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2014年4月16日

「私」の、自然な老い大願成就・・・・ ―最後?の「私」を求めて― [2] 老いの中で甦る二人の面影

その一人:「私の孤独」を愛した数学徒

井嶋 悠

彼は、繰り返しジョルジュ・ムスタキの「私の孤独」を聴いていた。
当時のことだから、45回転EPレコードである。
何度か聴いて、窓際でギターをつま弾くのである。「私の孤独」を、ポソリポソリと。

窓際といっても、2階建て安アパートの2階、4畳半一室の窓で、外は隣との距離1mほどの同じようなアパートの、古く所々ひび割れたモルタル壁が立ちふさがっているだけである。
彼は、その薄暗い一室でいつも「私の孤独」を聴いていた。独りで。訪問者はほとんどいない。

40年余り前、昭和44年(1969年)頃のことである。

そのアパートは、戦後間もなく建てられた都心の木造で、トイレも流し場も共有で、もちろん風呂などあろうはずもない。家賃、月3000円。南京虫の(当然ダニ、ノミも)猛襲は言うまでもない。
翌朝、顔や体の到るところ、赤く膨れ痒い。根気強く、いささかの個人出費を覚悟で、毎晩、いぶり駆逐をすると数日で奴らは退散するのではあるが。
私は、関西の大学院を1年で中退し、志があるようなないような意気軒昂さで、彼の隣室、同じ3畳一間に入居した。

それが、彼との出会いである。

その時、彼は東京大学大学院修士課程2年生の、ほぼ私と同年齢の、数学徒であった。
彼は、銭湯時と夕食時と、週に2日ほどの通学以外、部屋で過ごすことがほとんどであった。
部屋では、机兼用の炬燵が一つ中央を占め、あとは壁際の小さな書架に何冊かの専門書と必要最小限度の食器類、そして押入れ前に若干の衣服が吊るされているだけである。
そこで、ジョルジュ・ムスタキの優しさ溢れるしゃがれ声をひたすら聞き、沈思黙考しているのである。

そういう私も、似たようなものであったのだが、違ったのは2点。一つは、家賃と生活費の最低限度を稼がなくてはならないこと、一つは、所属なしであったこと。

そこに到る彼が語った、と同時に私が惹き入れられた彼の自伝

出身は、長崎県の小中学校は在る離島。

(彼は島の名を言ったのかもしれないが、覚えていない。少なくとも私からは聞いていない。そもそも離島と聞いた時、彼が連絡(ポンポン)船に乗って行き来している姿が海とともに広がるばかりで、島の名はどうでもよかった。)
高校は長崎市内の伝統ある公立高校で、下宿生活。
理系、特に数学に関心が向いていて、進学先は東大理学部以外考えられなかった、と言うか、他が浮かばなかった由。
その理由の一つが、校内外での「実力試験」での、彼の実績がそうさせたようである。

曰く、
「5教科[国語・数学・理科(2科目)・社会(1科目)・英語]の総合平均点は常に95点以上であった。」
そして私の驚嘆に対して、
「だってそうだろう。国語と英語は、答えが一つではないから100点は難しいが、他は、答えが一つなのだから、100点が自然だろう。」

身長175センチほど、やや筋肉質の痩せ型にして猫背の体を横たえ、黒縁の眼鏡越しの優しい眼を伏し目がちに、訥々(とつとつ)と話す彼の言葉に、誰が疑問、不審を抱くだろう!

自省し、痛切に重ねて思う。

言葉、その語彙、声調、表情は、その人となりを直覚させる。「文は人なり」の前に。

ごくごく自然に現役合格。「駒場寮」に入寮。
そして、2年次で休学。

理由は、一体自分は何をしていたのだろう!?との自己嫌悪、悔悟。
曰く、

「寮内には凄い連中がいるんだ。高校時代、ひたすら、音楽をしていた、自治会活動をしていた、部活動をしていた、……受験勉強? しなかったなあ、……。
突き刺さり、思い知らされた。自分の高校時代って何だったんだ?! 高校と図書館と本屋と下宿以外、何も知らない自分って何だったのだ。襲い来る悔悟、ほとほと自分が嫌になった。」
1年後に復学、在学5年、大学院に進学。

寡黙で、且つ人見知りの強い彼から話し始めることは少なかったが、いつしか心通じ合う時間が積み重なって行った。

もっとも、私の方は、己が可能性を、何の根拠も、刻々の切磋琢磨もないにもかかわらず、どこか信じている能天気の滑稽な風来坊ゆえ、彼にとっては曰く言い難いものがあったかもしれない。

その彼が、或る決まった日に(それが、毎月だったか、2か月に1回だったかは記憶があいまいなのだが)、光り輝く表情になる。
その日が来ると、喜悦満面、早々に部屋を出、数日帰って来ない。そして帰って来たときは、いつにもまして穏やかな表情の彼を新しい服が包んでいる。

何回かそれに接し、彼から聞いた微笑ましい真実。
その日とは奨学金支給日で、それを受け取るとそのまま彼女の居る大阪に行くのである。彼女は中学の同窓生で、中学卒業後、大阪に就職しているのだ。
彼女が彼のために服を選び、買っている姿を、思い浮かべ、どれほど微笑ましく思ったことだろう。
もちろんほのぼのとした羨望と憧憬をもって。

彼と出会って1年ほど経った深夜3時ごろ、彼が来て言う。いつものように訥々と、淡々と。
修論ができた。読んでほしい。」
渡されたのは、市販のA4版レポート用紙10枚ほどに、数式等手書きの論文である。
分かろうはずもない。
「で、どうするの?」
「朝一番で提出してくる。」

何日か後。
「OKだった。島根大学に赴任する。博士課程に進んで研究する気持ちはない。」

今はどうなのか知らないが、当時、同大学生の間では、地方大学に赴任するのは“都落ち”と言われ、希望者はまずないとのことで、希望すれば即決定であったそうである。

その2,3か月後。

私は彼の見送りで東京駅にいた。見送りは私一人であった。やはり東大在学中(文系)で、後に官僚となる弟さえもなく。
新幹線の扉が閉まる時、「じゃあな」と言って、彼は西に向かった。
私は、いつものように八重洲口前に出た。その時、襲い掛かった巷間に浮遊する、あまりにも馬鹿馬鹿しく愚劣な自画像。絶対の孤独感。そして罪の意識。

いつものように人は歩き、車は走り・・・。私の記憶画面にその時の音が、一切ない。
すべてを消去したい気持ちに突き動かされる自身があった。しかし、明日への時間は、そのままそこにあった。実家に帰ることにそう時間はかからなかった。

実家に帰って数か月後、高校時代の恩師からの電話が、まずは半年間の非常勤講師に、そして後33年間の教師生活に導くことになる。
その先生が、次回に記したい「高校時代の怪人・怪物恩師」である。

2年ほど経って、松江に彼を訪ねた。
地図を広げて「まだよく分かってないんだ」と言いながら、松江を案内してくれた。
年賀状など書簡交換が続いた。そこには「今、松江城の油絵に挑戦している」といった、いかにも彼らしい便りもあった。
また、便りで彼が結婚したことを知ったが、相手の女性はあの大阪の女性ではなかった。
書簡交換が10年くらい続いただろうか、年賀状が来なくなった。
その翌年、一度もお会いすることがなかった夫人から彼の死去の報告と挨拶が来た。死去理由は書いてなかった。

私の中で、不思議なほどに静謐な哀しみが通り過ぎて行った。

「私の孤独」の3番(最後の節)で、ジョルジュ・ムスタキは次のように歌っている。
夫人の激しい悲憤を予測しつつ引用する。

――……彼女(注:孤独を指す)は私の死に際しては / 私の最後の伴侶となるだろう

いいえ、私は決してひとりではない / “私の孤独”と一緒なのだから ……――

人間の、絶対孤独感の恐怖、と同時にその魅惑、自己絶対観の愚劣、その実感から知らされる“かなしみ《哀・悲・愛》”の自覚そこから生まれる生きる力。己が生への創造の期待。

それがあっての再生を心に秘めたにもかかわらず、33年を振り返れば、結局は時どきの言い訳を弄しての自己弁護であったとしか言いようがない、それが私の教師人生だったかもしれない。
日毎に、教師であることでの権威や甘え、驕慢にのめり込んで行く自身が、そこにあった。気が付くのは、いつも後だった。

因みに、23歳で辞世した娘は、その晩年、絶対の孤独の恐怖を口にし、私は黙ってそれに頷き(うなずき)、聴き、自身の半生を振り返っていた。
以心伝心、彼女はそれ以上言葉を続けることはしなかった。

私学中高校は、公立学校と違って他校への異動がほぼない世界にもかかわらず、私の場合、3校も経験できたのは、その折々で尽力くださった方々があってのことなのだが、同時に己が再生への奮起、期待があったとも言えなくはない。
もっともその実現後にあったことは、現実の凄味に打ちのめされる私の弱さであったのだが。

天は私に後どれほどの時間を残しているのか、それは天の領域、裁量は天意である。
必ずやって来るこの世からの旅立ちは独り。
しかし、“お花畑”の先に、娘が必ずや待っていて、父や母、妹の元に案内してくれるに違いなく、
その道すがら、「私の孤独」を愛した彼に、昔のあの調子で「やあ」と言って出会うことだろう。

そんな“新世界”への夢を力に、孤独という言葉は私から消え、自ずと然りの時を迎えることを思う。
娘の苦笑を思い浮かべ、1、私 2、賢妻 3、長男、の長幼の序(順)遵守の願いがかなうことを前提に。

ただ、私が再会を希った彼女ら、彼らが、新たに“この世”か、はたまた別の世界に移動していたら、いささか狼狽(うろた)えるかとは思うが。

「私の孤独」は、今も愛聴者が多いと言う。否、ますますかもしれない。
しかし、私たちが世話になったあのようなアパートはもうない。