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2018年12月26日

イギリスとアメリカと、そして日本 【一】

井嶋 悠

やはり政治と経済と、その延長上の軍事が、国際社会に在って「生き抜く」根本の力なのだろうか。日本の今の政治、経済を、私なりの視点で視る限り、不信と疑問は多く、謙譲を美徳とする(はずの)日本と相反し、ふと帝国主義との言葉さえ過ぎったりする。
こんな見方は、若い人たちからすれば杞憂のお笑い草なのだろうか。官僚でも大企業社員でもない若い人たちを何人も知っているが、彼ら彼女らの日々の生活を知れば、そうとは思えない、と同時にもっと“怒りを!”との老いの、しかし「歴史は繰り返す」を切々に思う、私がいる。

パクス・アメリカーナによる世界平和?どう表現するのかは分からないが、アメリカーナの箇所をそうはさせじと志向するロシア、中国と、アメリカーナの忠実な下僕日本。
そのアメリカの基礎の一端を担った、かつて「太陽の沈まない国」とさえ言われたイギリスは、EUからの離脱問題で今も揺れている。否、欧米自体が混迷の最中にあるようにも思える。
グローバリズムと「船頭多くて船山に登る」。船頭の根幹、根柢は文化、文明ではないのか。多文化主義、文化相対主義との言葉の重み。

今から120年余り前、日清戦争、日露戦争に勝利し帝国主義列強国家となった日本。
1910年、韓国を併合して朝鮮と改称し、朝鮮総督府を設置したその翌年の明治44年、夏目漱石は『現代日本の開化』と題して、和歌山で講演をしている。その核心(と私は思う)部分を引用する。

――西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。(中略)西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国との交渉をつけた以後の日本の開化は(略)、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になった。(中略)
こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです。宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。(中略)
大学の教授を十年間一生懸命にやったら、たいていの者は神経衰弱に罹(かか)りがちじゃないでしょうか。ピンピンしているのは、皆嘘の学者だと申しては語弊があるが、まあどちらかと云えば神経衰弱に罹る方が当たり前のように思われます。学者を例に引いたのは単に分かりやすいためで、理屈(りくつ)は開化のどの方面へも応用ができるつもりです。――

太平洋戦争で英米を含む連合国に対し無条件降伏し、内的外的要因重なる中で、戦後半世紀も経たない内に、世界の経済大国となった日本。その日本と漱石の時代の日本を同次元でとらえ、なんでもかんでも今の日本に当てはめる気持ちはないが、
例えば私の職業であった中等教育学校教師体験で言えば、「横断的総合的学習」の体系、現場組織背景に触れず、その悪しき面のみをとらえ廃止し、一方で、その学習に通ずる(と体験上思う)部分がある、西洋(欧米)の「国際バカロレア」に、なぜ時に一方的に傾くのか、また日本型?インターナショナルスクール(主に初等部)が今なぜ乱立するのか、が分からない。漱石の言う「ハイカラ」化なのだろう。

その漱石は、1900年(33歳)、文部省よりイギリス留学を命ぜられる。
留学は、大学卒業後、東京高等師範(現筑波大学)英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに疑問を抱き、2年で辞し、1895年、『坊っちゃん』(1906年刊)の舞台である四国・松山の中学校英語教師になったが、1年で第五高等学校(現熊本大学)に異動した時代のことである。尚、漱石は、その異動した年に見合い結婚をしている。
国費留学生とは言え非常に限られた支給のためイギリスでの生活は欠乏状態であった。
そもそも厭世的で、神経衰弱な気質であった上に、留学課題が英文学研究ではなく英語教育法であったこと、また留学時の窮乏生活も手伝って精神衰弱度は強くなるばかりであった。そして予定を早め、2年で帰国している。

この間の生活については、盟友であった正岡 子規(漱石留学中に逝去)宛の手紙『倫敦消息』(1901年)及び彼の心の状態を心配した下宿の女主人に薦められて始めた自転車挑戦の日々を書いた『自転車日記』(1903年)でうかがい知れる。
そこでの表現は『吾輩は猫である』(1905年刊)、『坊っちゃん』につながる、武骨にして洒脱、繊細な“江戸っ子”ぶりの漱石像を彷彿とさせ、思わず笑みがこぼれる。
例えば、こんな具合だ。

「…シルクハットにフロックで出かけたら、向こうから来た二人の職工みたような者がa handsome Jap.といった。ありがたいんだか失敬なんだか分からない。」[倫敦消息より]

もちろん日本のことも気にかけている。『倫敦消息』の(一)の初めの方で、

「日本の紳士が徳育、体育、美育の点において非常に欠乏しているという事が気にかかる。その紳士がいかに平気な顔をして得意であるか、彼らがいかに浮華であるか、彼らがいかに空虚であるか、彼らがいかに現在の日本に満足して己らが一般の国民を堕落の淵に誘いつつあるかを知らざるほど近視眼であるかなどというようないろいろな不平が持ち上がってくる。」と。

これらは明治の遠い昔の話として片づけられるだろうか。少なくとも私にはそうは思えない。

昨年2017年ノーベル文学賞を受賞した、英国籍の日本人カズオ イシグロ(石黒 一雄)氏は、受賞記念講演の終わりの方で以下のように述べている。(幼少時に父親の仕事の関係で渡英し、第1言語が英語ゆえ英語の講演であるが、私にはそのような英語力はないので土屋 政雄氏の翻訳を引用する。)

「科学技術や医療の分野で従来の壁を破る発見が相次ぎ、そこから派生する脅威の数々が、すぐそこまでやって来ています。(略)新しい遺伝子編集技術が編み出され、人工知能やロボット技術にも大きな進歩があります。それは人命救助というすばらしい利益をもたらしてくれますが、同時に、アパルトヘイトにも似た野蛮な能力主義社会を実現させ、いまはまだエリートとみなされている専門職の人々を巻き込む、大量失業時代を招くかもしれません。」

「知的に疲弊した世代の疲弊した作家である私は、この未知の世界をじっと見据えるのに必要なエネルギーを見つけられるでしょうか。」

「亀裂が危険なほど拡大している時代だからこそ、耳を澄ませる必要があります。」

この講演の表題は『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』(原題:MY TWENTIETHCENURY EVENING  AND  OTHER  SMALL  BREAKTHROUGHS)で、「ブレークスルー」の意味を辞書で確認すると[①敵陣突破 ②(難関などの)突破、解決 ③(科学、技術上の)画期的躍進]とあり、表題と内容に得心し、同時に氏の優しさに満ちた謙虚さ、鋭く広い想像力が、氏の小説家としての自覚とともに想像された。作品『日の名残り』『わたしを離さないで』に通ずることとして。

一方は、日本語を第1言語とし、明治時代に官命でイギリス留学をした日本人作家、一方は、幼少時にイギリスにわたり、英語を第1言語とする現代日本人作家。
時代を越えて通底する社会への眼。その指摘が現実とならないためにも、とりわけ若い人たちが“飼い馴らされた羊”となり、権力者に利用されないよう確(しか)と心掛けて欲しい。ここでも10代の、学校、家庭、社会の教育の重要性と怖れに思い到る。
因みに、イシグロ氏は現在64歳で、私のような老いではない。
明治時代の日本からの留学は、英・独・仏の西欧が中心だったが、その中にあって、現在の津田塾大学を創設した津田梅子は、女子教育の伸展施策を受けて、明治4年(1871年)岩倉使節団(使節・随員・留学生の総勢107名)の5人の女性の1人として6歳でアメリカに赴き、在米11年間、研鑽を積み帰国している。

現在、日本の海外留学状況はどうか。
短期語学留学等々での形態、年齢、留学地での環境等、多様な留学時代にあって、2017年の留学生状況は以下である。[出典:『一般社団法人海外留学協議会(JAOS)による日本人留学生数調査2017』
①アメリカ  19,024人  ②オーストラリア  17,411人  ③カナダ  12,194人  ④ イギリス    6,561人   ⑤フィリピン  6,238人

以下、フランスは⑩位で1,374人  ドイツは⑯位で432人、6位以下は中国、韓国、シンガポール、台湾等、アジア圏が多く占めている。

なぜその国なのか。どんな研鑽をしたのか。その成果はどうなのか。日本に、自身にどんな還元ができたと考えているか、幾つか聞きたいとは思うが到底できないことであり、それに近い内容を改めて検索し、現代日本と海外留学について学べられたらとは思う。
ただ、数字から見れば、アメリカの影響の強さが想像され、なおのことその内容に関心が向く。

私が中高校生時代学んだ英語が、アメリカ英語なのかイギリス英語なのか分からないが(何となくイギリス英語だったのかとは思うが)、教師に外国人はいなく、英語圏外国人と会話したことは皆無であった。
初めて英語圏外国人と会話したのは、最初の勤務校(アメリカ人女性宣教師二人によって、明治時代に創設された女学校)である。
その学校では、当時「サバティカル」制度(海外1年、国内半年)があり、幾つか考えた結果、国内の大阪外国語大学大学院(当時)日本語科に留学した。理由は「日本語知らずの日本人で国語科教師」を痛感していたからである。痛感させたのは、勤務校への高校留学生(1年間)であり、帰国生徒であった。その後の人生を想えば、この選択は間違っていなかったと思っている。

次回(二)では、教師になって以降出会った英語圏教師、保護者、高校留学生また帰国子女等々のエピソードの幾つかを発端にして、イギリスとアメリカについて思い巡らせることで、私的に現在と次代の日本の在りように思い到ってみたい。

【日韓・アジア教育文化センター】http://jk-asia.net/『ブログ』への、これまでの投稿内容の空疎さは、冗長さ共々重々承知している。それでも娘の死を契機として、甚だ分不相応な言葉を使えば啓示を得、自照自省を恥じらいひとつなく続けて来たが、来たる年も心変わりせずに、と言い聞かせている。
その空疎さについて補足する。
例えば平均寿命50~55歳前後の昭和初期頃の文人、と限定しなくとも、「昔は大人(おとな)が多くいた」と言うその大人たちの死生観、社会観と比すと、その表現、内容が平均寿命80歳時代にもかかわらずあまりに空疎であるとの意味である。
つくづく人の進歩について思い知らされ、その眼差しは即自身を照射し、そこから次の世界?に赴ければとの奇妙な心意気ともなったりする。
約5000字の『老子』を著した老子(老聃(たん))は、執筆後に消息を絶った、とか。