ブログ

2013年12月25日

オルフェーブル!

井嶋 悠

先日、「有馬記念」で彼を見た。テレビで。

私は競馬場に行ったことはないし、馬券も、高校時代、後に恩師となる高校の“怪人”国語教師から言われて場外馬券売り場に1,2度買いに行かされただけで、何も知らない。しかし、テレビを通してでさえ、彼ら彼女らの立ち姿と躍動の美しさ、そしてすべてを承知しているかのような神仏のごとき眼に魅入られている。

オルフェーブルの最後の舞台・ラストランとのこと。

(私は、外国語の過剰な日本語化には首をかしげる守旧派?の一人かとは思うが、「ラストラン」の響きは、栗毛の彼が冬の陽射しを受けて疾走するに相応しい響きがあるように思える。オルフェーブルとはフランス語で「金細工師」の意味とか。名は体を表わす・・・。)

彼の競馬史上7頭目の三冠馬をはじめ勇者としての戦績と、或る時は後方に沈み、或る時は勝利後人馬一体の騎手を振り落し、或る時は走るのを止めたかと思うと走り出し2着になったりで、我執にして無我の怪馬の軌跡が紹介され、ラストランは8馬身の差をつけた問答無用の圧勝だった。

ゴールに入るときのあの飄々(ひょうひょう)として清々(すがすが)しい風そのままの眼。彼にとってすべては通過点、との諦観大悟をも思わせる眼

解説の調教師が言っていた「彼はやはり賢いです。今日がラストランであることが分かっていますね。」

ただ強いのではない。
強いと同時に自由奔放で、つい我が身の過去現在と羨望重ねてしまう親近感の存在で、そして私たちが忘れ、今の時代の欠落、喫緊の心を無言で教示される、そんな感動感銘がそこにある。

人の世に溢れる、自身を道徳的とするような似非(えせ)がない。

マスメディアが振りかざし、私たち一部?の大人が、何かことあれば規則、条例、法律を作り、抑え、はめ込もうとする時代にあって、それに従うなどという発想がない。しかし人道を逸脱することもない。そして競走馬として燦然とした結果を残す。正しく破天荒なのだ。

野球で言えば巨人ではなく、その真逆ともいえるチームの渇望を気づかせる。かつて三原監督の下に集まった、稲尾・中西・豊田をはじめとする猛者たちの西鉄ライオンズの再来再生への期待だ。「サムライ ジャパン」の規格内優等生のサムライではない。志村喬や三船敏郎たちのサムライだ。

因みに、あの清原和博氏の解説は、高ぶることなく、おもねることもなく、体験から編み出された味のある言葉にもかかわらず出番が少ないのはなぜなのだろう? 高校同期の桑田真澄氏との好対照。

「オルフェーブル」は人間の所為ではない。天意である。

天意は神聖な宇宙調和にあると信ずれば、人間の越境、傲慢の証しとも言える。だからこそ様々な領域、世界の「オルフェーブル」を抑圧し、破壊していることを直覚する人々に、彼オルフェーブルは言葉ではなく身体を賭して示すからなおのこと熱狂を引き出す。

話題に事欠かない[高級]官僚の登竜門試験への、その前提とも言われ年収2000万円以上の家庭の子
どもが50%を超えると言われる東京大学主に[主に文Ⅰ:()学部]への、合格技術(マニュアル)化の弊害の指摘が出され、久しい時間が経つにもかかわらず、体制内権威の権化化の昨今。そしてそれへの高い貢献を善しとする学校教育世界、それに充足を感ずる教師群、また日々の論調では「受験」批判を展開しながら、そのマスコミが東京大学を頂点とした高校に始まる進学・進路評価、その生きる姿勢の欺瞞とおぞましさ。

文句があるならそこに入って言え、で言えば、私は何も言えないが、内部者の告発や良心ゆえの葛藤発言が、どれほどの正統性をもって世に知らされているだろうか。否、それをすればその人の人生はそこで終わるとさえ言われる現実。

何も官僚や東大生を一律に批判しているのではない。

東京放浪時代出会い、親交を結んだ長崎離島出身の夭折した数学者や小学校で出会いその後全く違う人生を歩みながらも親交が続く中国人など、身辺に親族以外にも東大卒業生はいる。もっとも、或る時に職場を共にした私の価値観からすれば唾棄すべき輩もいるが。

医療の高度化と長寿化での人が生きることの問題は今おくとして、とにかく平均寿命80歳の時代にもかかわらず、時に12歳、遅くとも!?18歳で勝利者となったような途方もない錯覚を、そう思わないことを非・現代人としてせせら笑う不思議な人間、非・人間が、いかに増えているかを言っているのだ。

私には残念ながら(否、幸いにも!?)、天は微塵も「オルフェーブル」を授けなかったが、ますます閉塞化し、悪しき保守政治家統制下に入りつつある教育世界に居た一人として、「オルフェーブル」の発掘と育成は急務ではないか、と学校も塾も「個性伸長」の(のぼり)、錦の御旗という画一化!よろしくはためかす白々しい今、なおのこと思う。
もっとも、そのためには池江調教師や池添騎手のような気概と資質、そして試行錯誤切磋琢磨する謙虚さを持った教師との出会いが必要だが。

すべてが「オルフェーブル」に、を言っているのではない。イチローと同じ努力をすれば、第2第3のイチローになれるとの言葉が、いかに荒唐無稽であるかのように。

そこが人道と違う天意の厳しさだ。

だからこそ、末の末の現場で献身する人が在ってこその成果と言う、例えば企業に係る正当な社会評価にヒューマニズム(ここで言う、ヒューマニズム・人間主義とは、人間がゆえの利己、独善ではなく、あたたかさぬくもりの意味である)が活かされるのではないか。

それであってこそ、真っ当な学校教育世界があり、競争世界があり、「生きる力」を持っての人生への期待と不安があるのではないかと思う。