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2019年7月4日

爺さん[達]は怒っている ―無党派爺の悪口雑言―

井嶋 悠

婆さん[達]も怒っている。

現居住地県には世界遺産日光がある。自宅から車で1時間余りである。 日光には[見ざる・言わざる・聞かざる]が、安置されている。この人生訓を無視し、見て、聞いて、言う(怒る)ことにした。 余りにひど過ぎるから。国情が、世相が、欺瞞が。いかにもうるさい爺さん向きの社会状況ではある。

現代日本社会に、狭い言い方をすれば政治に、怒っている。それも大いに怒っている。 この頃では、権力と言う腐臭さえ漂いつつあるようで、怒ると併行して鼻栓が必要なまでになっている。
私は74歳(韓国流で言えば75歳。韓国では生まれた時が1歳で日本の数え年に当たる。しかし、母胎内での生命時間、またゼロの意味を考えるとすばらしいと思う)の立派な?爺さんである。
ただ、爺さんが爺さんに怒ることもある。これは私の生き方がそうさせるのである。 高齢者運転に関して、心身への現在自覚もなく過去を美化し運転への自信を得々と言う爺さん。老いを御旗に同情を起こさせ、尊大な言動をする爺さん。他人(ひと)のことを聞いているようで聞かず結局は自身の考えだけを言う聞き下手の話し下手の爺さん、政治だけでなく様々な場面で迎合と寛容をない交ぜる爺さん、等々。
これらは、もちろん爺さんを婆さんにいつでも置き換えられる。

では、お前と言う爺はどうなのだ?もちろん、こうならないよう細心の注意を払っている。ただ、小人のかなしさ、随所で漏れを指摘されているとは思う。

そんな私は若者を、とりわけ10代から30代にかけての、歯がゆく、苛立たしく思うのである。いずれ多くの自身が、路頭に迷うがごとき困惑と不安に襲われるのは眼に見えて明らかなのだから。 香港のデモを、その現象も本質も対岸の火事と漫然と眺め、欧米の同世代の若者の表面だけをなぞっているのが何と多いことか、などと言えば若者から叱責を受けるだろうか。
昔は云々との老人言葉は避けたいが、どこかあまりに軽佻浮薄が目立つのは私だけか。目立つから軽佻浮薄と思うのかもしれない。地味に日々を積み上げている若者を知っているだけに。

何でもかんでも自己責任を金科玉条とする潔(いさぎよ)さ?で、政治に眼を向けるのは暇人、好き者のすることとわきまえ、カッコヨク生きることに専心し、ふと気づけば早三十路、孔子の言う而立(自立)どころか、そこに醸し出されて来る虚しさと将来不安。老人の杞憂? 引きこもり=犯罪者を、ヘイト言説を、いつしか肯定する自身に気づき狼狽(うろた)える。こんなはずではなかったと。

1950年代、イギリスの演劇『怒りを込めて振り返れ』を端に、“怒れる若者たち”との言葉が広がった。その頃、日本では60年安保問題で、若者の大きな揺り動かしがあった。私が15歳、中学生の頃である。その10年後、私は大学院生であった。70年安保等、日本社会再考のうねりの時で、「全共闘」云々とは措いて、若者に何らかの意思表示を社会が求めた。
私はその波を直接に、間接に浴びた一人であったが、周囲が私に寄せるほどの存在はなかったに等しい。ただ、当時の全共闘現役世代から、なぜかあれこれと依頼(モーション)があったことは事実である。
私は私にできる限られた中で自身を考えたが、思考と行動を合致できなかった。要は、脱落者(ノンポリ)であった。そのことは私に様々な陽と翳を投げ掛け、自身を考える契機(きっかけ)となった。それが私の人生の、+になったのか-になったのかは今もって分からない。当然のことながら?
しかし、私自身は陽翳いずれも、積極的に作用したと今思っている。 それほどに複雑な心が巡るので、私より少なくとも数年若い世代が、安直に全共闘世代を讃美的に言うことには、無性に腹が立つ。これも爺さんならではの為せる業。 恐らく、私の社会への怒りの原点はその辺りにあるのではないかと思っている。

それから50年、自然な爺さんとなり怒り、歯がゆく思っているのである。 なぜか。日々の現実を、余命との響きの中で思えば思うほど、次代に託し、つなぐにしては余りにも無責任ではないかと思うのである。

具体的に挙げる。 初めに、ここ数年《内を視る》ことの重要性を思っている私ゆえ、国際[外交]を挙げる。
現首相の外交力が、一部か多数かは知らないが、誉めそやされ、本人もその気らしく、これまでどれほどの国費(数百億円)を使い、どこに行ったかについては以前投稿した。 私には信じられない。 前東京都知事のアメリカ出張費が、辞任の一端となったのは未だ記憶に新しいかとも思うが、それと較べれば〔象と蟻〕がごとき差の莫大な国費(国税)を使っての外交成果に何があったのか、あるのか。直近で言えば先日のイラン訪問は一体何だったのか。「トランプと言うボスの。小間使い。」日本と言う国の代表の誇りなど微塵もない。(政治家お得意の美辞麗句ではあるようだが、政治家のそれほど醜悪で残酷なものはない)だからなおのこと、その大統領就任式前に得々と行ったゴルフ外交が過(よ)ぎる。日本(人)へのあまりの恥辱醜態と私は確信する。 また、領土問題に係る対中国、韓国、ロシア、経済問題に係る対EU、イギリス、アメリカ、石油に係る対アラブ圏等々、そして拉致問題を「絶対の使命」とまで言う対北朝鮮、との成果はどれほどに伸展したのか。
虎の威を借りた狐。抽象的でも理念的でもはたまた弁解的でも、更には感傷的でもなく、私たち国民に確かで具体的説得力を持った言葉が、どれほどに発せられ、私たちはそれを聞いただろうか。

【余談】 私の学校現場での経験から言えば、内を治めきれない権威指向の人格乏しい者(校長)に限って、外に眼を向け。その成果(多くは理念だけの)を上滑りの言葉で言うのは定番である。

先のことと関連あることとして、その人たちの中では一筋通っているのだろうが、一人の主婦の発言からノーベル平和賞候補とも言われる『日本国憲法』の、しかも第9条に手を加えようと首相は、自衛隊員の誇りを謳(うた)い目論んでいる。どこまで私物化すれば気が済むのだろう。

以下、内政に関して怒りを書く。 先ず、私に直接関係ある領域から。
教育と福祉。
教育の無償化。政府は鬼の首を取ったかのように自画自賛するが、現状の歪みの変革なしの実施が格差の上塗りとなることは周知とさえなっている。 無償化そのものを否定していない。なぜ塾・予備校あっての小中高大、との現実に眼を向け、足を踏み入れないのか。無償化する前に塾予備校不要の教育社会実現を目指すべきである。 それは、小中高大の教員意識の、学校教育の、その入り口である入試方法の在りよう、すべてにつながって来る。
ただ、外国人子女教育等々、諸事情から学力補充が必要な場合もあろうかと思う。その場合は、在籍校と連携した「補習塾」を運営するという方法は必要になろう。
公私立問わず学校に一度ついたレッテル、印象(イメージ)を払拭するには時間がかかる。しかし、塾・予備校を除外して再建し、息がつまりそうな現行の[六・三・三]にあって、伸びやかにそれぞれ生徒が未来の自身のために学校時間を生きている学校は幾つもある。校長以下、教職員・保護者のそして生徒たちの汗の結晶として。
尚、今の少子化高齢化時代を機会とする小中高校6・6+2年制の、私は支持者である。 一方で、経営が下降線に入ったのか、世に言う有名私立大学傘下に入り、青息吐息の、存続が唯一絶対使命的学校もある。

私自身を含め、私が出会った一部の教師たちだけかもしれないが、入試問題作成にあたって、入試科目各教科では、それまでの阿吽(あうん)がごとき学力観で(時に惰性的情緒的に)作成、実施して来なかったか。
そして多くの教師・大人が悲憤慷慨する。「学力低下」を、「こんなことも知らないのか」と。 この心の動き、どこか本末転倒ではないか。
塾・予備校で補われ、養われた学力を基に、各年度の入試問題批評がにぎやかに行なわれ、マスコミは日ごろの個の尊重、学歴疑問論を忘れた有名校入学者発表の見事なまでの節操なき二枚舌。
その塾・予備校を取り外したら、日本の教育は壊滅するのだろうか。変えるのは、教師であり、保護者であり、立法府であり、行政府であり、マスコミであり……要は大人達である。
元関西の私立中高校教師経験から関西に限定して言うが、兵庫県の神戸高校、大阪府の北野高校、京都府の洛北高校の風格はどの学校も太刀打ちできない。歴史の重み。結果としての進路進学。
少子化まっしぐらである。千載一遇の機会ではないのか。始まりがあって歴史があるという自明。 それとも現状の学校教育現実をそのままに「学歴無用(論)」を推し進めるほうが効率的なのだろうか。

もう一つ、教育と言うか、教育を動かす[背景・母体]に関して。 「森友問題」「加計問題」。前者は係争中とのことだが、この両問題は過去完了ということなのか。 信じられない。 国民を愚弄するのもほどほどにしてもらいたい。

福祉。
高齢化は医療医学の進歩があってのことだから、喜ばしいとも言える。しかし、このままなら先行き不安から絶望と生の拒否の悲哀に変わるのではないか。 高齢者の基本は人である。国家の人への基本は基本的人権の尊重である。確かに自身から死に向かう人もいる。哀しいことである。それでも懸命に生きようとする人もある。その多少、軽重を問わず、国を築いたのは一人一人の人である。年金は月々一時的に預け、運用依頼した報労金である。 人間らしい生活とは、人によってその内容は様々だろう。ただ、衣食住と生の余韻感得の平均値的な姿は、その国の経済力で概ね想像できるのではないか。それを国が保証する。当然過ぎる義務である。
にもかかわらず、官僚性丸出しの老後自助資金報告書を出し、こともなげに2000万とか3000万と言い、紛糾している。当たり前である。そして報告書を受け取らぬとまで言っている。国としての責任逃避であり、義務放棄である。
政党スローガンで「日本を守り抜く!」というのを見たことがある。何を守り抜くのだろう。高齢者は怒りを通り越して、泣いている。そしてこの国に生まれたことを悔やんでいる。
消費税を10%にすると言う。福祉への財源がないから、と。なんでないのだ?対国内、対国外の収支から、ない理由、事情を庶民の金銭感覚で分かるように、精細に、どれほど説明されたか。幾重に重なる本末転倒。

私たち日本人はあまりにも優し過ぎる、おとなし過ぎる。この優しさは優しさではない。私たちは権力者からなめられているのである。
北朝鮮が、中国が、韓国が、はたまたロシアが侵攻して来る、イスラム圏諸国のテロが起こる。日本は、グローバル社会での存在感を誇示しようとしているから危険度は大きいと言う。だから防衛費は何兆円とかかって当然と言う。その日本は世界NO,1レベルの借金大国である。
百歩譲って+2%の増税分すべての収支表を公表し、福祉に徹底して使用するとなぜ明言しないのか。 私が馬鹿で暢気で世間(世界)知らずだからだろう。この政治のムチャクチャが信じられないのである。

働き方改革。うんっ!?
どれほどの人がその恩恵を、身をもって受けているのか。その日その日の仕事の時間と成果との闘い、企業自体存続の不安を抱えての産休また有給休暇での現状。更には、夕方以降が勤務の職業、職務への働き方改革など聞いたことがないのは私だけか。
政治家と一部官僚、大企業だけでの高慢はいずれ叛乱を呼び、“スローガン”は中途半端なまま消え去る。

男女協働社会。
当たり前のことを新発想語かのごとき言うが、一向に眼に見えて確実化し得ない理由は、すべて男(社会)にある、と言っても過言ではない。
働く能力差に男女は関係ない。体験から絶対的自信をもって言える。妊娠、出産は女性だけの力であり痛みである。ただ、その選択は当事者[母と父]に委ねられることである。その上で、出産を希望する女性には、またその家族には最大限の保障がされて然るべきで、国の存亡に係る。
男は、もっと自身に、女性に謙虚にならなくてならない。今もって、その女性を軽んじる、モノ的に見る輩がいることが、信じられない。
協働、共に力を合わせて働く。しかし何らかのやむを得ない事由で片方が働けないときは片方が働くのも協働。 この最低限が、共有されてこその施策であり、だからこそ自由の尊重と自由の責任の上に立って、それぞれの自由な選択、判断が生まれるのではないか。

と、爺さんが“ご託”を並べる前に、と婆さん(達)は一言いう。
「収入低迷、諸物価高騰、なんだかんだ理由をつけての政府収入増加策、いい加減にせいっ!」

先日、ハーバード大学の卒業式講演で、ドイツのメルケル首相が招かれた。その日本語翻訳全文を、旧知の方のご厚意で読むことができた。内容云々の前に三つのことが過ぎった。
○ハーバード大学は、なぜメルケル氏を招聘したのだろうかということ。
○言葉の重み。(あくまでも己が生を顧みての、そこから生れる静かな強さの言葉)ということ。
○まかり間違っても日本の現首相が招かれることはないだろう、ということ。