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2019年10月26日

日韓の“溝”を考える Ⅱ 『日韓・アジア教育文化センター』体験

井嶋 悠

先日、現在も悶悶(もんもん)とした中に在る[日韓の溝]について、『日韓・アジア教育文化センター』での20年来の交流で得た私見を投稿した。これはその続編で、やはりセンターでの貴重な体験が基にある。

前回の主点は二つにあった。 一つは、日本の植民地支配の歴史からの日本人である私の心の棘(とげ)で、もう一つは、韓国の『怨と恨の文化―その文化創造のエネルギー―』である。
後者は、韓国人学者たちの鼎談(ていだん)による『韓国文化のルーツ―韓国人の精神世界を考える―』(国際文化財団(韓国・ソウル)編・サイマル出版)との書に啓発されてのことで、例えばその中の次のような発言である。

――恨の「結ぶ」と「解く」は、喪失と回復に置き換えることができ、植民地化での母親喪失意識や祖国喪失意識、南北分断をテーマとした文学作品等に表われた故郷喪失意識である。(中略)絶対的状況に陥った原因が相手にあると信じて恨みを抱くのだが、同時に自分にも責任があるのだと、自己省察に戻る。これは相手を愛するがゆえの感情である。相手を恨みながら、同時に自分を恨むと言う愛と憎悪の感情。恨の感情が複合的なのは、絶望と未練、恨みと愛、この二対の感情が互いに矛盾しながら混在しているからである。――

前者について、言わずもがなではあるが、1910年の「日韓併合」からの36年間[より厳密に言えば、1905年の「日韓保護条約」からの41年間]の植民地支配の事実とその負の側面であり、これは一部で頻(しき)りに言われる「自虐史観」ではない。私の中では「自愛史観」である。

そして今回、この機会に私の歴史への疎(うと)さを補正しながら歴史の中で発せられた言葉を確認し、私自身の立ち位置を少しでも明確にさせたく投稿することにした。
1965年の『日韓基本条約』では、現北朝鮮の扱いが問題となったようだが、ここでは私の交流があくまでも現在国交のある大韓民国なので、韓国のみを意識して表現している。

人間は他の動物と違って様々な能力を有し、時代を切り拓き、歴史を創造して来た。そして今、100年前のほとんどの人が想像しなかった文明の恩恵に浴している。しかし、その主体者で創造者はあくまでも人間であって完全完璧(かんぺき)などあろうはずがない。従って創造された文明も歴史も完全完璧ではなく、必ずや瑕疵(かし)がある。私などその瑕疵の多さで私自身に辟易(へきえき)している。
日韓で馴染みの深い中国古代の思想家孔子は言っている。

「過(あやま)ちては則(すなわ)ち改たむるに憚(はばか)ること勿(な)かれ。」

過ちに気づけば直ぐに訂正せよ、それが徳のある人間らしい人間であるということだ。治者ならばなおさらその勇気が求められる。
もちろんここに日韓での、更には世界での別はない。

私が最前提として確認しておきたいことは、明治時代1900年前後での日本の「征韓論」に始まり、1945年韓国「光復説」に到る対韓国40有余年の歴史の是非である。瑕疵の大元(おおもと)になることである。
そうでなければ、次のような日本の首相[内閣総理大臣]による、閣議決定を経た公的談話による謝罪があろうはずがないからである。そしてこの談話は、現在も引き続き継承されていることになっている。
それは、1995年8月15日、時の総理大臣村山 富市氏より出された『戦後50周年の終戦記念日にあたって』とのいわゆる「村山談話」である。その一部を抄出する。(抄出に際し一部改行している) なお、その文中で村山氏は終戦ではなく「敗戦」と明確に使っている。

――とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。 政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、(中略)また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。(中略) わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤(あやま)ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。―

ここで言う「支援する歴史研究」とは、善政もあったとの「も」を使う歴史研究ではなかろう。その上での信頼関係の構築でなくしては、非統治国民にとっては単なる政治言語による美辞麗句に過ぎない。そうでないからこそ「戦後処理問題」について「誠実に対応」するとの言葉が強く響いて来るのではないか。
また、「わが国は」以下2行での表現の率直さ、厳しさに、戦争を知らない世代であっても素直に同意したいし、「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し」に、強い説得力を持っていると信ずるのである。
この談話を、談話の30年前1965年『日韓基本条約』と切り離して考えることはあり得ない。 しかし、2019年の今、日韓関係はこじれにこじれている。なぜか。
条約成立過程での日韓での意思疎通はどうであったのか。互いに国民の総意を得て条約成立に到ったのか、だからその問題は解決済みととらえ、こじれること自体に疑義を投ずるのか、それとも双方で或いは一方で、確かな相互理解、信頼が不十分であると思っているのか。
現日本政府は「完全かつ最終的にして不可逆的」に合意したことを議論の前提に置いているので、慰安婦問題であれ、徴用工問題であれ、これらの要求は国際道理・倫理にもとるものであるとし、共通理解が成り立つ最基盤さえない。 そうであるならば、どうすればこじれた糸を解(ほぐ)すことができるのか。

そもそも私たち日本国民は、日韓間に関してどのような歴史[近現代史]を共有しているだろうか。
一般書店の雑誌コーナーで度々見掛ける「嫌韓」「反韓」の歴史なのか、それとも真逆にある朝鮮への蔑視、植民地支配を謙虚に受け止める歴史なのか。
例えば、植山 渚氏著『日本と朝鮮の近現代史―「征韓論」の呪縛150年を解く―』の推薦文を草した歴史研究者渡辺 治氏の「共有するべき常識を示し、同時に私たちがいま、国民的に論議すべき問題」との考え方があることをなぜマスコミは報じないのか。
学校教育、とりわけ小中高校教育、では近現代史はどのような視野で教えられているのであろうか。
文明開化や殖産興業と併行して、例えば征韓論の意識的無意識的背景に福沢諭吉が、その著『脱亜論』の中で言う「朝鮮・中国=悪友」があったことはどのように言及されているのだろうか。

今、両者に和解点はまず見い出せない。それでも和解点を見い出す社会的合意の形成に向かわない限り、両国の対立は不毛なままで、結局は時が流れ、次代に委ねるとの責任回避、無責任に堕する、その繰り返しではないか。

では、日韓基本条約が成立した1965年とは、両国にとって一体どのような時代だったのか。
条約は、1965年6月22日に調印された。しかし、その成立過程を知る時、非常に複雑な思いに駆られる。 まず日本。12月に発効する直前に強行採決で成立している。次に韓国では、調印1年前から反対デモが激しくなり、非常戒厳令が出される中で調印され、8月には野党議員が総辞職し、与党のみで単独承認されている。
両国とも余りにもいびつな過程を経て調印、成立に到っている。これを、国政選挙で選ばれた国会議員によるものだから、多数決の暴力ではないと言い得るか。私には言えない。何となれば、選挙時の争点に「日韓基本条約」があったとすれば言いづらさが残るが、そうでなければ、更には国と国の間と言う新たな大きな問題を強行採決するのは、民主主義の根幹に係ることであるから。
では、この条約成立に向けて、それほどまでに急がせたのはなぜなのか。 そこにアメリカと日韓の経済の影が見えて来る。 アメリカのベトナム戦争への過度の介入と1965年2月韓国のベトナム派兵問題。
そしてそれ以前に韓国は、1950年からの3年間、半島を、民族を分断する朝鮮戦争(動乱)を経験している。
その時日本は、各地が、焼け野原と化した敗戦からわずか20年の1964年前後に高度経済成長を遂げている。これは朝鮮戦争特需と日米安全保障条約があったからのことである。

このような歴史を前にして、人間が歴史を創って行く、創って行かざるを得ない?虚(むな)しさと哀しみまた寂しさを思う。
私はここにおいて、日本は2000年来の交流を重ねる隣国、一衣帯水の国、韓国との未来の出発点とするために、明治時代から1945年及び1965年までの歴史事実を前提に、「日韓基本条約」に対して日本の首相・韓国の大統領をはじめとして社会的要職にあった或いはある人物がどのような発言をしたのか、『事実』を国民に整理し示していただきたいと願う。
私が調べただけでも、日韓で“揺れ”が多い。 このような願いは、その都度見解を述べて来たとする統治者からすれば、私の国民としての義務の怠慢との誹(そし)りを免れ得ないとは思う。
しかし、日本の植民地支配と侵略の傷の深さは、その先人の後を継ぐ「戦争を知らない」世代の一人としては重過ぎる。慰安婦問題、徴用工問題、サハリン残留韓国人問題、韓国人原爆被害者問題、徴兵での軍属従事と戦後の国籍及び補償問題等々、そしてこれらは条約と個人請求権や国際法の領域にもつながって来て、かてて加えて三権分立と国家、国家間と、余りにも問題が多岐で専門的過ぎる。

マスコミは、人々に事実を知らせると同時に、その事実が備え持つ経過を人々に、わかり易く知らせることも重要な職責であろう。その時、マスコミ事業体の自由な個性があって然るべきで、そこから諸情報を統合、総合して謙虚に己が判断を持つ自覚も生まれる。

先日、日本の前外務大臣が、韓国の駐日大使を召喚しての会話中、大使の言葉を遮(さえぎ)って「無礼だ!」と叱責した。ここに到る歴史経緯及び相互理解のための公人の会話として、許容されるのかどうか私たちはどれほどに考えたであろうか。場合によっては、世にはびこる「ヘイト・スピーチ」と同次元に堕する可能性もある叱責である。そしてその大臣は新内閣で別の大臣となり、何もなかったように時は移ろいで行く。

民間交流の有用性は言うまでもないことだが、私たち『日韓・アジア教育文化センター』での交流体験から、私たちの非力を受け止めつつも、或る限界を感じたりする。 それでも、多くの日本人、韓国人、中国人、香港人、台湾人の協力により、交流を重ねて行く過程で、教師間に、生徒間に篤い友愛は確実に生まれた。
そんなわずかな体験ではあるが、「親○」「知○」「克○」「反○」「嫌○」と言っている間は、相互信頼は生れないと実感的に言える。それらの言葉を越えたところに確かな、真の、しかも自然な信頼がある。
これは、古代中国の思想家の言葉を借りたまでのことである。
その意味からも、先に引用した韓国の国文学者の「愛と憎悪」に係る発言の意味は重く深い。 と同時に、 日本人学者が言う
――「併合」と言う用語は、韓国が「全然廃滅(はいめつ)に帰して帝国領土の一部となる」意味を持たせて作った新語であった。したがって「韓国併合」は「韓国廃滅」の本質を隠蔽(いんぺい)した用語であった。―― [君島 和彦氏「韓国廃滅か韓国併合か」『日本近代史の虚像と実像 2』所収] が、
日本を愛するが故の言葉としてどれほどに受け入れられるか、真摯に考えるべきことと思う。

言葉は、人を天に翔(か)け昇らせるほどの生を、一方で心臓を一刺しするほどの死を与える。ここまで記して来た人々の言葉は、それぞれ嘘偽りのない言葉のはずである。それらの言葉をどのように受け取るかは、それぞれに委ねられている。自問し、自答しなくてはならない。 今日の日韓の溝を前に、前回、日本語を指導する韓国人、韓国語を指導する日本人、への期待に触れた。他者に期待する前に私自身はどうなのか。前回から今回へ、私の内にあっては、問題の全体像が鮮明になったと思っている。機会を見出し、深みへと自身を導けることを思う。