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2019年3月5日

2019年2月・沖縄県民投票 ―今、「インテリ」って何だろう?―

井嶋 悠

沖縄の米軍基地の普天間から辺野古への移転に関する県民投票が行われた。
統計の数字は、それを見る人の立場、信条等によってとらえ方は変わり意見も変わるが、同じ国の一員として、基地問題の根源にあることも含め己が考えを明確にすべき時であろう。
投票率、賛否率等から、沖縄県民の「反対」意志表示は明確な事実である、と私は思う。
また、『日韓・アジア教育文化センター』で培われた人とのつながりに於いても、それぞれの意思表示は必要なことであると個人的には考えている。

「結果に法的規制はない」との一見!合理的説明を突きつけられる虚しさは推して知るべしである。否、民意を示し得ただけで十分で、後は国民一人一人の良心である、と沖縄県人から言われれば、私はどう応えれば良いのか、狼狽える私が浮かぶ。
今回の選択肢「どちらでもない」の投じた人々の心情にあるもどかしさ、そして寂しさ。
江戸期の、近現代の沖縄の歴史と現在を知れば知るほど、私たち日本人としての良心が問われているのではないか。

「同情ほど愛情より遠いものはない」との表現は、昭和10年代に、小説『いのちの初夜』で、川端康成が世に知らしめた“癩病(戦後の表現はハンセン病)”作家北條民雄の言葉で、私が20代の頃に、心に突き刺さった棘の一つとして今もある。
この同情と愛情、相手・対象への気持ち時間の長短と、そのことで自身は何をし得たか、に違いがあるように現時点では思っているが、これで言えば今回の県民投票についても私は自己矛盾を犯している。同情すれど愛情なしとしか言い得ない、との意味で。「同情するなら金をくれ」と、どう違うのか。

投票結果に関して、全国紙A紙とM紙の論説を痛烈に批判している、著名人の文章に触れることがあった。
私はその方の考え方、対話方法或いは話し方に、以前から違和感を持つ一人だが、それはそれとして、その人は持論を展開するにあたって「インテリ」との言葉を何度か使っていた。その時、私に過ぎったことは、この人はひょっとして、現代日本人にとってインテリとは何ぞや、と問うているのではないか、と。そして、漠然と流されるままに使って来た、私の言葉で説明できない私を見た。

今日の情報社会にあって、知識は到る処で溢れかえっているから、辞書で時に見掛けるインテリ=知識人などあてにならない。例えば、学歴不要観(論)がある一方で、今もってT大を頂点とする大学進学優先社会[それも多くは塾産業の力を借りての]で、そのT大進学を競う高校数校の生徒(インテリの卵?扱いの)を集めた「クイズ大会」といったテレビ番組がある馬鹿げた世相にあってはなおのこと、知識人の図式など傲慢ささえ臭ってくる。大事なのは知識より智恵である。だから高学歴者がインテリとは限らない。

その前に、そもそもインテリなる言葉自体死語であるとの考えを持つ人もあろうかとも思う。しかし私の中でインテリと言う言葉はまだ生きているし、インテリの良し悪しで社会は変わるとも思っている。
そこで、大概のことは分かるパソコン(ネット)社会、その中でも小中高大レポート・小論文での、また私自身恩恵大で、或る漫才師はそのフレーズを使うことで受けていたから世に定着しているのだろう【ウキペディア】を引いてみると、幾つか問題ありとの前提付で以下のように書いてあった。
元の表現を基に整理して引用する。

因みに、そういう安易性を嘆いている大学教師(インテリ?)の言葉に接したことがあるが、鵜呑みは何事でも危険で、自分で考える一つのきっかけとして十分に存在価値を持っている、と私は思っている。

――知識階級とも表現されるこの社会的な階層を指し、以下のような働きをする。
学問を修め、多くの現象を広い見識をもって理解して、様々な問題を解決する知恵を提供する。
その知識によって発見・発明された成果物を提供することによって、社会から対価を得て生活する。
具体的には、
社会や経済を知識によって先導する政治家や経営者、
文化的な創作活動によって、社会に新しい価値観を育む芸術家やクリエイター、
学者として各々の分野を深く探求した学者、
教育の場で他を指導する立場を担う教師、
道徳やモラルに関する警告を発して社会を律したりする報道関係者や評論家、たちである。
その一方で、単に高学歴であるというだけの意味にも使われるケースもある。――

これを読んでどれほどの人が納得するのだろうか。少なくとも私には、現代日本、要はほとんどの人がインテリにあたるのではないかと思える。更には上記説明者に従えば、私は正しくインテリなのである。であった。ウキペディア監修者の注文はもっともである。元教師の自身から離れてもどこか偏り、狭小を感じ、可能な限り事典[エンサイクロペディア]に近づくには疑問が残る。そして全国紙を排斥した人もインテリなのである。
日本の?近現代政治家の好きな標語発信、例えば『一億一心』『一億総中流』、最近では『一億総活躍時代』『オールジャパン』になぞらえれば、『一億総インテリ時代』としての現代ということになるのではないか。だから先に記したインテリと言う言葉自体を否定、黙殺している人の先見と叡智を思う。

死語でないなら一体どういう人たちを指すのか。私は人格者であることの有無が、すべてであると思う。人格に学歴も職域も、そして対価も関係がない。信をもって或る人がその人を信ずる直覚を持つか否かがすべてである。
人は一人の人格を持つが不完全である。だから結局のところ世人はすべてインテリなのである。ただ、その多少度の高低でより真に存在感を持った人格者となる、それがつまりインテリなのではないか。
そう考えれば、教師でも作家でも他の職域でも、インテリもいれば全く埒外の人もいる。
政治家に、私の知る限りとの限定ながら、今インテリはいないと思う。
昔はいたかどうか。石橋 湛山(1884~1973:第55代首相)の幾つかの論説を読んだ経験では、彼はインテリであったように思う。しかし病を得て、わずか在位2か月の短命であった。

首相は誰でもいいのである。周囲が御しやすい、扱いやすい党派人で権力指向の強い人を選べばいいのである。そもそも人格者は政治家を、観念的には目指しても現実的には目指さない。現政治家にも人格者はいるはずであろうが、私が知らないだけであろう。しかし、そういう人は表に出られないのが日本の政治世界のようにも思える。
現我が国首相はどうか。その内政と外交のあまりのほころびの酷さにもかかわらず在位期間が長いことが、上記を立証しているのではないか。そうさせたのは「あなたがた国民だ」との応えを想像して思う。
全国紙を批判した氏も、この表現を愛用している。

そのような人格者は、幼少時からその雰囲気を醸し出しているかどうかは、私の体験では「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」ほどには分からないが、あるように思う。
最初の勤務中高校はキリスト教主義の自由な校風を大切にする女子校で、とりわけ関西では、学校側の期待と理想とは別に大学進学校として名高く、毎朝、パイプオルガンの設けられた講堂で礼拝が持たれ、10分ほどの講話では卒業生も話者として招かれる。
私が奉職してさほど経っていないころ、世に言う或る有名(名門)大学に入学した卒業生が招かれた。
彼女の話の主点は「入試に関係のない科目の授業であれ、すべての授業、先生方の言葉(話)は、入試に際してどれほど有効であったかを実感した。」というものであり、それは“内職”に励み、予備校に頼り、進学がすべてのような考えの後輩が増えつつあることへの警鐘であった。
どれほどの在校生が、そのことに気づかされたかどうかは聞いていないが、私の中で今も鮮やかに残っている。その彼女の、授業中の凛然とした着席の姿勢とともに。その彼女はもう何年かで還暦を迎えるはずだ。

「名門校」と言う表現もよく使われるが、何をもって名門なのか、これまた多様と言うか曖昧である。しかし、先のような彼女が輩出する学校こそ名門校であろう。人格者を育むと言う意味において。
因みに、先の批判者は私が思う名門高校出身者である。「例外のない規則はない」。例外中の例外卒業生…。

政治は、社会を、教育を動かし、揺らす。
人格豊かな政治家が、大人が、つまり「インテリ」が、世に溢れることで、この非常にきわどい時期を迎え、疑問と不安ばかり山積しつつある日本を導き、次代を担う若者を叱咤して欲しいと思う。
その時、沖縄県人の大きな声は、時の経過とともに、いつものように上辺の声だけで消え去ることなく、日本の問題として、熱しやすく冷めやすい国民性の負の側面から離れて、確かな力になるはずである。