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2018年9月12日

『日韓・アジア教育文化センター』のNPO法人撤退に寄せて

井嶋 悠

『日韓・アジア教育文化センター』との名称でNPO法人に認証され14年、それまでの活動を入れれば25年になる。(現在、NPOとして認証されている法人数は、約52,000法人)
その間、妻の唱導で、京都人の私が関西から北関東の未知の地に、娘と愛犬共々来て10年が過ぎ、その娘を死出の旅に送って6年が経つ。また本センターの淵源とも言える尽力をいただいた河野 申之先生(学校法人睦学園元理事長)が逝去されて2年になる。

私は今年73歳、妻は71歳。世界トップレベルの平均寿命国日本の一員とは言え、残す時間は少なくともこれまで生きて来た時間の7分の1あるかないかである。
そんな私を、とりわけここ数年、ふと過(よぎ)る詩がある。

中原 中也(1907~1937)の、多くの人が、己が人生を顧み哀愁に浸る有名な一節「思えば遠く来たもんだ」で始まる詩『頑是ない歌』[詩集『在りし日の歌』所収]。その後半部分を転写する。

生きてゆくのであろうけど
遠く経て来た日や夜(よる)の
あんまりこんなにこいしゅては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我(が)ン張(ば)る僕の性質(さが)
と思えばなんだか我ながら
いたわしいよなものですよ

考えてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり
そして どうにかやってはゆくのでしょう

考えてみれば簡単だ
畢竟(ひっきょう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさえすればよいのだと

「人生は一行のボードレールにも及ばない」(芥川 龍之介)。これは折に触れしばしば引用される言葉である。

とは言え、高校の現代国語の時間でこれを言ったとしたら、限られた生徒以外、それも多くの生徒が、先ず思うことは「ボードレール、って?(名前と思うだけでも良しとするのではないか)」だろう。
そこで教師は説明しなくてはならないのだが、私の場合、文学史の知識程度……。(ボードレールは19世紀のフランスの詩人で、世界の詩人に大きな影響を与えた。)とか。
そもそも、詩とはこういうものとの説明すら、国語科教育の一領域である中国古典詩[漢詩]やビートルズの私の好きな曲『Let it be』を使って「押韻」という形式や伝統、日本語の場合、谷川 俊太郎さん(1931~)の詩集『ことばあそびうた』での詩人の悪戦苦闘を言って、更なる靄(もや)の中に追い込むことが関の山。
萩原 朔太郎(1886~1941)の詩集『月に吠える』の序の「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。」は是非伝えたいとも思うが、これとて彼ら彼女らに茫々感を与えるだけとなって、ますます袋小路に。

「およそ健康な人間は誰しも二日間は食べずにすませられが、詩なしでは決してそうはゆかない」(ボードレールの言葉)などとは金輪際縁がない。
詩は“難しく”しかしどこか魅き寄せられる不思議なものだ。芸術で最も神(天)に近いのは音楽で、視、触れることのできる芸術で、最も音楽に近いのは詩だと言われる由縁かもしれない。【韻文】の美。

そんな皮相な私だが、西洋と日本では、詩の内容、指向また発表方法[朗誦]が、基本的に違うのではないか、と思ったりする。「神」への、ギリシャ文化[ヘレニズム文化]・キリスト教文化[ヘブライズム文化]を基層とした唯一絶対神的視座と自然神道を基層とした八百万神的視座、また両者の対自然観と言葉観において。中国の敬天思想は前者に近いように思う。

人生の在りようは各人各様。地球上の現人口数(約66億7000万人)だけの人生があり、過去にさかのぼれば無数としか言いようのない人生がそこに在る。無数の各人の生の歴史、意識した或いは無意識下での生の「創作」。虚構(フィクション)としての人生。己が一人一人の創作。
先ずそれがあっての真善美、芸術、と考えると、私にとっての美醜とか、善悪とか、快不快また好悪とかが、一体何なのか、分からなくなる。

私が『日韓・アジア教育文化センター』ホームページの【ブログ】に投稿するのは、虚構としての私の人生、とりわけ33年間の中高校国語科教師としての、加えて娘の死が厳しく突きつけた自照自省が根底にあってのことで、それが稀薄、曖昧となれば、先人の言葉の借用、引用は単なる自己弁護の衒(てら)いに過ぎなくなる。

芥川 龍之介は、彼が想い考える美を文学で追及し、夏目 漱石に愛され、幾つものすぐれた作品を世に問い、人生はボードレールの1行にも及ばないと言い、35歳で、愛妻と二人の子どもを置いて、己が手で、人生と創作の二つの虚構に、終止符(句点)を打った。それにとやかく言える人は誰もいないし、いわんや私が、である。

私は映画が好きで、20代(1960年代~70年代)には、やれフランスの、イタリアの、日本の××監督はどうのこうのとか、作品○○はどうだとかいった御多分にもれずの人類だった。
しかし、池袋の『文芸座』の深夜(オール)興行(ナイト)で、煙草の煙でかすむほどのスクリーンに向かって拍手し歓声を挙げている人たちと軌を一にできなかった私にとって、その光景は、今ますますもって遥か遠い昔物語となっている。
この何年かで言えば、当時若者に絶対的に支持された幾つかの邦・洋の作品を観直したが、単なる郷愁の一観客に過ぎないことを思い知らされた。しかしそれもまがう方なき私であって、それをとやかく言うつもりは当然ながらない。ただ、作品と言う虚構と人生と言う虚構を想い、生きる方途の改めての時機としたいとの私はいる。
これは江戸時代の浄瑠璃作家近松 門左衛門が唱えた芸術論[虚実皮膜]に通ずると勝手に思っている。

かの孔子は、最晩年(70代)「未だ生を知らず、焉(いずくん)んぞ(どうしての意)死を知らん」と言ったとか。紀元前の人物の70代と言えば、現在では100歳に相応するだろう。しかも思想、思索また行動の100歳。この一節、専門家の言説によれば、天をあまり問題にしなかった孔子が、天[運命]を語り出したことを示唆しているそうだが、私は前半部分に心が向く。
「人間(じんかん)到る処 青山有り」とはよく使われる言葉であるが、その前に、到るところで「時機」に出会うのが人生だ。或る時は自然態で自身の糧とし、或る時は人工態の露わさから時機は離れて行き、或る時は全く気付かず通り過ごし……。
NPO法人であることの公共性、効用性よりも、本センターの実績、歴史を基にした新たな継続を模索することを思い、本センター発起者である私は、委員(理事)の方々に撤退を申し出、了解を得ることができた。

 

これまでの多くの方々のご支援に感謝しますと同時に、今後「NPO」であることの“縛り”から離れ、私たちの事実[実績]を基に何ができるか、焦らず急がず模索し続けたく思っています。
『日韓・アジア教育文化センター』の名称はそのまま継続しますので、これからも心に留め置いていただければ喜びです。