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2015年11月18日

パリとエジプト上空でのテロ惨劇と政治と私と犬と ~己が生反芻中への一助のために~

井嶋 悠

先日13日、パリで「IS国」によるテロの惨劇が起き、近々新たな襲撃の可能性も予想され、大統領は「戦争状態」との声明を出した。
更には、今日(17日)、先月のエジプト上空でのロシア旅客機爆発・墜落は「IS国」の犯行とロシア政府から発表された。

繰り返される、己が絶対正義の侃々諤々(かんかんがくがく)ではなく喧々囂々(けんけんごうごう)、罵り合いからの殺戮と戦争、内戦の歴史。
政治の避けられない側面……?

「IS国」支持者や宗教、思想は違うが根源的(ラディカル)革命の貫徹、完遂を目指す世界に散在する「反体制過激(ラディカル)派組織(集団)」員を除けば、パリやエジプト上空でのテロを容認する人はいない。私もその一人で、一部散見される同情論的な見方も持ち合わせていない。
これらのことは、私が23歳の時に衝撃を受けた言葉(昭和10年代の癩病《現ハンセン病》作家・北條民雄の病中での叫び)で、今もって頭・心・身で為し得ていない「同情ほど愛情より遠いものはない」につながることでもある。

政治・経済・地域情勢等々での交流深化を目的に、パリのテロ惨劇が企画されたと言うシリアの隣国・トルコ訪問中の我が国首相の公的言葉。

「強い衝撃と怒りをもって断固非難する」と述べた後、次のように続ける。

「私たちと価値を共有するフランスが今、困難に直面している。日本人はフランスの人々と常に共にある。強い連帯を表明する」と。
(『東京新聞』15日・朝刊より引用)

不穏当、不適格な表現というわけでもないが、違和感を持つ私を否めない。
それは、私のフランス理解が、芸術領域でいささかの崇敬的親愛の情を持っているとはいえ、高校世界史授業程度の知識でしかなく、一度校務でパリ日本人学校を訪問し2日間滞在したとは言えただそれだけのことで、いわんやフランス人の知人友人があるわけでもなく、要は無知に等しく、且つ併行して、現首相の、日本国の導き方、人を人と見ない独善・驕慢の態度、それらしき言葉を弄すればすべて事足れりの官僚的概念的発想等々から最近とみに拒否反応が強くなっているからなのかもしれない。

己が絶対の自信、独善、驕慢者は学校教師にも多いのが自省からの思いである。なぜだろう?との問い掛けだけにここでは留め置くが、この一部?教師の存在が、日本の教育改革が理念と制度、それも多くは欧米からの模倣的導入、に終始し実効性を持ち得ない元凶の一つになっている、と私の身には沁み入っている。
話を元に戻す。

しかし、なのだ。

「私たちと価値を共有するフランス」

「私たち」って、日本人の代表者としての発言だから、日本人全体を指すのだろうと思うのだが、どんな「価値を共有」しているのだ
ろう? 疑問を持つのは私だけなのだろうか。

「常に共にある」

常に? 例えば、どんなことで? やはり私だけなのだろうか。

「強い連帯」

この発言の後ろに、政府推薦の有識者でさえ憲法違反の疑念を言っていたにもかかわらず「集団的自衛権」を2か月前(9月19日)に成
立させた、あの不遜の慢心があるのでは、と思うのも私だけなのだろうか。

同時に思う。
サブカルチャーも含めた日本文化に親愛の情を寄せるフランス人が多い今日、そのフランス人(と言っても多様であるが)が、この日本国首相の言葉を聞き、どんな感覚を持つのだろう、と。感謝の言葉以外に。

もっとも、これらの根底には、井上邦久氏の『中国たより』11月号「日韓中」[この「ブログ」の11月11日掲載]にある「形式知」「暗黙知」への私の無理解がそうさせているのかもしれない。

しかし、独り合点ながら得心する。
政治に眼を向け、自身の事として考え、調べ、時に疑問を抱き、時に痛烈に批判し、そして嫌悪する、そんな自身がふと虚しく、寂しくなる、その要因、背景を。
古今?東西?政治家(正しくは政治屋?)の発言が聞こえて来るようだ。「政治は深奥にして深遠な世界。生兵法は大怪我のもと、ですよ」との慇懃無礼な説諭が。

そして、「なるほど、だからなのだ、選挙での演説やテレビ討論、はたまた国会中継が、つまらない喜劇など足元にも及ばない滑稽(おかしみ)に溢れているのだ」と私に覚らせる。当事者が真面目に、しかも意気軒昂に声高になればなるほどに。だから、それらは“茶番・猿芝居”で、滑稽の後に打ち寄せる哀しみなどなく、いわんや“滑稽美”とはほど遠い。これも私だけの個人的感覚かもしれない。

1990年代後半から選挙投票率は50%余りで推移し、私同様支持政党なしは50%から60%強である。
来年から投票権が18歳以上に引き下げられた。正しく「改」で、日本にとって光明ではないかとさえ思える。

“言葉-それも観念的言葉-遊び”としか思えない、赤字超大国日本の再建計画などどこ吹く風、高齢化に伴う福祉対策、少子化に伴う教育対策、更には何が何でもの原発施策、沖縄に象徴される米軍基地と国家防衛(軍事)施策での、脚下照顧など政治家の辞書にはなく、財源不足を錦の御旗に繰り広げられる税率引き上げ等々の「国民」との抽象語を都合よく利用しての吸い上げ、“大企業と大都市とその他大勢構造”の物心都(と)鄙(ひ)発想はそのままに、「6人に1人」が貧困家庭の子どもの現実、先進国10有余年連続世界一の自殺国日本の、「一億総活躍社会構想」の摩訶不思議、狂騒。

高校義務教育化となってもおかしくない今日、感性瑞々しく大人の奇妙な功利性に毒されていない高校生が、痛みと「かな(悲・哀・愛)しみ」に真摯に向き合っている教員と協働して、政治(哲学)を、日本の政治を、世界の政治を語り合うことでの可能性を、公私立の温度差を想像しつつも、私学経験の私は思う。

例えば、月に一度、合同ホームルーム学習で、教員と生徒から、その学校の“校風”を意識した人物を講師・問題提起者に指名し、その話をクラスに持ち帰り、討議し、次の月例会で全体報告するとか……。これは国語科教育で言う「表現と理解」の学習とも重なる。
それこそ高校生からいろいろなアイデアが出されることだろう。
その際、二重国籍を含む外国人生徒、帰国生徒の体験は、活きた言葉として伝わるであろうし、発言者の彼ら/彼女ら自身の内省の時にもなるであろう。
そして、その積み重ねは、いささか大仰であることを承知で、学力観を考えることでの素因となるのではないか、とさえ直覚する。

頑なな政治家や文科省を中心とした官僚、また曲学阿世の有識者たちは、しきりに「手引き」等々その人たち十八番(おはこ)の指導書作成を進めている。作成自体、己が足元の崩壊を直覚してのことなのだろう。

しかし、なのだ。

この拙文も、2年余り前から意図的に行っている私的集成の、【日韓・アジア教育文化センター】《ブログ》への投稿なのだが、今夏、古稀を迎えた老いの身としては、自身の性向と天与ゆえ一層不明の余生時間からも政治に係る発言は極力控えたい私がいる。

劇作家・井上ひさし。彼を知る人は多いと思うが、劇作といった難しい響きではなく、1960年代後半、一世を風靡したNHKテレビの人形劇『ひょっこりひょうたん島』の原作者の一人であるといった方が親しみを持つ人がより増えるだろう。
その彼の、宮沢賢治の、「かな(悲・哀・愛)しみ」に満ち溢れた詩『雨ニモマケズ』と『永訣の朝』を下敷きにしたパロディ詩に接すれば、政治屋の繰り返される!愚行と、そんな政治を考える馬鹿馬鹿しさ、そして寂しさが私をいや増して襲うだけで他に何もない。
世は、人は、命あるものは「無常」にもかかわらず、政治は繰り返される。なぜだろう?!
無常ゆえに美或いは美感が生まれるとも言え、だから政治に美・美感など生まれようがないのだろう。
こんな詩だ。(制作時は、田中角栄内閣時代1972年~1974年である)
5連からなっている長詩で、第1連からと第5連から、一部分を引用する。
今の内閣のこと?と思えるほどの出来栄え。さすがである。

[第1連より]

野次ニモマケズ / 失笑ニモマケズ / 言ヒ損ヒニモ読ミ間違ヒニモメゲズ / 丈夫ナ舌ヲモチ / 迷ヒハナク / (略) 東ニ勇マシイ親分アレバ / 行ッテ盃ヲ受ケ / 西ニEC諸国アレバ / 行ッテコノ顔ヲ売リ / 南ニ援助ヲ求ムル国アレバ / コノトキハ反リ返リ / 北ニハケンクワッヤソショウヤ / シンリャクガアルトキメテ怯(おび)エ (略)

[第5連より]

……東ニ景気ノ悪イ大国アレバ / 行ッテ智恵を貸シテヤリ / (略) / 南ニ難民ノぼーとアレバ / 行ッテ我国ニ来テハイカガトイヒ / (略)/ヘコタレモセズ / クニモサレズ / サウイフ国民ニ / ワタシタチハナリタイ

 

ことさように苦々しく言いながらも、政治は一人一人の生の日々を左右することであり、一方でどこかで私流の折り合いをつけることを思ったりもする。
テロの惨劇報道での哀しみを目の当たりにし、共に涙する心をもって、東洋人として、日本人として脈々と心性に受け継いでいる、東洋哲学の、

「性善説」:「人の学ばずして能(よ)くする所の者は、その良能なり。慮(おもんばか)らずして知る所の者は、その良知なり。」
(孟子・BC4世紀前後の人。“教育ママ”の元祖「孟母三遷の教え」が母)

「性悪説」:「孟子曰く、人の性は善なり、と。是れ然らず。」

「凡(およ)そ人の善を為さんと欲する者は、性の悪なるが為なり。悪(みにく)きは美しからんと願い、狭なるは広からんと願い、貧なるは富まんと願い……。苟(いや)しくも中になき者は必ず外に求む。(略)今、人の性は固(もと)より礼儀なし。故に勉学してこれを有たんことを求むるなり。……」                                                                                                                                                                           (荀子・BC3世紀前後の人)

と、

聖徳太子が説いた「敬和」
(「和を以て貴しと為し、忤(さから)ふ無きを宗(むね)と為せ。 人皆な党有り、亦た達(さと)れる者は少なし。 是れを以て或ひは君父(くんふ)に順(したが)はず、乍(たちま)ち隣里(りんり)に違(たが)ふ。 然れども上(うえ)和(やはら)ぎ下(した)睦(むつ)びて、事を論ずるに諧(かな)へば、則ち事理(じり)自ずから通ず。 何事か成らざらん。」)                  『十七条憲法 第1条』

[現代語訳]

和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

と、

現代と国際と日本を、自問自答、自己検証する時間、としたり。

昼夜問わずいつも私と妻の横には、御年8歳になる雌の、フレンチブルドッグとシーズーのダブル(一般にはミックス)犬が居る。名前を「ひな子」と言う。日向(ひなた)にまどろむ杉浦日向子(以前、妻からその存在を教えられた私の敬愛する女性の一人)のイメージから名付けられた。名付け親は妻である。

(この「ダブル」との表現は、海外帰国子女教育、外国人子女教育で学んだ一つで、「半分ずつのハーフ」ではなく、「二つの文化保持のダブル」の意である。)

非常に学習能力の高い、必要最小限の吠えをわきまえ、美形とは言い難いながらも“女は愛くるしさ”を地で行く、我が家の精神的支柱で、この彼女を家族の一員とするに功を為したのが今は亡き娘である。因みに、自立していて生活が別ながら、戌年の長男とも意気投合していて、会えば以心伝心、巻尾が勢いよく揺れる。

性格柔和、風貌豊潤、私は彼女に憧憬の人・老子を重ねていて、孤独の不安と喜悦、老いゆえの煩(わずら)いを思うときなどに、彼女のまどろみなどお構いなく声を掛ける。彼女は黙し語らず、大きな瞳で「無為にして自然」と語り掛け、我が寝床(ベッド)に潜り込み、そこで私は何かを得る。

ペットレス症候群との言葉が普通に使われている現代日本。
犬や猫と人(私の場合は犬)。そんなことについて物することも己を、更には老いを知ることになるか、とも思ったりしている。