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2013年12月19日

ドキュメンタリー映画 「福島に生きる:除染と復興の物語」を観て

井嶋 悠

「福島に生きる:除染と復興の物語」

http://youtu.be/ME9dIRuMkuY[英語版]

http://youtu.be/8NXtnzSZVaY[日本語版]

この40分のドキュメンタリー映画は、環境省からの依頼で、国連大学が制作した作品である。

私がこの作品に接し得たのは、本センター制作の、韓国の高校用検定日本語教科書映像教材での、スタッフの一人である、今福 薫(いまふく かおる)氏が、監督・編集として携わり、紹介、案内を受けたからである。

その今福氏は、東京にある私立明星(みょうじょう)学園高校を卒業後、ニューヨークで映像制作を学び、現在東京を拠点に、映像制作を展開している、30代の若手「Filmmaker」(この呼称は、本人の表現による)である。

[注:韓国の高校用検定日本語教科書映像教材については、本センターホームページの[活動報告]を参照

私立明星学園は、大正時代の自由主義構想から誕生した小中高12年一貫校で、国語教育と日本語教育に係る教材制作等、大きな実績と伝統を持っている。]

 

以下、それを観ての私の感想である。

2011年3月11日の「東北地方太平洋沖大地震」によって引き起こされた「福島原発事故」は、日本の、また世界の一人一人に、途方もなく多様な問題を提示し、今日に到っている。

その中にあって、原発のある福島県の人々の復興に向けた、除染と生活再建への誠心誠意が、その人々の、激することなく、時に『日本人の微笑』(ラフカディオ ハーン〔小泉 八雲〕)を映し出しながら、淡々と復興の現在を追い、描かれているのがこの作品である。

そこには、監督と編集を担った私の知る今福氏の温厚さと篤実さが滲み出ている。

しかし、観ながら、私は、自身の中で持ち得た2年9か月前の意識が風化し始めていることに、そして確かに地震発生地は「東北」であり、原発基地は「福島」であるが、そこにだけ眼を遣る自身に後退してしまっていることに気づかされる。因みに私事を言えば、それは亡き娘が最も忌避したく思っていたことでもある。

復興に、再建に、廃棄物処理場確保に、私たちの税金が投入されることに、また国内外からの多大な支援金が活かされることに、異論を唱える人はいないと思うが、今、はたしてどうだろうか。

自身政治家や官僚、公務員更にはそれを支える学者、はたまた財界大企業の人達は、私たちと同じ国民であることを忘れたかのように、概念的言葉を弄して福祉の、また復興財源のために増税を言い、公共事業投資が全国津々浦々で始まり(私の居住地では、なぜこの道路補修が必要なのか分からないところも多く)、あれもこれもの予算取り合戦が行われ、世界各地への無償投与等も大国矜持そのままの大盤ふるまい、そして首相直々外交とやらで、世界各地に原発建設請負行脚が税金で行われているここ1年の日本の政治に、どれほどの国民が納得しているというのだろうか。
にもかかわらず内閣高支持率の報道は、一体なぜなのだろうか。調査の恣意性を疑ってしまう。

東京電力社長が、県知事を前に、しかもテレビニュース取材の場で言い放った「私も経営者ですから(利益追求を考えなくてはいけません)」のおぞましい感覚が、すべてを象徴していると思うのは、私の偏った意固地に過ぎないのだろうか。

福島の、また宮城、岩手をはじめとする東北の、北関東の、千葉や神奈川の関東圏の人々の思いを共有する「想像力」を、日本に住む一人一人全員が、もう一度喚起させなくてはと自問する。
と同時に、除染と復興を最優先する政治が当然とする姿勢を明確にし、同時に、「文明」を再考することが求められている、そんな危機感を持つことの大切さ、必要不可欠を思う。

そもそも、これって、日本が模倣も含め憧憬し、その影響大の西洋世界が一世紀前に自省したことではないか。

今秋、たまたま見たテレビニュースで、カメラに向かって女子高校生が言った「同情の眼で見るのはやめてほしい。」の毅然とした爽やかさが忘れられない。
「同情ほど愛情より遠いものはない」と言われるではないか。