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2014年9月23日

これが日本の目指している姿なのでしょうか。 余りにも酷(むご)過ぎる、と思うのですが。    +1  番外編

井嶋 悠

私の言葉が生きているかどうか、私が自得できる背景の一つは、33年間の私学中高校国語科教師経験で、そこから【私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと】との表題で、先ず17年間の「教師原点習練期」を5回にわたり書き、次の、59歳で教員生活に終止符を打つまでの波瀾万丈!?17年間の「新たな教師挑戦期」の思い起こしをしていたが、 またしても現代日本を象徴するかのような、私にとって寂し過ぎる、哀し過ぎると言う意味での酷過ぎる報道と爽やかな報道がされたので、1945年(昭和20年)8月23日に長崎市郊外で生を授かった日本人の一人としてそのことを書く。

これは、昨年秋「日韓・アジア教育文化センター」のホームページを更新し、その際、或る強い思いと期待から[ブログ]を始め、ありがたいことに中国から定期的に寄稿くださる日本人商社マンがおられたり、数は多くはないが、関心者、共感者の存在もあり、なおのこと寄稿する良い機会と思い書くことにした。

来年古稀を迎える人間としては、叙事を離れ、例えば、オーケストラとポップバンドが編曲、演奏するビートルズの「Let it be」に酔い痴れながら、画文[画:有賀一広氏、文:白井明大氏]のほのぼのさもあって一層心染み入る書『日本の七十二候を楽しむ』に浸ったり、杉浦日向子の説く江戸世界を彷徨(さまよ)ったりして、濾過された抒情に身を置く方が、よほど相応しいのかもしれないが、哀しい?性情で……。

■ ■ ■

「衣食足って栄辱[礼節]を知る」とは、しばしば使われる故事である。 中国紀元前7世紀、孔子より100年前の、管仲という政治思想家の言葉とのこと。 ここ数年にぎにぎしい現代中国を思い浮かべる人もあるかとも思うが、ここでは私個人のことである。
私は27歳で正業に就き、59歳で退職するまでの33年間の年金積立と、妻の内助、周囲の方々の厚意、高配により、5年ほど前から、北関東の豊潤、豊饒な自然に囲まれた地に妻と愛犬と共に過ごし、何か月に一回か、「日韓・アジア教育文化センター」関係や、小学校(東京)時代の、今も現役で働く友人たちとの至福の時のために上京するという過分な贅沢にある。

時間を含めた日々の生活としての「衣食」「足って」、「栄辱[礼節]」自身を、日本社会を改めて「知る」(知らしめられる)、自照自省の時機の実感。

もっとも、7年の時を経て、2年半前、途方もない悲嘆と自責と悔悟に突き落とされ、それは時に強くはなるが弱くはならず、様々な場面で私に襲い掛かって来るが、ここでは私なりに一線を画しての「衣食足って栄辱[礼節]を知る」に立った、私が思う酷い報道2件と快哉(かいさい)の報道1件からの私感である。

 

◆都内の小学6年生の二人の女子児童が、9月6日午後3時35分頃、マンションの7階踊り場から一緒に飛び降り自殺。
踊り場には、二人の靴が揃えて置いてあったとのこと。
遺書らしきメモに通学、通塾、習い事等からの「疲労」が書かれていたとのこと。
自殺当日、学校で級友たちと抱き合って言葉を交わしていたとのこと。

彼女たちが死を決意し、踊り場で靴を揃え、飛び降りたその瞬間までの心の推移を、私は勝手に思い、私の全身を、どす黒く冷ややかな摩訶不思議な液状のものが、遅 速不規則な速度で突き抜けて行く。
父母の、止めどもない嗚咽と涙、切歯扼腕(せっしやくわん)が浮かぶ。

特に目新しいことでもなく、またか、のさえ漂う無気味な怖ろしさ。それさえ麻痺して……。

しかし、この2,3年は年間3万人を切ったが、それまでの10年来、3万人の自殺者を生み出し、若者の自殺率が高い日本。 2012年統計では、韓国が2位、ロシアが3位、ハンガリーが7位、そして日本は8位。(因みに、それまでは日本が2位で、韓国が8位)
先進国とは何をもって言うのだろう? 経済統計?
日本は自然と経済の(何という並立!)豊かな!?国だが、日本人は精神脆弱?
10代にして、学習、稽古事で疲れを、寝不足を言う国でなければ先進国になれない?

自殺した二人の親のことも、その子たち自身の考え方も知らないが、思う。
「お受験世界」(主に大都会に起きている幼稚園から大学までの受験“狂騒”を、鼻息荒く猪突猛進する一部(母)親の指向、またそういった傾向を揶揄して言う表現) にあって、それに疑義を抱きながらも抗し得ない“普通”の親たちに安易に責任を問えるのかどうか。
それはあまりに人間離れした空理空論、空虚な知識の言葉ではないのか、とその世界を見て来た私は思う。

以前のブログでも紹介した、 「自殺は自業自得である」と言い放った日本の高度経済成長を率い、世界10数か国に在留、訪問したことを自負する、今は引退した日本人男性は、この二人の少女にも 「自業自得」と言うのであろうか。
また、
「西洋では禁止されていますから」と、西洋社会在留経験を持つ、受洗者とは思われない日本人女性(母親)は、日本でのキリスト教(正しくはユダヤ教?)浸透を 切々と訴えるのだろうか。

政治家や識者は、カウンセラーの加配、相談窓口の設置、地域の人々の連携の推進、実施を異口同音に言い、そのための予算措置を行う。
そのことを一方的に非難否定はしないが、それらが結局は対症療法とならざるを得ない、その限界を多くの人々はとうに気づいているのが現在ではないのか。

これも以前ブログで書いたことだが、何年か前から日本で、フィンランドの教育を讃える言説を言う人があるが、その教育構築前は、フィンランドは欧州で1,2位の自 殺の多い国だったとのこと。
そこで国は根本的に国の在りようを考え、立て直すことで、自殺減少と現在の教育を持ち得たという。
フィンランドの教育を讃えるその人たちのどれほどが、それを承知して言っているのだろうか。

個性の大切さを説く現代日本にもかかわらず、人の美(その内面と外面)について、流行について、生き方について、はたまた学校について、その半ば脅迫的に画一化 を煽るマスコミと、それに乗って無恥そのままに、八方美人よろしく正義派気取りで軽佻浮薄な言葉まき散らす俗悪な、中には知識人、文化人を自負する人々。
そしてその人たちには、世間常識では想像も及ばないカネが支払われているとか。

そのカネ・モノ社会に振り回される老若男女がいれば、その人たちは言う。 「現代情報社会での、自己選択、自己責任、主体性の大切さ、人としての誇り。」
そこに見る、己が絶対の、観念でしか生きる必然が考えられない、人が人であることを棄てた(本人は超えた?)傲岸。

日本は、いつごろから人々を追い立て、追い詰める国になったのだろうか。 明治の日露戦争後から? 昭和の日中戦争後から? 戦後体制のアメリカ追従後から?

そして、まだまだ「衣食足らず」を至上に、自然を軽んじ、人為を過信し、“一億一心”国民を猛進させようとしているのか。

「のど元過ぎれば熱さ忘れる」の、人の哀しい性?

「地方創生」の前提が、そんな国家観に立ってのものならば、物心格差の一層の拡大、大都市集中と地方過疎崩壊は決定的であろう。
2020年東京オリンピック。招聘時のカネ・モノ戦略の下卑。決定後の外国人労働者確保にみるあの手この手。
正しくは「日本オリンピック」なのではないのか。

そもそも「創生」と表わすことに、政治家の、官僚の“賢さ”が露呈しているように思える。 普通人(常識人)なら、先ず「再生」そして「蘇生」ではないのか。

世界に眼を広げれば、紛争や風土・環境また当事国の、更には日本をはじめ先進国の施策からのおびただしい貧困の現実が広がっていて、このような発言は富める者の 戯言(たわごと)、世迷言との厳しい叱声を受けるだろうが、しかし「だからこそ(言える)」との思いも私の中にある。

 

◆9月12日の「東京新聞」に報道された、二人の女性(総務大臣と自民党政調会長)の、極右団体代表との日の丸を背にしてのツーショット   

 

女性の登用(こういう言い方自体に、男性優位感を直覚してしまう私なのだが)、不当に女性を侮り、不当に男性を崇める過誤を繰り返していた日本が、先進国最後発 であれ、男女それぞれの着色なしの自由な指向から、男女相補完し事を為す動きを始めたのは、男女共同参画・協働が自然の教員世界にあった者としては、遅きに失す るとは言え、素晴らしいことだと思う。
もっとも、教員世界で優秀な女性教員・職員と仕事をし、自信に満ちた男性からの「男のくせに」的視線に、己が不甲斐さを思うことの多かった私など、何よりも安堵 が初めにあるが。 男女相補完し事を為すその豊かな稔りのためにも、加虐・差別側にあった男性一人一人の意識改革が求められ、それが生半可なら、生兵法は大怪我のもと、既に露見し ているように美辞麗句遊びに堕すだけだろう。
だから、これまで以上に、男・女の前に人としての適不適が問われることになる。

そんな時、社会的、政治的要職に在る二人の女性が、「日本のネオナチ」を標榜する極右団体代表と、それぞれ日の丸を背ににこやかに写っている写真が報道された。

「人物像は知らなかった」との相も変らぬ卑怯さだが、その傲慢さ、或いは極度の不勉強は、それだけで公人(それも世界発信的!?公人)失格である。 それとも、芸能人の「握手会」!と同じ感覚が理解できない私の非現代人性ということなのだろうか。
私は、思想としての右翼左翼論議をするつもりはなく、太平洋戦争を省み、唯一の被爆国としての痛みからも、恒久平和と民主主義を発信、構築しようとする日本の政 治指導者が、「国家社会主義日本労働者党」と名乗る団体と、日の丸を使ってツーショットにおさまることが信じられない。
否、公開されることは当然承知してのことならば、人が権力を持つことでの醜悪の極をそこに見る。
そんな私からすれば、二人は国辱者あり、国賊以外何者でもない。

記事によれば、欧州ならば即刻辞任とのことだそうだが、欧州云々等比較は全く無意味で、即刻辞任すべきことである。
学校教育に多大な賛同をもって導入された、相対評価より絶対評価の好事例ではないか。

と書いている中、今度は国家公安委員長の女性が、主に在日韓国人・朝鮮人へのヘイトスピーチを行っている「在特会(在日特権を許さない市民の会)」との交流、 また政治献金を受けていた問題が報道された。 これらは、男性上位指向に固執する男性からの、マスコミを利用しての謀略ということなのだろうか。

そして、「任命責任者」に責任はないのだろうか。

否、それとも日本風土?を承知しての意図された任命なのだろうか。

やはり!世はすべて勝てば官軍なのでしょうか。

 

◆9月12日に、政府の福島原発事故調査委員会・検証委員会での、事故当時東京電力福島第1原発所長だった吉田 昌郎氏(故人)の聴取内容抄録の公開報道

 これは、番外編である。
先の二つと違って、或いは補填する意味から、思わず快哉を味わったので書く。

    私は、脱原発を支持する一人であり、現政府の再稼働姿勢に典型的物質文明最善観を思い、また東京電力の姿勢[例えば、社長が黒字決算とすることを得意気に語る こと]に、おぞましさを思う一人で、社員であった吉田氏がその原発、日本の指向或いは政治にどのように考えていたかは知らない。

しかし、抄録に次のような一節があり、思わず快哉を心中叫び、氏の現場からの信頼を裏付ける深みと優秀さの人柄を直覚したので引用する。

(撤退と言う言葉の使用有無のやり取りのところでの、政治(家)に係る発言)

「アホみたいな国のアホみたいな政治家、つくづく見限ってやろうと思って。どこかでないですかね。この国を見限るようなあれは、もう、本当に。」

ここでの政治家とは、当時の民主党政権下の人々であるが、私はそこに到るレールを敷いた自民党と併せ考えるし、かと言って信頼する野党はない無党派で、その限 界、無責任を自覚しての私感である。

ここ何年か、日本を見限り、定年後だけでなく海外移住が増えていると聞く。
なんとなく共鳴する私がそこにいるが、私にその決意はなく、このまま日本に住み、日本で土に還り、家族、親族、知人、友人に気ままに再会したいと思っている。

因みに、「従軍慰安婦」問題と併せて、新聞社・マスコミの攻守華々しいが、新聞社も一企業であり、人間社会に絶対はなく、どこを信頼するかは、権威に惑わされる ことなく、自助努力からの情報収集、探求を経て、最後は自身にとっての好悪しかないように思っている一人である。 自身の「専属医」を決めるのと同じく。