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2015年3月10日

「合理」と「非合理」の間(はざま)で浮遊し続ける私 或いは 川崎市の13歳(中1)少年の惨烈死から

井嶋 悠

精緻と言う言葉は、私を限りなく心地よい世界に導く。
私が粗雑な教師人生と己が人生を歩んできたことを自覚しているから。
憧憬。

人間は合理と非合理の間(はざま)でいつもうごめいている。
それが、人間の自然だ、と私は思っている。
しかし、世は合理優先で、非合理の側面を言おうものなら、非合理の吟味もなく感傷、脆弱、ガキ等々と苦笑、憫笑され、時には切って捨てられる。
無気味に、空恐ろしく思うのは、私が未成熟《大人でない》と言うことなのだろうか。

しかし、と思い、『類語新辞典』(角川書店・1981年)から転載する。

―「非合理」は、知性(悟性または理性)によって捕捉できないもので、知識以前の雑多な現象・感覚・体験などをさしている。

一方「不合理」は、道理に合わず筋の通らないことで、世間に通用しない。―

尚、『哲学事典』(平凡社・1971年)には、「非合理主義」との項があり、19世紀後半からの西洋哲学の潮流として説明されているが、
煩瑣になるので省略する。ただ。その中で「古代東洋の人生智に親近」との表現があり、興味を惹く。
また、他の国語辞典では、「人間性の深奥にある」との表現もある。

「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引っ越したくなる。どこへ引っ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。」(夏目漱石『草枕』)

「住みにくさが高じて」、若くして何度かさすらい(かっこよく言っての表現)、教職先も3回変えた。で、どこも「住みにくい」と、座学でない体験から自覚した。「悟った」のではない。私に悟るほどの器量があろうはずもない。漱石だから言えることだ。
しかし、妻の“英断”で、10年前、59歳、定年を前に栃木県に移り住んで、詩心、絵心の器量もないが、それらしきものが芽生えた。
これは、娘の7年間の人為と結末があったから、漱石の足元にも及ばないが、いささか確信的になりつつあるように思う。「生病老死」が、知識理解と言う理解を離れて来ているように。

国語(科)教師としての私も合理と非合理の「間(はざま)」浮遊は変わらなかった。
だから、生徒の私への評価は賛否半々。一般的に優秀なのは「否」、本質的に優秀なのは「賛」。これは私のうれしい思い出でもある。中間層は多種多様の半々。もっとも、高校時代の恩師の言によれば、半々は言い過ぎであるが。
恩師曰く「授業終了時に3分の1の生徒が、お前をあたたかい眼差しで見ていたら大大正解と思え。」

授業は独演会ではない。大学ならいざ知らず、当たり前のことだ。受け手は授業料(金)を払って、己が人生の方向を模索する大きな山場にある。10代前半から後半の思春期に。
しかも私が勤務した中高校(専任教員として私学3校)では、ほとんどの生徒が大学進学を自明としている。ただ、内一校は大学、それも100年以上の伝統ある、があったが、或る時期からほとんど他大学を目指すようになった。
(これについては、現代社会を考えるテーマにもなるのだが、別の機会にする。)

中高校(主に高校)での履修は、「必修」と「選択」があり、その選択にも「必修選択」と「自由選択」を設けるのが、一般的である。
(これも、どういう講座があり、どういう授業を行っているかを調べると、研究者の説く学校論・教師論とはいささか趣の違った具体相が分かっておもしろいのだが、別の機会にする。)

高校の先の恩師の、やはり就職に際してのはなむけの言葉「6か月後、3年後の危機」は、克服したが、「7年後」前後から反省自問が始まった。その過程で、必修では、合理>非合理、(自由)選択では、合理<非合理、とすることを自覚した。
そこから、現代文の、小説での、評論での等々の対話授業法を習得した。(韻文、随筆は至難であったが)
そして、必修古典(古文・漢文)はことのほか対処しやすい、とか、言語事項(文法・漢字等)の無味乾燥さ、といった己をわきまえない感想を持ったりした。

私が、外国語としての【日本語教育】と母(国)語としての【国語教育】の“ヨコの連動”に関心を持ったのは、外国人留学生や帰国生徒との出会いが大きな要因ではあるが、上記の合理と非合理がそこに重なっている。

とは言え、徹底、献身することなく59歳で、妻の“勇断理解”を得て、教師世界に別れを告げた。
類は類を呼ぶ、似た者同士の夫婦、阿吽の呼吸、そこにある“粗雑さ”がそれを可能ならしめたのかもしれない。もちろんこれは妻への感謝と自省からの言葉である。

何事も心と知の余裕なくして思い為し得ず、である。しかし、それは時に傲慢と紙一重でもある。
ここにも、人の止めどなく続く合理と非合理、言葉と心のせめぎ合いが、あるように思う。

一見爽やかな一刀両断の、怖しさと寂しさ。それは、性善説と性悪説の、紀元前からの論議も同根だと思う。だから仏教の「中庸」と言う言葉が輝いて来る。
せめぎ合いから紡ぎ出された言葉の紡織過程に、同じ人として思いに馳せる大切さを思う。
感傷(センチメンタル)に流されることなく。精緻に。合理と非合理を忘れることなく。

合理と効率と高速の現代にあって、それは至難なことだろう。その意地を通すことは時代に取り残されることなのかもしれない。
しかしそれが無くなることは、同時に人の世では亡くなることなのではないのか、だからこそ生と世(よ)に「悲・哀・愛(しみ)」の美が生まれるのではないか、といつもの堂々巡りで私は思う。

 

川崎市の13歳(中1)少年の惨烈死

先日(2月19日深夜から20に日未明にかけて)、13歳(中学校1年生)の少年が、18歳の少年と2人の17歳の少年に、「酷(むご)い」の同類語を幾つ並べても足りないほどの行為で、自宅から数百メートル先の、多摩川河川敷で、殺害された。
死因は、「出血性ショック」。
素っ裸で2月の深夜の川に投げ込まれ、結束バンドで手を縛られ、ひざまずかされ、カッターで頸動脈に届くほどに首等数か所を切られ、殺害されたとのこと。
殺された少年の恐怖、心身痛苦、悲憤、無念と加害者の哄笑嘲笑。阿鼻叫喚と化した河川敷。
理由を聞けば聞くほどになおのこと、残忍極まりない極悪非道の所業で、「少年法」云々とは関係なく、精査(精緻な調査)をして厳しく罰すべきである。絶対善の人間などいないことを共通合意として。

その上で、これまでここに投稿して来たこと、また今回の[合理と非合理(不合理ではなく)]とも重なるので、私の少年時代の体験とも併せて、私自身のこととして考えた要点を記す。

尚、ここでは死を強いられた少年の母親のことには触れない。
やはり報道から知る彼女の姿が、あまりにやりきれなく、切ないので。

□「残虐、残忍」について、或いは「対岸の火事」としないことについて

このような事件が起きる度に、誤解を怖れず言うと、「不合理」を百も承知で、加害者と同じ方法で、加害者に恐怖、心身痛苦を与えるべき、と心の深奥で思い、「非人間的」とか「非人道的」との発言に同意する一方で、どこかでその同意に全的でない私が居る。
私の中にあるこのことと、加害者のそれとはどこが、どう違うのだろうか。
これは、私の特異、異常なのか。しかし、意外にも周辺に同様のことを思う人が多い。

理性、悟性による制御に感謝すると同時に、それを外した酷い歴史も私たちは持っている。
例えば、55年前の私が高校時代、日本史授業で見せられた太平洋戦争時の、中国・朝鮮での、日本軍人による中国人、朝鮮人への残忍極まりない極悪非道の所業の写真の数々。

では、中国、朝鮮はどうなのか。彼らが自身の事として、それぞれの歴史事実から自問するのを願うばかりである。

□個には歴史があり、背景があることについて、或いは知らぬことの幸不幸について

62年前の父の地方への単身赴任、そこから始まる両親の離婚騒動と私の親戚(東京)預かり、そして58年前、関西(本籍の京都ではなく西宮)に戻っての“新家庭”での中学(公立)入学からの3年間の特異な体験。

知人等全くいない入学式の当日、クラスでふとしたことで隣席の少年とじゃれていて彼の頭を小突いたことがすべての始まり。
キリスト教圏で、見も知らぬ子どもの頭を親愛から触れることでの彼ら彼女らの怒りと同じである。

帰宅時、校庭でその彼を含む数人からの殴る蹴るの袋叩き。恐怖と痛みでひたすら逃げ帰った数時間後、2人の教員の自宅訪問で知った複雑な地域(学校区)事情。同和問題。
時間と共に知る、繰り返される一部生徒たちの学内外での、時には血みどろの暴力(他校生徒の殴り込みも含めた喧嘩や恐喝等)事件、時には何度も報道された教師への暴行事件。
教師たちの無視という対応、抵抗? 要は荒れた学校。

或る時、校内で金銭恐喝を私が拒否したがために、数人による再びの殴る蹴る。それを目撃した女子生徒の教員室駆け込みによる彼らの停学処分と彼らの私への逆恨み。
一方で、そのグループからの脱出を願う生徒(男子)の勉強等の1対1の世話役を教師から命じられた私。

卒業式数日前、入学式の、また先の拒否一件の彼らからの校舎裏への呼び出し。
そこで宣告された「殺したる!覚悟しとけ!」の一声。
彼らは言ったからには必ず実行する。言行一致。
そのために学校が行った卒業式の、教員による家庭への事前依頼と当日の厳戒態勢。

人格・学業共に優れ、私も含め多くの同窓生から敬愛され、家庭事情から就職を希望していた同窓生(女子)の、受け容れ社会の拒否という時代。

「阪神文化語」と言う言葉を知っている人々は、どれくらいあるだろうか。
50年ほど前のマスコミによる、阪神間の、主に女子中高生が使う、アクセント、イントネーションは関西ながら、語彙的に東京的な言葉、例えば、語尾に「さ」をつける、用法への命名。
(因みに、東京生まれ、育ちの妻曰く「躾の行き届いた家では女子の「さ」付けは、下品ゆえご法度」とのこと)
要は、東京、しかも都心(山手線内?)を意識した阪神間居住の文化人?誇示、自尊?或いは劣等感の裏返し?

その阪神間諸都市(否、関西のほとんどの地域)が、同和問題を深く抱えていた(今も抱えている)こと、そのことで複雑な陰影、哀しみを刻んでいる被差別者、差別者があることを、どれほどの人々が共有しているだろうか。
マスコミが喧伝した高級住宅地!A市の、過去と現在の事情、事実を、その暗い影と虚飾を、どれほどの人々が承知しているだろうか。

13歳から15歳、東京都内から入学した私は、授業ではなく、体験としてそのことを知った。
30年から40年前に、再開発が進み、様相は確かに一変した。しかし、奥底ではどうなのだろうか。地域によっては、今も変わっていないとも聞く。

あたかも福島原発事故での除染と同じように。(私の居住地も、昨年末除染を受けた。)

私は、彼らの私への加害理由を、被差別部落歴史問題に帰着させ、そこから暴力を是認しようとしているのではない。それは、先の脱け出たそうとした彼、進路を塞がれた彼女のことからも分かってもらえると思う。
加害者の行為は理不尽で不合理で、罰せられて然るべきであるが、彼らの発言から、彼らの心の深奥に、その歴史が深く影を落としていることは明らかで、それがゆえに、すべて(オール)か(オア)無(ナッシング)か的に、或いは合理で裁断できない間の、私をそこに見ている。

これは、当時の恐怖等を思えば顧みたくないことではあるが、個と風土と歴史を具体的に知る一つの契機であり、学習であった。
ひょっとしたら、その頃から知識による理解への違和感を持ち始めたのかもしれない。

では、川崎市は、加害少年にとって、どのような風土であり歴史なのだろうか、と思う。
私は、川崎がどんな町か、子ども時代、大人になってから幾つかの風聞には接したが、2年ほど前に訪ねた駅前再開発の街並みと川崎大師以外、事情、事実は何も知らない。
だから、私の中学校時代体験で得た視線を、そのまま持ち込むことなどあろうはずがない。

個に歴史があるように、風土にも歴史と現在がある。風土は人の生の母体である。それが、加害少年たちにとってどう響き合っているのか。
響き合っているとすれば、それはどういう内容なのか。
響き合っていないならば、国際化(ボーダレス)時代の巨大都市化らしく、風土が持つ保守性、閉鎖性から解放され、すべては個に帰するということなのか。
それとも、私のように知ろうとするそのことが、無責任で、お気楽な空理空論者、更に言えば犯罪的行為ということになるのだろうか。

□改めてマスコミの、政治家の傲慢と官僚性について

[注:官僚的(性)の語意]
「官僚に見られるような、相手の意向や立場を無視した、形式的、権威主義的な態度、傾向を帯びているさま」
(『現代国語例解辞典』小学館)
〈蛇足の私的注〉その多くは高学歴者である。

少年の通夜の席で、取材に来ていた記者とその少年と親しかった少年たちとの間で一悶着があって、警察官も来た旨、別の記者が記していた。
悶着の具体的内容は記されてないが、文章から、悶着を起こした記者が、正義と合理を御旗に、己が正当そのままに、かさにかかって質問したことが、私の中高校教員経験からも容易に想像できる.
そこには、したり顔はあってもつつましやか顔はない。そして記者は、ますます大人風(権威風)よろしく、その少年たちを、世を嘆き悲しむ言葉を発するのだろう。
私が一部マスコミを忌避するのは、そこに人間を感じないからである。

また、日本のネオナチズムリーダーとツーショットの写真が公表され物議をかもし、その後うやむやになった(した?させた?)自民党政調会長(女性)は、少年犯罪が非常に凶悪化して来ている今、少年法の再検討を言い、首相も同調しているとのこと。
ところが、少年犯罪は減少傾向にあり、凶悪犯罪が増加傾向にあるとは言い難い旨の、統計を基にした報告が一方にある。

国を動かす政治家の発言が、このような粗雑にして、感情的、場当たり的で、しかも独善的、権威的であって良いものなのだろうか。
先の報告では「…印象論にとどまらない、客観的、科学的な議論を行うことが不可欠です。」と結んでいる。

因みに、少年犯罪の全盛期は、1960年代前・中期とのことで、それは私が中学生から高校生であった時代である。