている学校は幾つもある。校長以下、教職員・保護者のそして生徒たちの汗の結晶として。
尚、今の少子化高齢化時代を機会とする小中高校6・6+2年制の、私は支持者である。 一方で、経営が下降線に入ったのか、世に言う有名私立大学傘下に入り、青息吐息の、存続が唯一絶対使命的学校もある。

私自身を含め、私が出会った一部の教師たちだけかもしれないが、入試問題作成にあたって、入試科目各教科では、それまでの阿吽(あうん)がごとき学力観で(時に惰性的情緒的に)作成、実施して来なかったか。
そして多くの教師・大人が悲憤慷慨する。「学力低下」を、「こんなことも知らないのか」と。 この心の動き、どこか本末転倒ではないか。
塾・予備校で補われ、養われた学力を基に、各年度の入試問題批評がにぎやかに行なわれ、マスコミは日ごろの個の尊重、学歴疑問論を忘れた有名校入学者発表の見事なまでの節操なき二枚舌。
その塾・予備校を取り外したら、日本の教育は壊滅するのだろうか。変えるのは、教師であり、保護者であり、立法府であり、行政府であり、マスコミであり……要は大人達である。
元関西の私立中高校教師経験から関西に限定して言うが、兵庫県の神戸高校、大阪府の北野高校、京都府の洛北高校の風格はどの学校も太刀打ちできない。歴史の重み。結果としての進路進学。
少子化まっしぐらである。千載一遇の機会ではないのか。始まりがあって歴史があるという自明。 それとも現状の学校教育現実をそのままに「学歴無用(論)」を推し進めるほうが効率的なのだろうか。

もう一つ、教育と言うか、教育を動かす[背景・母体]に関して。 「森友問題」「加計問題」。前者は係争中とのことだが、この両問題は過去完了ということなのか。 信じられない。 国民を愚弄するのもほどほどにしてもらいたい。

福祉。
高齢化は医療医学の進歩があってのことだから、喜ばしいとも言える。しかし、このままなら先行き不安から絶望と生の拒否の悲哀に変わるのではないか。 高齢者の基本は人である。国家の人への基本は基本的人権の尊重である。確かに自身から死に向かう人もいる。哀しいことである。それでも懸命に生きようとする人もある。その多少、軽重を問わず、国を築いたのは一人一人の人である。年金は月々一時的に預け、運用依頼した報労金である。 人間らしい生活とは、人によってその内容は様々だろう。ただ、衣食住と生の余韻感得の平均値的な姿は、その国の経済力で概ね想像できるのではないか。それを国が保証する。当然過ぎる義務である。
にもかかわらず、官僚性丸出しの老後自助資金報告書を出し、こともなげに2000万とか3000万と言い、紛糾している。当たり前である。そして報告書を受け取らぬとまで言っている。国としての責任逃避であり、義務放棄である。
政党スローガンで「日本を守り抜く!」というのを見たことがある。何を守り抜くのだろう。高齢者は怒りを通り越して、泣いている。そしてこの国に生まれたことを悔やんでいる。
消費税を10%にすると言う。福祉への財源がないから、と。なんでないのだ?対国内、対国外の収支から、ない理由、事情を庶民の金銭感覚で分かるように、精細に、どれほど説明されたか。幾重に重なる本末転倒。

私たち日本人はあまりにも優し過ぎる、おとなし過ぎる。この優しさは優しさではない。私たちは権力者からなめられているのである。
北朝鮮が、中国が、韓国が、はたまたロシアが侵攻して来る、イスラム圏諸国のテロが起こる。日本は、グローバル社会での存在感を誇示しようとしているから危険度は大きいと言う。だから防衛費は何兆円とかかって当然と言う。その日本は世界NO,1レベルの借金大国である。
百歩譲って+2%の増税分すべての収支表を公表し、福祉に徹底して使用するとなぜ明言しないのか。 私が馬鹿で暢気で世間(世界)知らずだからだろう。この政治のムチャクチャが信じられないのである。

働き方改革。うんっ!?
どれほどの人がその恩恵を、身をもって受けているのか。その日その日の仕事の時間と成果との闘い、企業自体存続の不安を抱えての産休また有給休暇での現状。更には、夕方以降が勤務の職業、職務への働き方改革など聞いたことがないのは私だけか。
政治家と一部官僚、大企業だけでの高慢はいずれ叛乱を呼び、“スローガン”は中途半端なまま消え去る。

男女協働社会。
当たり前のことを新発想語かのごとき言うが、一向に眼に見えて確実化し得ない理由は、すべて男(社会)にある、と言っても過言ではない。
働く能力差に男女は関係ない。体験から絶対的自信をもって言える。妊娠、出産は女性だけの力であり痛みである。ただ、その選択は当事者[母と父]に委ねられることである。その上で、出産を希望する女性には、またその家族には最大限の保障がされて然るべきで、国の存亡に係る。
男は、もっと自身に、女性に謙虚にならなくてならない。今もって、その女性を軽んじる、モノ的に見る輩がいることが、信じられない。
協働、共に力を合わせて働く。しかし何らかのやむを得ない事由で片方が働けないときは片方が働くのも協働。 この最低限が、共有されてこその施策であり、だからこそ自由の尊重と自由の責任の上に立って、それぞれの自由な選択、判断が生まれるのではないか。

と、爺さんが“ご託”を並べる前に、と婆さん(達)は一言いう。
「収入低迷、諸物価高騰、なんだかんだ理由をつけての政府収入増加策、いい加減にせいっ!」

先日、ハーバード大学の卒業式講演で、ドイツのメルケル首相が招かれた。その日本語翻訳全文を、旧知の方のご厚意で読むことができた。内容云々の前に三つのことが過ぎった。
○ハーバード大学は、なぜメルケル氏を招聘したのだろうかということ。
○言葉の重み。(あくまでも己が生を顧みての、そこから生れる静かな強さの言葉)ということ。
○まかり間違っても日本の現首相が招かれることはないだろう、ということ。

2019年5月26日

若い時の純粋から老いの純粋へ

井嶋 悠


19世紀のフランスの、恋多き男装の麗人作家にしてフェミニストのジョルジュ・サンド(1804~1876)が、老いについてこんなことを言っている。

――老年を下り坂と考えるのは全く誤りである。人は歳をとるにつれてだんだん高く、それも驚くほど大またで上へ上って行く。――

彼女の生涯は72年間で、時代が違うとはいえ、私は現在74歳であるから、高齢化日本にあってなおのこと彼女の言葉には考えさせられる。自照自省の大きなきっかけとなる言葉である。

最近、高齢者の自動車事故・事件加害者が増えている。中には、自身の過失を認めない者もいる。一人で歩くことさえままならないにもかかわらず。 彼女が言う真逆の老人たちである。運転に自信気の笑みを浮かべインタビューに応える輩(やから)も含め。

老いは若い時代の延長上にある。当たり前のことである。老いを終焉と考えるから頭の中がもつれる。老いは一つの経過点に過ぎないと考えればいいのである。難しい極みだが。私には仏教信仰はあるが、仏教徒ではない。しかし、人類誕生以来、だれも死の後を知らないはず?だから、経過点と考えることは許されるのではないか。因みに、私は死後、肉体は土となり、霊魂は宇宙を駆け廻ると思いたい派であるが、未だ不十分段階だ。人間、次の指標があると生き甲斐があるというものだ。閑話休題。

若い時は苦悶の連続で、先人に言わせればその苦悶が人生の肥やしになると。時が経ち顧みれば、美的哀調さえ醸し出した他人事のようになるが、当時は悪戦苦闘の日々である。しかし、時[時間]の力、老いと共に自然に、或いは意図的に苦悶は削ぎ取られ、澄明さが増して来る。恬淡にして枯淡の境。と言うのは一つの理想で、多くは残滓が何やかやと心底に蠢(うごめ)き、頭をもたげようとしているではないか。おぬしはいずれかと問われれば、まだまだ後者である。だから私は一休禅師に親愛の情を寄せる。

仏教では「五慾」「十悪」との、人間探索の言葉がある。
五慾での、「食慾」「色慾」「睡眠慾」「財慾」「権力慾」、「十悪」での殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語等々。これらは何も仏教に限ったことではない。
人間をとらえようとする時、最もと言っていいほどに複雑にして厄介なことが、「色欲」-「邪淫」ではないか。それは、人間にあって最善、最上に位置付けられる「愛」と、時に表裏に論ぜられるがゆえに。
「エロス」・「エロティシズム」。
現代日本語としてある「エロ・エロい」から、時を、葛藤を経て、老いに向かう道程(みちのり)で直覚し、自問し始める「エロス」「エロティシズム」への昇華。そこでの新たな葛藤…。
ただ、私が使う「エロス」・「エロティシズム」について、澁澤 龍彦(1928~1987・フランス文学者・評論家・小説家)の書『エロティシズム』から引用、補足しておく。

「セクシュアリティとは生物学的概念であり、エロティシズムとは心理学的概念である」
「(プラトンの言葉を引用する形で)エロスとは神がかりであり、魂の恍惚であり、一種の狂気である」
「ドン・ファンの純粋を求める姿勢を、カザノヴァのような、陽気で野卑な漁色家のそれと混同してはなるまい。現実原則に逆らって、永遠の女性(母親像)を求めつつ、つねに裏切られている男の心理を、精神分析学でドン・ファン・コンプレックスと呼んでいる(以下略)」

白人の白は白ではないと思う。アジア人の白こそ白だと思う。タイに行った時、透き通る白い膚をした若いタイ女性を数多く見て感嘆した。日本人も、中国人も、韓国朝鮮人も然りである。 雪白(せっぱく)を思わせる寒色なのだが温もりで包まれた暖色の白。微塵の汚れも感じさせない人肌の白。純白。

作家の優劣は女性描写で決まる、との言説に昔接した記憶がある。なるほど、だから夏目漱石は一流なのだと思ったから、この記憶は間違いないと思う。 作家を志すなら好きな作家のすべての作品を筆写せよ、と説く人があったが、私には作家への志はなかったから頭でその言葉を聞いていた。今にして思えば、作家云々とではなく、人生として、漱石の女性描写だけでも筆写しておれば、私の人生、もう少し彩りが備わったかなと思ったりもする。
かてて加えて、美術・工藝の世界で、完成された作品以上にその作家たちの素描に魅かれる私がいる。例えば、ルネッサンス時の画家たち、シュールレアリストの画家、彫刻家、陶芸家たちにそれを見る。

神田の古本屋街を特に何かを探し求めると言うのではなく彷徨っていて、1994年3月号の『芸術新潮』、特集「常識よさらば―日本近代美術の10章」なるものに目が留まった。店頭に雑然と並べてある雑誌の一冊である。価格は100円。
その中の一章[彫刻史に仲間外れにされた人形・置物]と、もう一章[貧乏画家の飯の種は何だったのか?]で、釘付けにされた二つの作品(写真)。
一つは、人形作家・平田 郷陽(二代)(1903~1981)の『生人形・粧』と、一つは、洋画家・渡辺 与平(1888~1912)の挿絵「キッス」。 前者から放たれている清楚な妖艶。後者の赤子をあやす女性の無償の愛の姿。

『粧』は、浮世絵に材を得て、江戸時代後期の20代半ばの商家の新妻をイメージして創作された由。 丸髷に、「顔は弥生の桜花の吉野の山に馨れるが如く、眉は中秋の新月の明石の浦に出づるに似たり」(興津 要『日本の女性美』所収「目の美しさ」より江戸期の作家・曲亭 馬琴の言葉を孫引き)で、目は無表情の下向き加減、「口紅は、矢張り、指先で軽く溶いて月の輪形に下唇にさし」(同上書での「くちびる・くち紅」の項での『おつくり上手』(平山芦江著・大正5年刊)より孫引き)、右足の膝からほんのわずか大腿下部がのぞく左立て膝姿とその足指。家事を重ねていることを示すふくよかな、左手は左膝に静かに置かれ、右手は挿したかんざしに添えられている。着物は麻の単衣で幽かに両の乳房が見て取れる。
何という清楚なエロティシズム。美。

後者は、明治時代に正岡 子規によって創刊され、夏目 漱石が『吾輩は猫である』『坊ちゃん』を発表した俳句雑誌『ホトトギス』に掲載された挿し絵。一筆書きがごとき見事な筆致で、赤子を慈しむ母をとらえている。プロの画家としての技がきらめき躍動する線と面、そして対象への愛に、私は思わず魅き寄せられた 。
その二つに共通するものとは何だろうか。
一つは、女性への慈愛の眼差し。
一つは、余計な装飾がどこにもない、必要にして十分なものだけで構成され、決定的美が醸し出されていること。

幾つもの呻吟を経て、己が人間的心から、何をどれほどに削ぎ落としていくことができるか。
若木の樸(あらき)から老木の樸へ。青い樸から玄(くろ)い樸へ。
歳を経ているがゆえに錯綜する幾つもの葛藤。苦悶。 だからこそ、ジョルジュ・サンドの先の言葉、一休禅師が最後に愛した盲目の女性森女に言った辞世の言葉とも言われる「死にとうない」が、響いて来る。

やはり老いは難しい。 高齢化社会をひた進む日本。個人の集合体としての社会が、今までの考え方、発想で通ずるとすることでの大きな不安と危険を思ったりする。言葉だけの同情の氾濫世情。 老いの一人の戯言、杞憂ならいいが。

2019年5月15日

日日是好日・一期一会

井嶋 悠

小学校の運動会で、50メートル(だったと思う)徒競走は、ゴールまで誰よりも速く走ろうと一目散だった。今もこの種目は行われているのだろうか。
一時、足が速い遅いで順位をつけるのはいかがなものかというので、順位をつけない学校も出たそうだが、今はどうなのだろうか。
障害の有無とは関係なく、子ども心理としては順位がある方が楽しいというか、張り合いがあるように思うが、勝って驕り、負けていじけたりするのはいただけないとの上でのこととして。
なにせ小学校でさえ、「学級崩壊」がある時代だから。なんともはやではある。

年を経て、老いの段階に入り、小学校同期会などに参加すると、欠席者の生死とか入院の有無、また出席者でも先ずは健康の話題から入り、今通院していないと言うと感嘆の声すら漏れる。
ところで、歳を取ると、幼い時のゴールに向かう姿勢が180度変わるというのは、人生、遅きを善しとする天が送った暗示なのだろうか。

今の生活ぶりを恥じて、参加したくとも遠慮する人もなくはない。それをおかしなものだと言うのは簡単で、いわゆる“上から目線”、同情の危ういところである。
一切の例外なしに、その多少とは関係なく(そもそも多少とは、何をもって言うのかも含め、人がとやかく言うことではない)お国に身を投じて来たのにもかかわらず、その国は老人を、美辞麗句だけで結局は放置、捨て置いていると言えば言い過ぎだろうか。
或る近しい人は「老人はさっさと死ねということなんだろう」と言っている。

私自身でさえ憤る、老人側の“老い”を錦の御旗がごときにした身勝手な言(ふる)行動(まい)、倫理観・独善観のあることは重々承知して言うが、
例えば、 車が無ければ生活が成り立たない[生きて行けない]地域があちこちに在る現状の一方で高齢者運転事故の多発。これを解決するには、それらの地域の公営バス[コミュニティ・バス]の濃やかな普及しかないが、実状はどうだろうか。私の現居住地でも然りである。
また、老人養護施設入所に際して、或いは老人医療に際して、負担が1割であれ2割であれ負担自体の発想が解せないのだが、どうしてあれほどに経費を当然のように徴収するのだろうか。
備考ながら、韓国の50代の知人ががん手術の後、医療費負担が5%になった旨聞いて愕然としたし、日本の1級障害者に対して医療費還元の有無が市町村によって異なるのも不可思議に思う。

世界に冠たる借金超大国日本の、政府、行政側の反応はほぼ決まっている。「予算がない」。 国家防衛、国家名誉を口実に、自衛隊に(自衛隊に係る憲法論争が喧(かまびす)しいが)膨大な予算が使われ、併行して「思いやり予算」への現アメリカ政府のますますの要求に“ゴルフ”で応え、名誉ある日本を担う、と自尊する政治家とりわけ国情を左右する首相、大臣が外交と称する外遊での巨大な出費とその成果に、無関心に或いは麻痺しつつある私たち。
以前、現首相の外遊経費について、某前国会議員が情報公開を請求し、それに関して以前にこのブログに投稿したが、どうしてマスコミはそのことに触れないのだろうか。それとも、既に追求があったことを私だけが知らないだけなのだろうか。(私は定期的に新聞を読まない上に、週刊誌、月刊誌もほとんど読まないので、私の無知は十分に予想される。)

本末転倒も甚だしい『愛国心』。日本と言う国は、そういう国なのだろうか。

「平和」との語彙で捉えれば、なぜ本末転倒なのかとの疑義が出されると思うが、私が抱く平和とは、先ず国民一人一人の心の平和、安寧であって、〇○国の、××国の脅威による自衛、との視点からの戦争と平和の、その平和ではない。順序が逆なのである。 だからなおさらのこと、アメリカの核の傘の下とか在日米軍の現状に、甚だしい疑問を持つ。
私は、浅薄な性善説や性悪説、また自民族・自国絶対の寂しさに陥らぬように留意しているつもりだが、最近の日本・アメリカや中国・ロシアを見ていると、私の留意をことごとく覆しているように思える。
北朝鮮問題で、私の旧知の韓国人に今もって親族が北にいる人がいるが、その人たちは今の動きを、各国首脳の更には一部ヘイト的言説をどのように受け止めているのだろうか。
このことは、やはり旧知の香港人[中国人と自称せず、香港人と称する人は多い]にも思い及ぶ。

古代中国の思想家、例えば老子とか孔子は『小国寡民』の前提に立って、人間に、社会に叡智を発し、それは今もって、少なくとも私たち日本人の力、栄養となっている。
日本は、国土面積の4割が森林・山岳地帯(要は人の生活地域は国土の6割)で、年々少子化、高齢化は進み、GDP等世界の経済領域で、過去は過去のこととなりつつある。過去の栄光を再び浴することこそ使命と考える人(とりわけ政財界人?)は多い。
しかし、だからこそ経済大国復活を目標とせず、且つ現状を善しとする危険な道に埋もれることなく、未来構想を持つに、今は千載一遇の機会と私には思えてしかたがない。 これは、余りに非国民発想、或いは精気をどこかに置いて来てしまった老人発想なのだろうか。

日日(にちにち)是好日(こうにち)。[この読み方には、ひびこれこうじつ等幾つかあるがここではこの読み方にする]
これは、10世紀唐の時代の雲門禅師の言葉で、出典は、公案集(禅師が弟子に問い掛け、答えを求める事例を集めた書)の『碧(へき)巌(がん)録』。
この言葉の要(かなめ)は「好」にある。
禅思想では、善悪、美醜、高低、長短といった相対の視点を持たない。これは老子も言っているところである。そのもの、ことがすべて、一切なのである。だから「好」を良いとか悪いの意で取るとこの禅師の言葉は矛盾する。
その日その時がすべてなのである。だからこそ、いついかなる、どのようなこと、ものであれ、それらに対して愛しみ、慈しむ心が芽生えると言うのである。

「好」との漢字は、甲骨文では[母]+[子]の会意文字で、それが[女]+[子]の会意文字となった旨、漢和辞典の「解字」で説明され、続けて「母親が子どもを抱くさまから、このましく、うつくしいの意味を表す」とある。 母性は女性専有のものではなく男性にもある。逆も然りである。しかし、出産し、母親となるのは女性だけである。 このことを知れば、子どもを抱く母の、純粋で、絶対的慈愛を思わずにはおれない。その時間が好日である。そこに東西異文化はない。絶対愛。永遠と表裏の無の境。
と、直覚できるのだが、私は今もって心身は、全く別の方向、相対世界にどっぷり浸(つ)かっている。

この感覚を、先述した日本の在りように当てはめてみる。 アメリカがあって、中国があって、ロシアがあって、韓国があっての日本ではない。日本は日本である。もちろん、これはすべての国に当てはまることである。
釈迦が言う「天上天下唯我独尊」の本来の意味。自身が、自国が一番偉いとの相対的考え方ではなく、それぞれの自己、自国を唯一とする禅思想に通ずる考え方。
一人一人の心の平和、安寧がすべてとする世界、地球である。『国際連合』の理念に通ずることだが、それが機能していない。なぜか。
大国意識[指向]×小国意識[指向]、指導×従属での恩義と安心から、それぞれの思惑が働いて、最後の最後に「拒否権」とのエゴが貌をもたげ、結局は大国間競争に堕する。
日本は禅思想が12世紀以降、急激に広がり、浸透し、今も或いは今だからこそ人々の心を捉えているにもかかわらず、悪しき渦中に巻き込まれている。否、自身から渦中に飛び込み指導(リーダー)云々と頻りに言う。
一部の、その中に私もいるが、現代日本人は、敗戦、占領下を経て、70有余年経った今も、日本が自律し、自立[独立]した国と思っていないのではないか、とさえ勘ぐってしまう。
因みに、老子は先のことの記述の後に次のように言っている。

――生じて有せず、為して而(しか)も恃(たの)まず(何かをあてにしない)、功成って而も居らず――

その時、その一瞬がいかに大きな意味を持つか。 私など、顧みれば後悔先に立たずばかりの小人以外何者でもないが、だからこそ先人(古人)の言葉に、同じ人間の“気”を感じ、どこか安堵し、前を向こうとする。

「一期一会」は、茶道の心得を言った言葉が源である。それは以下である。

――茶の湯の交会は、一期一会といひて、たとへば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり。――

いずれか或いは共々、人生の、そして教育[教えるということ]の「座右の銘」にしている人は多いのでは、と思う。

2019年4月19日

桜・観桜

井嶋 悠

我が家にはソメイヨシノとヤマザクラとシダレザクラがある。どれも心ほのぼのする樹で、愛(いと)しい情愛を寄せている。贅沢なことである。
一週間ほど前、ソメイヨシノは7分咲きほどで、後二種は未だ蕾状態であった。ところが三寒四温の一方の極みとでも言おうか、先週10日、昼頃から夕方まで雪が降った。積雪は1㎝ほどだが、桜の花弁と枝に重ね合った。
厚い雲を通して射す薄光を背に、淡い桜色と枝の黒茶色と静かに注ぐ雪。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀 友則)の陽射しを、桜の叙情と美と思っていたからなおのこと、初めての感銘を知った。
およそ風流とか風雅とは縁遠い私だが、その打ちひしがれたようにも思え、しかしじっとたたずむ姿に、かな(悲・哀・愛)しみの美が過ぎった。加齢(来月高齢者運転表示のための講習)の為せる美感なのかもしれない。もっとも、この感銘が風流風雅とつながるのかどうか分からないが。

桜は菊と併せて日本の国花で、その桜は今では、中国や韓国、また欧米の世界に広がっている。これも日本発の国際化であろう。そこに関わった自然をこよなく愛おしむ多くの日本人たち。
因みに、他国の国花について、中国は現在検討中で牡丹・梅・菊・蓮・蘭が候補だそうで、台湾は梅、韓国は木(むく)槿(げ)である。
両「中国」で梅が選ばれているのは、古代国際化の奈良時代[青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり(小野 老(おゆ))]の花と言えば梅であったことを思い起こすと歴史の感慨を持つ。

日本は南北約3000㎞の長い列島国で、“桜前線”の北上は1月の沖縄に始まり、5月から6月の北海道へ、と約6か月にもわたって移動する。桜=入学式と言う固定観念の勝手を思う。
遠い昔に何かの機会・時期があって長い歴史を持っていたり、観光施策等で知名度が広がったりして、名所は全国到る所にあり、そのような場所は人の群れでごった返し、観桜繁華街と化す。中でも、高齢化時代を迎え、老人の出掛け率は相当な数に昇る。
近来の特徴と思うのだが、重厚なカメラや三脚を携えた老人[主に男性]が、列を為してと言わんほどに並び、機械音痴の私など、その人たちは、自身の眼で味わうより、レンズを通して美的考察?をしている時間の方がよほど長いのでは、と思ったりする。事後の制作?も含め、趣味を持つことの素晴らしさは思うが、あまり増えて来ると、偏屈な私など意地でも撮るまいと思ったりする。

蛇足ながら、この老人と言う表現、具体的には今日やはり70歳以上かと思う。従って65歳から69歳までは或る種空白のような微妙さを思ったりする。先日「お年寄り夫婦の火災死」との文言報道に接し、私たちと同年齢であることを知り、複雑な思いだった。

そして樹下宴席。これなど、有名地では早朝から席取りで競い、これはこれで他人無用のちょっとした呑み屋街と化す。

【余談】ブルーシートがござ替わりはいただけないと思うのだがどうだろう?江戸時代の版画(浮世絵)にあるような紅い毛氈で、とまでは言わないが。レッドシートなどどうだろう?

今では、桜を味わいたいなら、敢えて知られていない場所、つまり近所の公園等無名の場所、に出かけたり、花屋で満開の枝を買って来て家庭内で雰囲気を醸し出したりするようだ。また、最近「エア花見」飲食店なるものも盛んになっているとのこと。自然を前にしての人為(人工)の時代、現代。

私の観桜“繁華街”体験を2つ記す。
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」は、与謝野 晶子の代表的な歌の一つで、私自身、この“艶”なる漂いに魅かれる一人である。
もうずいぶん昔のことだが、八坂神社から清水への道を歩んだところ、そんな情緒を味わうどころか、人と土産物店や露店等に圧倒された。
同様に、私が小学校前半時代にあっては(後半は東京に転校)、葵祭も祇園祭も時代祭も、時空に余裕があったように思うし、20代になって父親(京都人)の影響から正月料理のために年末に出かけた錦市場も、当時はまだ地域の台所であったように、私の記憶にはある。
これは単に郷愁なのか、現状は国際的観光地の避けて通れない宿命なのか。また、先の歌は与謝野晶子のあくまでも創作[虚構]なのか、或いは時代が進むということはこういうことなのか。
いずれにせよ、何かそこにひっかかるものがある。昔は良かった、ではなく。

福島県三春町の国の天然記念物「三春の滝桜」は、一本のシダレザクラの大樹で有名で、昨年夫婦で訪ねた。自宅から車で2時間ほどのところにある。
桜の大きさはチラシによると、高さ13,5m  幹回り8,1m  枝張り 東へ11m 西へ14m 南へ14、5m 北へ5,5m、の滝の名にふさわしい雄大さで、樹齢1000年以上とされている。
当然、ここも人、人、人で、駐車場からその桜に辿り着くまでに左右に飲食、土産、植木の店が並ぶ。
確かにその誇り高い桜に感動するが、どこか落ち着かない私たちがいて、行った見た帰るといった滞在。
ただ、帰路、近くの人もまばらな公園の横を通った時に見掛けた桜空間が、心に染み入ることに、思わず夫婦で笑みがこぼれた。この笑みは一体なんなのだろう?

私は、吉田兼好が『徒然草』の有名な「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」で始まる137段の、以下の言葉に、私なりの人生、日々の生活から心に過ぎることと重なる。私自身が、兼好の言う「よき人(身分教養のある人)」ぶって「片田舎の人」を蔑(さげす)むのではなく。

[以下、研究者の口語訳を転写する]

――身分教養のある人は、いちずに風流人ぶった態度もなく、またおもしろがる様子も淡泊である。片田舎の人に限って、何事もしつこくもてはやすものなのだ。花見のときは、花のもとに人を押し分け身体をねじるようにして割り込み、よそ見一つせず見守って酒を飲み、連歌をして、そのあげくには大きな枝を考えもなく折り取ってしまう。――

《私注》ここで言う連歌は当時流行していたとのことで、今で言えば「カラオケ」だろうか。
次のような説明に出会った。

――明治に入ると、桜が植えられていた江戸の庭園や大名屋敷は次々と取り壊されて桜も焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕した。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門はこれを集めて自宅の庭に移植して84の品種を守り、1886年には荒川堤の桜並木造成に協力し、1910年には花見の新名所として定着。(以下略)――

それが一つの起点となって国内国外に広がり今があるとのこと。破壊から新たな創造へ……。
明治の初め、近代化の始動期にあって、桜は焚き木にされたということである。富国強兵、殖産興業を国是として、滅私奉公的愛国による自然を忘れた施策の一つとしてとらえるのは間違いだろうか。
このことは、幕末維新で権力を掌握した新政治家たち、その後の膨張主義志向、そして太平洋戦争での敗北、戦後の諸外国からの援助や朝鮮動乱特需、ベトナム戦争特需等があっての復興にもかかわらず、不遜な自意識過剰の私たちの先人にさえ思い及ぶ。
昭和の二つの大きな転機、1945年と1960年~70年にかけて、に私たちはどれほどに先人の叡智を知り、自省し、先見の明を持ち得ていただろうか。

桜は100~200種もあると言われるが、ソメイヨシノが代表格であろう。そのソメイヨシノ、寿命が60年~100年とのこと。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門の尽力については、先に引用したが、今年は2019年、その新名所定着から109年。東京オリンピック・パラリンピックの来年、110年の節目を迎える。
何かと節目をつける世相、政治に倣うわけではないが、桜の寿命と併行して、日本の寿命を過去と現在と未来から再考すべき時が来ているのではないか。
既に「反近代(化)」の潮流は、近代化の源流であるヨーロッパにあっては、とりわけ第1次世界大戦(1914年~1918年)後、深まりつつあると言うではないか。西洋偏重、尊崇を言うのではない。「対岸の火事」を花火でも見るような自身の無知、無恥、軽薄さを思うのである。

最近、成熟は爛熟となりいずれ腐食する旨の、日本の或る政治家の発言を何かで知った。
「一億総活躍社会」「男女協働社会」の実態と自画自賛の能天気、教育無償化の負の側面への放置、個の教育の実態と嘘。10代から20代の自殺増加への対症療法で良しとする自己満足、賃金格差の偏リ、高齢者福祉での“ビジネス”との用語が平然と使われる非先進性、若者への将来不安を煽り「自己責任」で片づける責任転嫁、毎年繰り返される災害での自然への畏敬を忘れた同情的その場しのぎ、自由を言葉巧みに標榜しながら管理化への拍車、外国の脅威を盾に組まれる膨大な軍備費等々。
にもかかわらず先進国の、経済大国?の、矜持による外交成果の膨大な費用[税金]を使っての、摩訶不思議な誇示そこに見て取れる国民への愚弄、国税の私物化。
確実に腐食に差し掛かっているとしか思えない。近代化は、社会に、人々に幸いをもたらすと信じられて来た。今、果たしてそう言えるだろうか。
やはり「日本の近代化は、西洋社会、中でもイギリス、フランス、ドイツと違って、上からの近代化」との指摘が響いて来る。
「上からの」の途方もない重み、「上」の人々の独善的で偽善的権力性。
もう100年も前に夏目漱石が喝破した「内発的」ではない「外発的」の限界。要は日本の底が、確実に見え始めている。

政治世界での、オレがオレがの、与党の「○○一強」とか、暴言、妄言、はたまた野党の同じ穴の貉(むじな)。その滑稽さがゆえにますます募る虚しさ。この感性で次代を担う若者に何を託そうと言うのだろうか。
このことは、外国人労働者、外国人観光客誘致での、人を人として見ていないとも思える、拝金主義=資本主義の害毒、にも明らかに見出せると言っては過言であろうか。
尚、甚だの蛇足ながら、私は共産主義国家を善しとするほどの安直さはない。

桜の、冬を耐え、あの黒い幹、枝から、可憐な桜色を生みだしている姿をあらためて静かに見つめたい。
個も、国も、そしてその基盤となる教育も、実利を求める効率と「上からの」に身を委ねた画一指向の安心感から、本質的(ラディカル)な自省、脱却が求められているように思えてならない。
それとも、漱石が言ったように「できるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。」と感知、認識するのが生きる事の真髄なのだろうか。

 

2019年3月5日

2019年2月・沖縄県民投票 ―今、「インテリ」って何だろう?―

井嶋 悠

沖縄の米軍基地の普天間から辺野古への移転に関する県民投票が行われた。
統計の数字は、それを見る人の立場、信条等によってとらえ方は変わり意見も変わるが、同じ国の一員として、基地問題の根源にあることも含め己が考えを明確にすべき時であろう。
投票率、賛否率等から、沖縄県民の「反対」意志表示は明確な事実である、と私は思う。
また、『日韓・アジア教育文化センター』で培われた人とのつながりに於いても、それぞれの意思表示は必要なことであると個人的には考えている。

「結果に法的規制はない」との一見!合理的説明を突きつけられる虚しさは推して知るべしである。否、民意を示し得ただけで十分で、後は国民一人一人の良心である、と沖縄県人から言われれば、私はどう応えれば良いのか、狼狽える私が浮かぶ。
今回の選択肢「どちらでもない」の投じた人々の心情にあるもどかしさ、そして寂しさ。
江戸期の、近現代の沖縄の歴史と現在を知れば知るほど、私たち日本人としての良心が問われているのではないか。

「同情ほど愛情より遠いものはない」との表現は、昭和10年代に、小説『いのちの初夜』で、川端康成が世に知らしめた“癩病(戦後の表現はハンセン病)”作家北條民雄の言葉で、私が20代の頃に、心に突き刺さった棘の一つとして今もある。
この同情と愛情、相手・対象への気持ち時間の長短と、そのことで自身は何をし得たか、に違いがあるように現時点では思っているが、これで言えば今回の県民投票についても私は自己矛盾を犯している。同情すれど愛情なしとしか言い得ない、との意味で。「同情するなら金をくれ」と、どう違うのか。

投票結果に関して、全国紙A紙とM紙の論説を痛烈に批判している、著名人の文章に触れることがあった。
私はその方の考え方、対話方法或いは話し方に、以前から違和感を持つ一人だが、それはそれとして、その人は持論を展開するにあたって「インテリ」との言葉を何度か使っていた。その時、私に過ぎったことは、この人はひょっとして、現代日本人にとってインテリとは何ぞや、と問うているのではないか、と。そして、漠然と流されるままに使って来た、私の言葉で説明できない私を見た。

今日の情報社会にあって、知識は到る処で溢れかえっているから、辞書で時に見掛けるインテリ=知識人などあてにならない。例えば、学歴不要観(論)がある一方で、今もってT大を頂点とする大学進学優先社会[それも多くは塾産業の力を借りての]で、そのT大進学を競う高校数校の生徒(インテリの卵?扱いの)を集めた「クイズ大会」といったテレビ番組がある馬鹿げた世相にあってはなおのこと、知識人の図式など傲慢ささえ臭ってくる。大事なのは知識より智恵である。だから高学歴者がインテリとは限らない。

その前に、そもそもインテリなる言葉自体死語であるとの考えを持つ人もあろうかとも思う。しかし私の中でインテリと言う言葉はまだ生きているし、インテリの良し悪しで社会は変わるとも思っている。
そこで、大概のことは分かるパソコン(ネット)社会、その中でも小中高大レポート・小論文での、また私自身恩恵大で、或る漫才師はそのフレーズを使うことで受けていたから世に定着しているのだろう【ウキペディア】を引いてみると、幾つか問題ありとの前提付で以下のように書いてあった。
元の表現を基に整理して引用する。

因みに、そういう安易性を嘆いている大学教師(インテリ?)の言葉に接したことがあるが、鵜呑みは何事でも危険で、自分で考える一つのきっかけとして十分に存在価値を持っている、と私は思っている。

――知識階級とも表現されるこの社会的な階層を指し、以下のような働きをする。
学問を修め、多くの現象を広い見識をもって理解して、様々な問題を解決する知恵を提供する。
その知識によって発見・発明された成果物を提供することによって、社会から対価を得て生活する。
具体的には、
社会や経済を知識によって先導する政治家や経営者、
文化的な創作活動によって、社会に新しい価値観を育む芸術家やクリエイター、
学者として各々の分野を深く探求した学者、
教育の場で他を指導する立場を担う教師、
道徳やモラルに関する警告を発して社会を律したりする報道関係者や評論家、たちである。
その一方で、単に高学歴であるというだけの意味にも使われるケースもある。――

これを読んでどれほどの人が納得するのだろうか。少なくとも私には、現代日本、要はほとんどの人がインテリにあたるのではないかと思える。更には上記説明者に従えば、私は正しくインテリなのである。であった。ウキペディア監修者の注文はもっともである。元教師の自身から離れてもどこか偏り、狭小を感じ、可能な限り事典[エンサイクロペディア]に近づくには疑問が残る。そして全国紙を排斥した人もインテリなのである。
日本の?近現代政治家の好きな標語発信、例えば『一億一心』『一億総中流』、最近では『一億総活躍時代』『オールジャパン』になぞらえれば、『一億総インテリ時代』としての現代ということになるのではないか。だから先に記したインテリと言う言葉自体を否定、黙殺している人の先見と叡智を思う。

死語でないなら一体どういう人たちを指すのか。私は人格者であることの有無が、すべてであると思う。人格に学歴も職域も、そして対価も関係がない。信をもって或る人がその人を信ずる直覚を持つか否かがすべてである。
人は一人の人格を持つが不完全である。だから結局のところ世人はすべてインテリなのである。ただ、その多少度の高低でより真に存在感を持った人格者となる、それがつまりインテリなのではないか。
そう考えれば、教師でも作家でも他の職域でも、インテリもいれば全く埒外の人もいる。
政治家に、私の知る限りとの限定ながら、今インテリはいないと思う。
昔はいたかどうか。石橋 湛山(1884~1973:第55代首相)の幾つかの論説を読んだ経験では、彼はインテリであったように思う。しかし病を得て、わずか在位2か月の短命であった。

首相は誰でもいいのである。周囲が御しやすい、扱いやすい党派人で権力指向の強い人を選べばいいのである。そもそも人格者は政治家を、観念的には目指しても現実的には目指さない。現政治家にも人格者はいるはずであろうが、私が知らないだけであろう。しかし、そういう人は表に出られないのが日本の政治世界のようにも思える。
現我が国首相はどうか。その内政と外交のあまりのほころびの酷さにもかかわらず在位期間が長いことが、上記を立証しているのではないか。そうさせたのは「あなたがた国民だ」との応えを想像して思う。
全国紙を批判した氏も、この表現を愛用している。

そのような人格者は、幼少時からその雰囲気を醸し出しているかどうかは、私の体験では「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」ほどには分からないが、あるように思う。
最初の勤務中高校はキリスト教主義の自由な校風を大切にする女子校で、とりわけ関西では、学校側の期待と理想とは別に大学進学校として名高く、毎朝、パイプオルガンの設けられた講堂で礼拝が持たれ、10分ほどの講話では卒業生も話者として招かれる。
私が奉職してさほど経っていないころ、世に言う或る有名(名門)大学に入学した卒業生が招かれた。
彼女の話の主点は「入試に関係のない科目の授業であれ、すべての授業、先生方の言葉(話)は、入試に際してどれほど有効であったかを実感した。」というものであり、それは“内職”に励み、予備校に頼り、進学がすべてのような考えの後輩が増えつつあることへの警鐘であった。
どれほどの在校生が、そのことに気づかされたかどうかは聞いていないが、私の中で今も鮮やかに残っている。その彼女の、授業中の凛然とした着席の姿勢とともに。その彼女はもう何年かで還暦を迎えるはずだ。

「名門校」と言う表現もよく使われるが、何をもって名門なのか、これまた多様と言うか曖昧である。しかし、先のような彼女が輩出する学校こそ名門校であろう。人格者を育むと言う意味において。
因みに、先の批判者は私が思う名門高校出身者である。「例外のない規則はない」。例外中の例外卒業生…。

政治は、社会を、教育を動かし、揺らす。
人格豊かな政治家が、大人が、つまり「インテリ」が、世に溢れることで、この非常にきわどい時期を迎え、疑問と不安ばかり山積しつつある日本を導き、次代を担う若者を叱咤して欲しいと思う。
その時、沖縄県人の大きな声は、時の経過とともに、いつものように上辺の声だけで消え去ることなく、日本の問題として、熱しやすく冷めやすい国民性の負の側面から離れて、確かな力になるはずである。

2019年1月24日

雪 螢―俳句再発見・再学習―Ⅱ 与謝 蕪村

井嶋 悠

雪螢」との出会いが、教師時代の昔を顧み、幾つかの俳句“授業”の、今の齢での私的再学習を試みることで、明日の私につなげられたらと思い、Ⅰで、松尾 芭蕉を採り上げた。
続いて、与謝 蕪村、小林 一茶、更には自由律俳句を採り上げて行くことにする。

専門家からすれば、芭蕉・蕪村・一茶と並べるなど呆然唖然苦笑失笑以外何ものでもないだろうが、そこは素人(中高校国語科教師とは言え、主は現代文で、古典〔古文・漢文〕は従であった)の、怖れを知らない暴挙。かてて加えて、それぞれ限られた俳句の中からの採り出し。
そのような限りなき不節制にあってのことながら、蕪村の俳句は私にとって難しく、直感的に飛び込んで来る句は非常に限られている。芭蕉の『石山の石より白し秋の風』のように、初めて蕪村を知った際、直覚的に心に入ったのは、『春の海 終日のたり のたり哉』くらいである。

どうしてなのだろうか。単に鑑賞力不足で片づけるのはいささか口惜しい。そこで『徒然草』曰く、「少しの事にも先達はあらまほしき事なり」で、先人の鑑賞を芭蕉の時とは少し違う形で参考にして、蕪村の句を鑑賞し直すことにした。

早々に釘付けにされた、或る専門家の論考『芭蕉・蕪村・一茶』の中の次の表現。

――(三者の作品を)各一字によって暗示するとすれば、芭蕉は「道」、蕪村は「芸」、一茶は「生」であろうか。――

求道者としての芭蕉、生活者としての一茶に比べ、「芸」の意味の多様性。技芸の芸、芸術の芸。蕪村が難しいはずだ、と勝手に納得する。

創作者は、見たり、聞いたり、触れたり等で得た直感を研ぎ澄まし、想像力でその直感を広げ、深め、それぞれの技術を駆使し作品を編み出すわけだが、蕪村の場合、他の俳人とは違うことに気づかされる。
蕪村が人を、自然を見るとき、先ず画人(美術)の彼があって、その次に俳人(文学)の彼がいるのではないか、或いは時に両者が同時に機能しているのではないか、と。
そう考えて、5・7・5の凝縮されたそれぞれを一枚の絵として思い描き、それを統合することで情感を読み取れるのではないか、と思い、幾つかの俳句を再鑑賞すると見えて来るものがある。

そこには明らかに、それまでとは或いは古今一般的印象(イメージ)として私たちの中に焼き付けられている、“わび”や“さび”、はたまた“枯淡の境(きょう)”と違ったものがある。
それは何か。何に起因するのか。やはり先ず画人としての蕪村の眼があるからではないか。
その蕪村の絵心は、江戸時代、池(いけの) 大雅(たいが)と共に完成させた老荘や禅を背景とする水墨画につながるが、しかし墨の濃淡だけでなく、淡彩画的要素をも持つ『南(宋)画』である。

そのあたりのことを、近代の詩人・萩原 朔太郎は、その論考『郷愁の詩人与謝蕪村』の中で、次のように記している。

――蕪村の句の特異性は、色彩の調子が明るく、絵具が生生(なまなま)して居り、光が強烈であることである。(中略)特殊な俳句心境を全く理解しない人、そして単に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、かうした蕪村の俳句だけは、思ふに容易に理解することができるだろう。(中略)一言にして言へば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度萬葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中でも最も「若い」情操の表現であったやうに、蕪村の俳句がまた、近世の日本に於ける最も若い、一の例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言ふのは、人間の詩情に本質してゐる。一の本然的な、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指してゐるのである。――

我が意を得たり、とにんまりする私がいると同時に、いつしか固定観念に染め込まれた老いの固陋(ころう)性に寄り掛かっていることに気づかされる。

萩原 朔太郎は、上記論説に際し六句挙げているが、内二句と私が絵画性を想った幾つかの句を挙げ、私的鑑賞を記す。

【萩原 朔太郎の引用句から】

○陽炎や 名も知らぬ虫の 白き飛ぶ

私の俳句再学習のきっかけとなった雪螢とは季節が違うが[陽炎・春の季語]、春の或いは新暦夏の光を受けてゆるやかに立ち上る陽炎と白い虫の飛行の組み合わせは、淡彩画の叙情を思い起こさせる。私は勝手に白い虫をモンシロチョウの純白の輝きとして、あの和紙が持つ純白さを活かした線と余白の美を思い描いている。

○愁ひつつ 岡に登れば 花茨

蕪村には「花いばら 故郷の路に 似たる哉」との句があり、解説では中国の陶淵明の詩を心に留めての句作旨書かれてあり、この季語「花茨・夏」は俳人に多く取り上げられた由。
晴れた夏の碧空の下、白い花をいっぱいにつけた花茨の横にたたずむ人。郷愁が滲み出ている後ろ姿を描いた自然の中の花と人の油彩画の雰囲気が浮かぶ。

【私が絵画的と直覚した幾つかの句】

○柳ちり 清水かれ石 ところどころ (季語「柳ちる」・秋)

私の美術鑑賞経験は甚だ狭小で、しかも多くは画集体験であり、絵画的と言うこと自体に蔑(ないがしろ)さがあるのだが続ける。
20代の折、イタリア人現代画家ジョルジュ・デ・キリコ(1888~1978)20代中頃の、幾つかの作品に衝撃を受けたことがある。作品『出発の苦悩』『イタリア広場』『占い師の報酬』の、ギリシャかイタリアの古代?建築をモチーフに、真夏の午後の沈黙、静寂(しじま)を感じさせる、光と影の形而上的絵画で、その乾いた画面に妙に惹きこまれた。
この句は、秋の寂寥を、それも感傷でなく詠っているように思える。散った柳、かれた清水、そこに露わに石が幾つかある、この組み合わせが、秋の清澄な大気の中での寂寥を生み出している。その感覚がキリコの絵を浮かばせた。静謐な孤独の描写。

ところで、この句と同様の感慨を得たものに次の句がある。

○水にちりて 花なくなりぬ 岸の梅』

この句には、梅の樹下の落花が散り敷いた光景から、春の気配の名残りの情の深さが漂う中、この一木のような梅があるとの前書きがあり、専門家は、この句は失敗作であり画家の眼ではなく、詩人の眼がとらえたものである旨、記されてあった。
個人的には、先の句と同趣を感じた私は、落花した幾本かの梅の樹々、その中にあって河岸の一本だけは、落花は川の流れに運び去られ、樹下にはない。その花の有と無と川の流れの組み合わせを思い描くとき、失敗作かどうかは分からないが、文学的なのだろうか。

○物焚いて 花火に遠き かゝり舟

この句では、三つの光が描かれている。かがり火を焚いている小舟と夕食の準備であろうか、何か焚き物している人(影)、そして遠方の花火。近景と遠景の17音の中での光の調和(ハーモニー)。
江戸期に一つの時代を創った安藤広重の『東海道五十三次』や幾つかの浮世絵の世界が浮かび上がって来る。

○不二ひとつ 埋みのこして 若葉哉

○菜の花や 月は東に 日は西に

○水仙に 狐あそぶや 宵月夜

この三句には濃厚な油彩画の輝き、幻想性を感ずる。

一句目の、不二の(斜め)上から眺めたかのような、瑞々しい自然の息吹きの壮大な光景。

二句目の、一面に広がる菜の花畑の鮮やかな黄色を包むように、東から淡い金色の月が貌を出し、西には茜色の太陽が沈まんとしている、満月のころ、東と西の空で繰り広げられるこの絢爛な大自然の交響美。

三句目では、ロシア出身の画家マルク・シャガールの豊潤な色彩美と幻想美を思い起こさせる。尚、この句の前書きにある「古丘」。これは故郷の丘を表わすとのこと。蕪村の郷愁。

一方で、次のような非常に現代(モダン)性豊かなデザイン的絵画を彷彿とさせる句がある。名月に映し出される露に濡れた樹々、枝葉、草花、石、土、時に虫の類をも映し出す一滴の露を、その露の眼からとらえた一瞬。

○名月や 露にぬれぬは 露斗(ばかり)

 

蕪村は画人[南(宋)画家]であり、俳人[詩人]であった。その蕪村の俗[世俗]との距離は、或いは眼差しはどうであったのか。専門家の一節を引用する。

――「俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚(たっと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最もかたし」《蕪村の言葉》という、矛盾する雅と俗の概念を止揚するのが詩であり、広くは読書による教養から得られた美意識である。(中略)これはまさに「高く心を悟りて俗に帰るべし」(『三冊子』芭蕉の俳論をまとめたもの)の、新しい文人的解釈であろう。――

そもそも水墨画や南(宋)画を観れば、俗に生きながらも己が意志的修養を通して俗を離れて[脱俗・超俗]生きる作者の姿を想いうかべる。だからこそ描かれた主題の、また線の。濃淡の、そして南画の静かな淡彩は、俗に在って俗に苦悶する私たちを魅きつける。
ユーモアを、ウイットを自在に、飄然と操れる人は、人を、社会をしかと観ている。心に余裕がある。
蕪村は、画人の眼と俳人の二つの眼で観る志向と修養を積み、自然な洒脱さを醸し出す。
と同時に、深い情愛に包んだ生の、力、孤愁、瞑想を詠う句がある。「愛し(かなし)」の感情である。
私も次のような句にそれらを見る。私的な寸評(【  】の部分)を加えて挙げる。

○青梅に 眉あつめたる 美人かな

【あつめ、が絶妙だ】

○夏川を 越すうれしさよ 手の草履

【専門家は、蕪村の少年時への郷愁、清純な少年詩性の天真流露を言うが、浴衣姿の若い女性を思い描く私は、汚れちまった俗な大人の発想なのだろうか。】

○さくら花 美人の腹や 滅却す

【美人と滅却、このおかしみは、さすがである】

○大鼾(おおいびき) そしれば動く なまこかな

【上の句と同様、心にゆとりなくしては創り出せない世界】

○学問は 尻からぬける ほたる哉

【世の学識者の方々、どう受け止めますか】

 

○飛かはす やたけ心や 親すずめ [やたけ心:勇猛果敢な心]

【動物の親、とりわけ母親の姿・眼差しの慈愛の美しさ】

○葱(ねぎ)買うて 枯木の中を 帰りけり

【昔、或る禅僧が敬慕する禅僧に会いに行ったとき、その寺の方から葱一片が流れて来るのを見て引き返した旨の話を想い出した】

○凩(こがらし)や 何に世わたる 家五軒

【ひっそりと、懸命に生きる人々への慈しみの眼差し】

○月天心 貧しき町を 通りけり

【貧しい町と大自然。凄み漂う美の描画】

○凧(いかのぼり) きのふの空の 有りどころ

【哲学とは、の定義に使えそうな一句】

 

私にとって難解な蕪村の諸俳句だったからか、思いもかけず駄文が一層冗長になってしまったが、最後に原点に戻って『春の海 終日のたり のたり哉』を確認したい。
擬声語と擬態語は違うので、最近ではまとめて「オノマトペ」と言われている。英語の[onomatopoeia]が源である。
以前、この英語に含まれる「poem・詩」を指摘した言葉に接し、ひどく感動したことがある。擬声語は言ってみれば自然太初的とも言えるが、擬態語は人為性を持った自然性がある。そして他言語と違って日本語は擬態語が豊富だと聞き、誇らしく思った。
この「のたりのたり」はその一つだ。「ゆっくり・ゆったり」の意味の「のたり」を重ねた言葉。畳語(じょうご)。

春の海―終日〔ひねもす〕―のたりのたり―かな。

この言葉群の音の響きと季節・情景の絶妙なハーモニー。これは画人と俳人の完璧なまでの融合と思う。やはり蕪村は偉大な術家である。
ひょっとしたら、現代日本人、老いも若きも、欠けているもの、忘れ去ったものが、蕪村にあるのかもしれない、とも思ったりする。
「軽薄短小」は、日本(人)の技術への讃辞であるが、これらの漢字それぞれを心・精神にあてはめたような現代日本。老いであることの幸い?雪螢との昨年秋の新たな出会いへの感謝。

2019年1月10日

ふるさと―江戸っ子カミさんと無故郷の私―

井嶋 悠

 

後1年半で、自動車運転に際して老人マークをつけなくてはならない年齢ともなる中で新年を迎えると、我が故郷(ふるさと)・原郷はどこなのだろう、とつい思い及ぼしてしまう。
妻は自身の故郷(ふるさと)をはっきりと内に持っている。それは同時に原郷でもある。夫たる私は、その故郷に係る言葉を、それも些細な断片でさえ、聞くたびに羨ましく思う。

こんな表現に出遭った。或る女流作家の言葉である。

「生れた土地を夜更けに出て来て、その後は古里に古里らしいつながりを失ってしまったものが、せめて、生活の情緒の最初の場所に、その故郷を感じようとしているのである。」

今40代以上の人で、童謡(唱歌)『ふるさと』を想い出す人も多いかと思う。(若い世代の人は、小学校時代に唱歌といった歌は習わない、と聞いたことがあるので。今もそうなら残念に思う。)

その『ふるさと』の歌詞は以下である。

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、

忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)に在(い)ます
父母 恙(つつが)なしや
友がき 雨に風に つけても 思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

この歌詞と先の作家の「生活の情緒の最初の場所」を重ねれば、故郷は10代前後から20歳前後までに心に沈潜するのではないだろうか。幼少期を経て、思春期前後半期が終わるころまでの時間と空間。
因みに、出だしの「兎追いし」、妻は長らくの間「兎は美味しいんだ」と思い込んでいたとのこと。

 

私の思春期前期。
私たち井嶋家の菩提寺は、京都市今出川近くにある。私の出生地は長崎市郊外のK町である。父が海軍軍医として京都から長崎に赴任していたためで、母は長崎人である。生年月日は1945年(昭和20年)8月23日。とんでもない日に凄い場所で生まれている。
生後1年も経たないうちに松江市に移り、その2,3年後に、京都市内に戻って来た。そのまま京都で、子ども時代を全うしていれば、私の人生も今とは違っていたものなっていたかもしれないが、変転は世の常。
小学校入学前後から、父がN県に単身赴任となり、小学校3年の後期から、大人の事情で在東京の伯父・伯母宅に預けられる。
預けられるまでの母子家庭生活で、母は私への音楽(音感?)教育には熱心だったが、外向的人間だったようで、学校から帰っても不在が多く、近所に居た父の兄夫婦にお世話になることが多かった。
今から思えばさびしい話だが、私の鈍感さからか、独り家の壁を相手にキャッチボールをしていたことや、独り星空を眺めていたことが、さびしさとは関係なく鮮明に記憶されている。
以前も何かに触れて書いたが、向かいの家に父子家庭の中学生くらいの男の子が居て、その少年を英雄視していた。老いを思わせる白髪まじりの父親にいつも怒鳴られ、勉強は全く埒外の少年だったが、虫採り、魚採り等々遊びの天才で、ついて回ったことが度々あった。また、銭湯は私や近所の子ども(ガキ)たちのプールで、何度、銭湯主からどやされたことか。

小学校卒業後、父は私を引き取り、西宮市に連れて行った。そこで待っていたのは新しく母となる人であった。小学校前半期の独りぼっちの多かった時間と併行して、離婚話が進んでいたわけである。
中学校は地元の公立中学校へ。入学式当日に体験した数名の生徒による運動場での“袋叩き”の驚愕、恐怖そして不可解。その日の担任教師の来宅で知る地域問題。
袋叩きとなった理由と背景を知らされ続ける3年間の、また継母との葛藤、齟齬の始まり。

私の思春期後期。
高校は世に言う進学校で、1学年3クラス、男女比3:1。課外活動はほとんどなく、教師たちの多くは、それぞれに自己を主張し、大学格差そのままの発言をする教師も。生徒もばらばら。そこで私がしたことと言えば、何人かの教師への悪だくみと反感。かと思えば、“個性的”教師の極的存在で生徒から怖れられていた男性国語教師からの庇護と情愛。

一年間の、ただ浪人していると言う日々。大学進学後の引きこもり的生活と酒と音楽といささかの美術と文学の、己が不明生活。心のデラシネ?父親と大学の或る教師の薦めもあって大学院受験をし、合格。
「全共闘」運動の高揚期。院生1年次、大学封鎖。中退し、東京での彷徨生活2年余り。人間の孤独と己の傲慢さの痛覚。そして帰宅。26歳ごろ。

子を持って知る親の愛。その実母実父は今はなく、継母は数年前、介護施設に。父死後、妹(義妹)の若くしての癌と死、また新たに起こる、今度は私も含めての大人の事情。
東京での時間は非常に濃密で、帰宅後、先の個性派教師の高配で教師への道へ進み、以後33年間の教師生活にあって確かな糧の一つとなる。

いくら晩稲(おくて)とは言え、私の「生活の情緒の最初の場所」とは、どこなのだろうか。
唱歌を踏まえれば、あの遊びの天才との時空かとも思うが、あまりにも短期間過ぎるし、父母との記憶が断片的過ぎる。そうかと言って小学校後半時はいびつだ。その後も……。
考えようによっては、住んだ場所すべてが故郷とも言える。全有は無?それとも無は全有?
これが、今も自己確認[personal identity]に揺れ動いている一因のようにも思ったりする。

故郷と言える場所が在る人は幸いである。孤独で弱い人間の最後の救い場所になると思うから。
随分昔のことだが、テレビ報道で、ホームレスが何かで取り調べられ、「お前の故郷はどこだ?」と聞かれ「ないです」とぽつりと言ったとき、問うたベテラン男性刑事が一瞬の間をおいて嗚咽する姿が思い出された。

妻は、生まれ育ち、大学を出るまで、東京・新橋のままである。しかも三代続く根生いの“江戸っ子”である。
寿司はつまむもの、そばは飲みもの。こはだ・さば・あじや赤貝をはじめ貝類を愛し、まぐろは赤身が王道でとろは猫もまたぐものと心得ている。今の時代、旬の時季はあってないようではあるが、鰹等々、初物にはどこかこだわりがある。なお、主に関西ものである松茸にはこだわりはない。
着る物も無地を好み、濃い茶や紺系の色を、また黒系を好む。
「一日一生」(一日生涯との表現もあるが、宗教を言う意図はないので、ここでは「日々是好日」に重なるものとしての一日一生を使う。)を人生訓とし、金への執着はなく「何とかなるさ」で、かの「江戸っ子は宵越しの金は持たぬ」を地で行っている。

当然、好奇心は旺盛で、テレビ等々の広告で食品や日用品の新製品情報を得ると早々に購入する、と言うより購入しないと落ち着かないようだ。だから、それが不味いものであったり、直ぐに壊れたりした時の、妻の落胆度は大きく、横で見ていて、広告の大げさ、結果詐術(ペテン)紛(まが)い、またテレビの脅威に憤怒すること多々ある。
ただ、新発売の購入も速いが、失望させられたり、気に入らないと冷め、忘れ去るのも速い。
妻の味覚に関して一つ加える。
彼女の関西時間が、新橋時間の2倍有余となったこと、それに加齢そして大病が加わったことで、今では京風の薄味をこよなく好み、郷愁以外東京風の濃い味を避けるようになっている。

歩く速度と比例し、話し聞くも速く、京風?におっとり話したり、話者が心遣いで丁寧に話せば、先々を見越し言葉を発し、それは失礼ではと言えば、だって言いたいことが疾(と)うに分かっているのに、話し続けられればまどろっこしくって、それこそ慇懃無礼よっ、と返す。しかしそこに他意、悪意はなく、要は「五月の鯉の吹き流し、口先ばかり はらわたは無し」と、本人も自覚しているのだが、時にその慮(おもんばか)りが外れることも少なくはない。結論が最後に来る日本語の難しさ?韓国語も?
結婚して40年、やっとそのことが分かって来た次第。
衣食異文化の理解は或る程度容易だが、精神異文化の理解はやはり時間がかかる……。

新橋は下町。100万人都市江戸にあって、武家はその半数近く。その住居はいわゆる山手(やまのて)にあって、独立心の強い下町人、つまるところ多くの江戸っ子連は反骨心も旺盛で、反権威精神を受け継いだのか、妻は政治家を非常に忌み嫌っている。とりわけ現首相には痛烈でテレビにその顔が出ると直ぐにチャンネルを替える。
また、妻の母校でもある銀座の小学校でのブランド制服、
(そもそも銀座は下町だがどれほどの人が承知しているのだろうか。それとも、たちまちに変貌の時間を過ごすのが日本の、日本人の国民性なのだろうか。明治・大正・昭和を生きた作家永井荷風は、明治44年に、エッセイ『銀座』で、次のように書いている。
これは明治と言う時代がそうさせたとも考えられるが、昨今の都市の変容を見ていてそうとも思えないが、どうだろうか。

――現代の日本ほど時間の早く経過する国が世界中にあろうか。(中略)再びいう日本の十年間は西洋の一世紀にも相当する――)

や、
寺の鐘の音(ね)を騒音とし寺の移転を求めたり、保育所設置への子どもたち喧騒懸念からの設置反対、はたまた幼少者の相談センター開設に際しての「××(都区内山の手の2,3の地名)ブランド」が下がるとの理由からの反対運動等に、甚だしい不快感と痛憤、疑問を抱いている。
「何様のつもり!?」と断罪の一言。
これは、江戸っ子気質と東京人気質の違いとも言え、全国(今では世界)各地からの多種多様な人々の集合都市の東京を思えば、一応京都人の私も共感同意する。一極集中施策の負の側面としても。

現首相への痛烈さは、大坂、神戸の「ママ友」も同じで、江戸っ子ゆえだけではない、女性、とりわけ主婦や母親層、の直感力、動物的勘の為せる業、と私は喝采している。
もっとも、人情の機微には異文化はないと思うが、日本の場合、下町人の方が長けているようにも思える。だから、たとえ同じ東京・下町人でもそれを直覚し得ない人物は直ぐに忘れ去られる。
妻曰く「下町の人間は怖いぞ」。
その怖い一人である妻は、娘23歳時6年前に、その娘を死出の旅に送っている。妻は、原因をすべて呑み込み、己が身を棄て娘の介護に奔走奮闘した。一切の弱音も愚痴もなく、五月の緋鯉のように。少なくとも私の前では涙も見せず。これぞ江戸っ子の神髄、と言うのは、江戸っ子ではない私の贔屓の引き倒しだろうか。

私たちは今、首都圏の人々が憧憬する地の一つでもあり、リゾート地とも呼称される所に住んでいる。ということもあり、首都圏からのリタイア組も多い。場所によっては[東京村]なるものさえある。
「上から目線」の諸例はしばしば知らされ、気づかされる。私たちも気づかぬうちに犯しているかもしれない。そんな中で、別荘として家を構えている東京下町育ちの70代の男性が、その上からの横暴を批判するのだが、その人物自体がその一人であることに気づいていない。
妻も私もひょんなことから何度か話したことがあるが、自身がすべての人で、私は不愉快さをいささか引きずり、懲りもせず会えば話しをする。妻はその人物を論外の一人として見、とうに記憶から消し去っている。

先に記した自己確認[personal identity]のアイデンティティは、ここ数年繁く使われる外来語だが、日本語で言えば「主体的個性」だろうか。
それは思春期前期から後期にかけての、学校、家庭、社会教育が非常に大きな意味を持つ。現実はどうだろうか。この少子化時代にあって、意識化された取り組みが為されているのかどうか。
「考える力」「表現する力」の、とりわけこの国際化社会での重要性が言われ、入試内容と方法の改革が実際化されつつあるが、入学志望者を受け止める側[学校教師集団]の【研究観ではなく教育観】【優秀の意味、内容に係る学力観】が大同小異で、結局は塾産業に拠りかかっているのではないか。これは、極端に言えば、進学であれ補習であれ、塾(産業)全廃止を仮定すれば明白に想像できるはずだ。

これら日々の切々と苦々しい現実を超えたところに故郷がある。生きる心の拠点として。だから「ないです」と答えたホームレスに接した刑事は胸を締め付けられたのだろう。
そう言う私もあるようでない“無故郷”だが、20代後半時まで住んだ場所を、それぞれに、私の故郷・原郷だ、と勝手な自己確認として思うようにしている。
そう思えば、これからもどこに居ても、行っても、いつまでも老け込まずおられる……。そう思いたい。

2018年12月26日

イギリスとアメリカと、そして日本 【一】

井嶋 悠

やはり政治と経済と、その延長上の軍事が、国際社会に在って「生き抜く」根本の力なのだろうか。日本の今の政治、経済を、私なりの視点で視る限り、不信と疑問は多く、謙譲を美徳とする(はずの)日本と相反し、ふと帝国主義との言葉さえ過ぎったりする。
こんな見方は、若い人たちからすれば杞憂のお笑い草なのだろうか。官僚でも大企業社員でもない若い人たちを何人も知っているが、彼ら彼女らの日々の生活を知れば、そうとは思えない、と同時にもっと“怒りを!”との老いの、しかし「歴史は繰り返す」を切々に思う、私がいる。

パクス・アメリカーナによる世界平和?どう表現するのかは分からないが、アメリカーナの箇所をそうはさせじと志向するロシア、中国と、アメリカーナの忠実な下僕日本。
そのアメリカの基礎の一端を担った、かつて「太陽の沈まない国」とさえ言われたイギリスは、EUからの離脱問題で今も揺れている。否、欧米自体が混迷の最中にあるようにも思える。
グローバリズムと「船頭多くて船山に登る」。船頭の根幹、根柢は文化、文明ではないのか。多文化主義、文化相対主義との言葉の重み。

今から120年余り前、日清戦争、日露戦争に勝利し帝国主義列強国家となった日本。
1910年、韓国を併合して朝鮮と改称し、朝鮮総督府を設置したその翌年の明治44年、夏目漱石は『現代日本の開化』と題して、和歌山で講演をしている。その核心(と私は思う)部分を引用する。

――西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。(中略)西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国との交渉をつけた以後の日本の開化は(略)、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になった。(中略)
こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです。宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。(中略)
大学の教授を十年間一生懸命にやったら、たいていの者は神経衰弱に罹(かか)りがちじゃないでしょうか。ピンピンしているのは、皆嘘の学者だと申しては語弊があるが、まあどちらかと云えば神経衰弱に罹る方が当たり前のように思われます。学者を例に引いたのは単に分かりやすいためで、理屈(りくつ)は開化のどの方面へも応用ができるつもりです。――

太平洋戦争で英米を含む連合国に対し無条件降伏し、内的外的要因重なる中で、戦後半世紀も経たない内に、世界の経済大国となった日本。その日本と漱石の時代の日本を同次元でとらえ、なんでもかんでも今の日本に当てはめる気持ちはないが、
例えば私の職業であった中等教育学校教師体験で言えば、「横断的総合的学習」の体系、現場組織背景に触れず、その悪しき面のみをとらえ廃止し、一方で、その学習に通ずる(と体験上思う)部分がある、西洋(欧米)の「国際バカロレア」に、なぜ時に一方的に傾くのか、また日本型?インターナショナルスクール(主に初等部)が今なぜ乱立するのか、が分からない。漱石の言う「ハイカラ」化なのだろう。

その漱石は、1900年(33歳)、文部省よりイギリス留学を命ぜられる。
留学は、大学卒業後、東京高等師範(現筑波大学)英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに疑問を抱き、2年で辞し、1895年、『坊っちゃん』(1906年刊)の舞台である四国・松山の中学校英語教師になったが、1年で第五高等学校(現熊本大学)に異動した時代のことである。尚、漱石は、その異動した年に見合い結婚をしている。
国費留学生とは言え非常に限られた支給のためイギリスでの生活は欠乏状態であった。
そもそも厭世的で、神経衰弱な気質であった上に、留学課題が英文学研究ではなく英語教育法であったこと、また留学時の窮乏生活も手伝って精神衰弱度は強くなるばかりであった。そして予定を早め、2年で帰国している。

この間の生活については、盟友であった正岡 子規(漱石留学中に逝去)宛の手紙『倫敦消息』(1901年)及び彼の心の状態を心配した下宿の女主人に薦められて始めた自転車挑戦の日々を書いた『自転車日記』(1903年)でうかがい知れる。
そこでの表現は『吾輩は猫である』(1905年刊)、『坊っちゃん』につながる、武骨にして洒脱、繊細な“江戸っ子”ぶりの漱石像を彷彿とさせ、思わず笑みがこぼれる。
例えば、こんな具合だ。

「…シルクハットにフロックで出かけたら、向こうから来た二人の職工みたような者がa handsome Jap.といった。ありがたいんだか失敬なんだか分からない。」[倫敦消息より]

もちろん日本のことも気にかけている。『倫敦消息』の(一)の初めの方で、

「日本の紳士が徳育、体育、美育の点において非常に欠乏しているという事が気にかかる。その紳士がいかに平気な顔をして得意であるか、彼らがいかに浮華であるか、彼らがいかに空虚であるか、彼らがいかに現在の日本に満足して己らが一般の国民を堕落の淵に誘いつつあるかを知らざるほど近視眼であるかなどというようないろいろな不平が持ち上がってくる。」と。

これらは明治の遠い昔の話として片づけられるだろうか。少なくとも私にはそうは思えない。

昨年2017年ノーベル文学賞を受賞した、英国籍の日本人カズオ イシグロ(石黒 一雄)氏は、受賞記念講演の終わりの方で以下のように述べている。(幼少時に父親の仕事の関係で渡英し、第1言語が英語ゆえ英語の講演であるが、私にはそのような英語力はないので土屋 政雄氏の翻訳を引用する。)

「科学技術や医療の分野で従来の壁を破る発見が相次ぎ、そこから派生する脅威の数々が、すぐそこまでやって来ています。(略)新しい遺伝子編集技術が編み出され、人工知能やロボット技術にも大きな進歩があります。それは人命救助というすばらしい利益をもたらしてくれますが、同時に、アパルトヘイトにも似た野蛮な能力主義社会を実現させ、いまはまだエリートとみなされている専門職の人々を巻き込む、大量失業時代を招くかもしれません。」

「知的に疲弊した世代の疲弊した作家である私は、この未知の世界をじっと見据えるのに必要なエネルギーを見つけられるでしょうか。」

「亀裂が危険なほど拡大している時代だからこそ、耳を澄ませる必要があります。」

この講演の表題は『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』(原題:MY TWENTIETHCENURY EVENING  AND  OTHER  SMALL  BREAKTHROUGHS)で、「ブレークスルー」の意味を辞書で確認すると[①敵陣突破 ②(難関などの)突破、解決 ③(科学、技術上の)画期的躍進]とあり、表題と内容に得心し、同時に氏の優しさに満ちた謙虚さ、鋭く広い想像力が、氏の小説家としての自覚とともに想像された。作品『日の名残り』『わたしを離さないで』に通ずることとして。

一方は、日本語を第1言語とし、明治時代に官命でイギリス留学をした日本人作家、一方は、幼少時にイギリスにわたり、英語を第1言語とする現代日本人作家。
時代を越えて通底する社会への眼。その指摘が現実とならないためにも、とりわけ若い人たちが“飼い馴らされた羊”となり、権力者に利用されないよう確(しか)と心掛けて欲しい。ここでも10代の、学校、家庭、社会の教育の重要性と怖れに思い到る。
因みに、イシグロ氏は現在64歳で、私のような老いではない。
明治時代の日本からの留学は、英・独・仏の西欧が中心だったが、その中にあって、現在の津田塾大学を創設した津田梅子は、女子教育の伸展施策を受けて、明治4年(1871年)岩倉使節団(使節・随員・留学生の総勢107名)の5人の女性の1人として6歳でアメリカに赴き、在米11年間、研鑽を積み帰国している。

現在、日本の海外留学状況はどうか。
短期語学留学等々での形態、年齢、留学地での環境等、多様な留学時代にあって、2017年の留学生状況は以下である。[出典:『一般社団法人海外留学協議会(JAOS)による日本人留学生数調査2017』
①アメリカ  19,024人  ②オーストラリア  17,411人  ③カナダ  12,194人  ④ イギリス    6,561人   ⑤フィリピン  6,238人

以下、フランスは⑩位で1,374人  ドイツは⑯位で432人、6位以下は中国、韓国、シンガポール、台湾等、アジア圏が多く占めている。

なぜその国なのか。どんな研鑽をしたのか。その成果はどうなのか。日本に、自身にどんな還元ができたと考えているか、幾つか聞きたいとは思うが到底できないことであり、それに近い内容を改めて検索し、現代日本と海外留学について学べられたらとは思う。
ただ、数字から見れば、アメリカの影響の強さが想像され、なおのことその内容に関心が向く。

私が中高校生時代学んだ英語が、アメリカ英語なのかイギリス英語なのか分からないが(何となくイギリス英語だったのかとは思うが)、教師に外国人はいなく、英語圏外国人と会話したことは皆無であった。
初めて英語圏外国人と会話したのは、最初の勤務校(アメリカ人女性宣教師二人によって、明治時代に創設された女学校)である。
その学校では、当時「サバティカル」制度(海外1年、国内半年)があり、幾つか考えた結果、国内の大阪外国語大学大学院(当時)日本語科に留学した。理由は「日本語知らずの日本人で国語科教師」を痛感していたからである。痛感させたのは、勤務校への高校留学生(1年間)であり、帰国生徒であった。その後の人生を想えば、この選択は間違っていなかったと思っている。

次回(二)では、教師になって以降出会った英語圏教師、保護者、高校留学生また帰国子女等々のエピソードの幾つかを発端にして、イギリスとアメリカについて思い巡らせることで、私的に現在と次代の日本の在りように思い到ってみたい。

【日韓・アジア教育文化センター】http://jk-asia.net/『ブログ』への、これまでの投稿内容の空疎さは、冗長さ共々重々承知している。それでも娘の死を契機として、甚だ分不相応な言葉を使えば啓示を得、自照自省を恥じらいひとつなく続けて来たが、来たる年も心変わりせずに、と言い聞かせている。
その空疎さについて補足する。
例えば平均寿命50~55歳前後の昭和初期頃の文人、と限定しなくとも、「昔は大人(おとな)が多くいた」と言うその大人たちの死生観、社会観と比すと、その表現、内容が平均寿命80歳時代にもかかわらずあまりに空疎であるとの意味である。
つくづく人の進歩について思い知らされ、その眼差しは即自身を照射し、そこから次の世界?に赴ければとの奇妙な心意気ともなったりする。
約5000字の『老子』を著した老子(老聃(たん))は、執筆後に消息を絶った、とか。

 

2018年11月18日

自由[FREE]であるということ~安田さん解放報道に接して~

井嶋 悠

私たち『日韓・アジア教育文化センター』が、NPO(非営利活動)法人の申請をし、内閣府から承認されたのは2004年9月17日のことである。当時は、事務所が2県〈私たちの場合、大阪府と兵庫県〉にまたがるときは、都道府県でなく内閣府であった。
後に、すべて主たる事務所の在る都道府県の管轄となり、10年前、代表(理事長)の私が栃木県に転居したため栃木県(庁)内となり、毎年度末の報告書類は、それまでの内閣府から栃木県となった。他に税務署(国税局)も関係するが、私たちの場合、従事者すべて無償であったので特に問題はなかった。ただ、法人県民税納付で免除申請制度があり、幸いにも認められ、税務関係での年度末手続は派生しなかった。

今、全国でNPO法人は52,000余りあるとのこと。それらの法人が、毎年所属都道府県に報告書を提出しているわけである。
年に一回とは言えこの煩雑さは、事務能力の無い私ゆえなおさらのこと、光陰矢のごとしは益々実感せられ、常にその憂鬱さに追われている心持ちであった。

にもかかわらず申請したのはなぜか。
法人が持つ公共性の説得力と公益性といった、信頼感への期待であった。いわんや、日本だけでなく、韓国、中国[香港・北京]・台湾の人々で構成されているのだから。
活動は、主催企画への助成金獲得も数年続き、また若い映像作家やデザイナーたちとの出会いにも恵まれ順調に進んだ。[詳細はhttp://jk-asia.net/を参照ください。]
しかし、私の勤務校退職(一応定年退職)や栃木県への転居から数年経ち、組織の維持、継続に難題が立ちはだかることになる。

理由は二つ。
一つは、「非営利」とは言え、収益事業が定期的にあっての運営、継続であることの痛感。
一つは、栃木県が目指す県と企業や法人等との協働推進と私たちの目指すことの方向性の違い。
だからなおのこと、全国の52,000余りの法人の浮沈に実体験から正負いろいろなことに思い及ぶ。

私たちは今年2018年9月2日,NPO法人から撤退を決議した。法務局登記上は「解散」であるが、私たちは、これまでの活動実態の継続を願い、あくまでもNPO法人からの撤退であり、実質は全く変容していない。
ただ、この手続きも、何度も栃木県県庁所在地・宇都宮法務局(往復約3時間)を訪ね、幾つかの書類の書き方等教示を受け、書類を整理提出し、数日後登記に解散が明記されても「清算結了登記」を別に申請しなくてはならない。かてて加えて県庁担当課にも提出しなくてはならない。

認可後間もなく経ったとき、韓国の或る人曰く。「それだけ拘束(しばり)があっても助成金はなし?!」
形式と内容(実質)に係る違和感。
しかし、解散登記が受理されることでの、安堵と実感する開放感。自由感。と同時にふと過る不安感。

そして改めて考えさせられる「NPOって何?」
メリットは?先に記した公共性、公益性という名目での庇護。 デメリットは?諸規定による煩わしさ。否、これは、私の運営資金のための日常事業活動の意志と発想収集と実践力不足の証しだったのだろう。10人以上の「社員」が申請条件の一つだったのだから、なおさらのこと私の責任…。「自己責任」…。
この経験からの顧みは、先述した栃木県の「協働」指向の背景ともつながる。

このことを国或いは地方自治体側からすれば、国或いは地方自治体に自身たちの責任で申請し、それに対し、承知したということは、公的“お墨付き”すなわち「権威?」を与えたのだから、報告義務は、その形式がどうであれ、派生して然るべきことであり、撤退するならどうぞ、ということになる。但し、「立つ鳥跡を濁さず」、規定に従い円滑にされたし、と。
とは言え、そのお墨付きが、今52,000余りあるということには、どうしても合点行かない私がいる。
この経験が、改めて自由について考えることになったのだが、それに大きな拍車を掛けたのが、フリー・ジャーナリストの安田 純平さんの解放、帰国であった。そこで、私がこだわった言葉が、「フリー」と「自己責任」である。

安田さん自身、2004年の新潟での講演で、以下のような発言をしている。
――フリーのジャーナリストというものは、紛争地域であっても事態の真相を見極めるためにリスクを負って取材に行くものだ」とし、「常に『死』という自己責任を負う覚悟はできている」と。――
また、 ――冬山の遭難者やキノコ採りのお年寄りも、自己責任ということか。政府に従わない奴はどうなってもいいという風潮が、国民の側から起こり始めている」として、「政府を無条件に信用する国民が増えてしまい「民主主義の危機」を痛切に感じている」。――

他にも、政府に対して、
「日本政府を『自己責任なのだから口や手を出すな』と徹底批判しないといかん。」
「日本は世界でもまれにみるチキン国家。」
「現場取材を排除しつつ国民をビビらせたうえで行使するのが集団自衛権だろうからな。」
などと、痛撃を加えている。

日本国憲法での、「公共の福祉に反しない限り」との制御を共有―この共有が、例えば道徳上云々同様、時に難しい課題にはなるのだが―した上で、[基本的人権の尊重][思想、表現等の自由]を出すまでもなく、上記安田さんの発言をとやかく言うつもりはない。ただ非常に過激ではあり、だからより考えることになった。
しかし、行政や政治家の第一の義務であり責任である、国民各人の幸福を追求する権利を守り、実現に導くとの視点に立ったとき、フリーであることと自己責任のことが私の中で混乱し始めたのである。
簡単なもの言いをすれば「フリーなんだから放っておいてくれ」と言われ、国(国家)は、「はいそうですか。お好きにどうぞ」と言えるのかどうか、これは国としての責務[義務]の放棄ではないのか。
それともすべてに対応は不可能なのだから、犠牲は或る程度やむを得ない、との別の表現なのだろうか。

私の知人にフリー(本人はフリーランスと表現している)で仕事をしている人がいて、彼の場合、半分はフリーで、半分は一つの組織に所属している。なぜか。生活としての、より多彩な仕事成就としての、生きるためである。
また、日頃こんなことを言っている知人もいる。事実かどうかは制度上を含め確認していないのだが、「無国籍であることの自由さを大事にしたい」と。

「自由人」という言葉の響きは心地良い。しかしフリーランスで生を築く人との意味では、厳しい現実を思い知る。
私は今、年金生活者である。(尚、年金生活者と言っても多様であり、その現在と将来に問題が指摘され、年金等、先進国を矜持する日本の福祉と施策の惨状は周知のことである。ただ、ここではこれ以上立ち入らず、概括的な意味で使う。)
死は解放(死が解放?)との考え方に立てば、より自由人に近づいたと言えるのかもしれないが、要は自身の意思、意識の問題なのだろう。

父は、人生の前半は勤務医であったが、後半は開業医であった。後半期、例えば、患者さんが父を前に「風邪のようで…」とでも言おうものなら、「それは私が判断することだっ!」」と叱責するほどで、時には患者さんに向かって「もう帰れっ!」とまで言うほどの個性(あく)の強い医師であった。その父が晩年、「俺のような医者は俺で最後だと思う」と、何処か寂寥感の響きでぽつりと私に言ったことがある。 そんな激しさを持った父は、一方でしばしば泥酔していた。

自由人は、人間の孤独を身をもって直覚し、それを克服し、真に孤独を自覚してこそ為し得るのだろう、と私は思う。生易しいものではない。私には遠い人ではあるが、先に言ったように距離は近まっているようにも直感する。
ただ、これらは大人の世界のことで、その大人に向かう途次のことではない。一部の若くして死を迎えざるを得なかった人々を除き、多くの人はその途次を経る。

私学の中高校教師時代、様々な公私立の中高校教師と会話する機会を得た。 と同時に、私もその中高校時代を経て来た一人であり、自由と学校に係る多種多様な経験をし、生徒(同世代)を知った。

私が、
中学生で知った、生徒の校内外での、更には教師への暴力事件と教師の無力と社会背景の自覚。
高校生で知った、学習と進学と大学名の問題。
大学生で知った、己の無気力と引きこもり。
大学院生で知った、学生運動と傍観することの自責。
東京放浪時代に知った、己が人間的限界。
教師時代に知った、教師であることと大人であることの揺れ。
これらの体験から10代の生徒たちに思うこと。 それは、複雑微妙な10代で「自由」について思案し、試行錯誤し、生きることと己が自由観の入り口をつかんで欲しい。

英文学者であった池田 潔(1903~1990)の『自由と規律』(1949年刊)は、青春時代の必読書的一冊として今も引き継がれている。
しかし、これは上層(上流)家庭に生まれ、17歳で渡英し、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学につながる、非常に限られたエリート集団であるパブリックスクールでの筆者の体験書で、昏迷混濁する現代日本に今も有効性を持つとは思う。
ただ、その底流にあるものを考えなくては、「自由の前提としての規律」といった単なる、それも特別な階級(階層)環境の、特別な学校での経験を通した道徳本に堕してしまう。

では底流に在るもの・こととは何か。
自身の存在が誰かによって認められ、自己確認の情を直感し、それぞれに自尊への思いを抱くことではないか。
生徒は生徒の年代での、教師は教師の年代、人生経験での、大人としての、そして育む愛の、もたらし手としての。
そのそれぞれの自覚から生まれる教師と生徒の信頼関係、相互敬愛心。 当たり前過ぎることであるが、現実はどうか。
あまりに各々相互の、生徒教師間の懐疑、軋轢、不信がギスギスし過ぎていないか。
もっともこれは、どんな中学高校を思い描くかによって変わることで、私が直接間接に知った例を挙げる。
3校の女子校と1校の男女共学校(すべて私立)の例。
ここでの共通主題は「自由」で、内3校は服装自由、1校は制服校。尚、1校は高校のみで、3校は中高一貫校である。

A校:創立以来、服装規定なし。特に問題となる服装はなし。但し、一時期、高校卒業式での華美さが問題となったが、生徒同士の批評も影響したようで、後落ち着く。

B校:創立以来、基本は私服で、行事等によっては制服使用(「標準服」制度)。服装の自由が拡大し、授業中に机上に飲み物を置き始め、教員間で問題となるも、時の校長の断で自由となる。

C校:創立以来、服装規定なし。ピアスを某生徒がつけたところ問題となり、その生徒と、禁止を言う校長の「自由」に係る議論の末、生徒は自主的に退学、転校。

D校:以上の例を知り、制服規定のある学校教師が発した言葉。「ウチでそれやったらメチャクチャなことになる」

【備考】某私立男子中高(大学)一貫校の例と限られた公立校の例

○中学高校は同一敷地内にあるものの、校舎も教員も校則(学校方針)も全く別。 中学:制服があり、徹底的に管理指導する。 高校:全く校則なしで、すべて生徒の自主性に委ねられる。

○公立高校によっては、自身で時間割を編成し、それに合わせて登校する私服校もある。

これらの差が生ずる要因の一つ、或いは決定的とも思えるそれは、自身の所属する学校への、及び自身 への「自尊」に係る意識、感情の高低ではないか、と。 その感情起因は学力差或いは偏差値差。入試問題の難易度。そして進路進学結果の社会的評価が大きく彼ら彼女らの心を覆っている。
生れてわずか十数年での被格差感情。 これらはやむを得ない現実として受け止めるべきで、ことさら俎上に上げること自体が、やはり無意味なことなのだろうか。 しかし、それでも次のことに思い及ぶ。

☆入試と塾・予備校在籍と中学高校在籍校学習との問題。
⇒塾・予備校を廃止したら、各学校段階でどのようなことになるのか。
【補遺】
○高い志をもって創設された或る私立校での場合
塾教育批判を掲げていたが、後に学校[各教師]が描く教育実践が、
学力不足でできないとの不満に変わって行った例がある。この問題の
背景に在ることとは何だろうか。
○新聞全国紙の塾・予備校教育論と毎年の大学合格状況、偏差値情報の
矛盾

☆家庭の経済力と学力の問題と教育の機会均等の問題。
⇒教育の無償化がもたらすことは、結局経済的余裕のある家庭への恩恵になるのではないか。そうならば、ではなぜそうなるのか。

☆各個を活かし育む教育の問題。
⇒多様な価値観、人間観があっての社会、との意識と学習内容の多様性は為されているのかどうか。

☆「不易流行」と教育の問題
⇒世界の中の日本の在りよう像に関して、国民間で共有できているのかどうか?  なぜ今、日本型?「インターナショナルスクール」が乱立的に開設されているのか。

これらの事例から、限られた選択の自由、結果としてある自己責任について、子どもや家庭(保護者)にその原因を帰することができるのであろうか。
各学校段階の入試方法として「考える力」「表現する力」云々と改革が言われているが、そもそも可能な限り客観的評価をどうするのか、また入学後どのような指導を行い、次にどう備え、送り出すのか、各学校段階でどのように検討され、実践されているのだろうか。

今、少子化にして高齢化だからこその千載一遇の時機と考え、学校と教育、教育と学力について、背景にある社会観と併せて再考する視座は、大学の大衆化による負の側面が顕在化し、高校卒業後の、また大学学部卒業後の進路に多様化が進む現在、必要なことではないのか。
人生のごく初期段階で、しかもあまりにも限られた時間内(数年間)で、人格さえとまで思えるほどに優劣意識を持たせ、持たされることが、果たして日本にどれほどの有効性を持ち得るのか、甚だ疑問である。

安田純平さんは、大学までの過程とフリー・ジャーナリストへの高く、強い自尊の人だと思う。氏は私には遠く及ばない人のように思えるが、解放以後の報道に関して、少なくとも氏を英雄視することには抵抗がある。しかし、帰国後の氏の幾つかの発言から、氏の繊細な人間性のようなものも同時に感じている。それが私の感傷からの思いなのか、理知からのそれなのかは未だ整理できていないが。