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2015年12月14日

『日韓・アジア教育文化センター』2015年 報告と心願

井嶋 悠

     2015年の終わりを前に、私の内容・文章責任に於いて、報告1件と極私的な回顧からの願いを記します。

 

Ⅰ 香港と兵庫県西宮市の二つの小学校(共にカソリック系ミッションスクール)交流の実現

【交流校】

香港   St Francis of Assisi’s English Primary School http://www.sfaeps.edu.hk/ ]
日本   仁川学院小学校(兵庫県西宮市)[http://www.nigawa.ac.jp/elementary/

本センターの担い手であるマギー梁安玉先生(香港)と森本 幸一先生(日本)、と両校の先生方の献身と尽力により、11月27日・28日の両日、仁川学院小学校で実施されました。

きっかけは、マギー梁安玉先生からの交流希望の申し出でした。 マギー先生は、日本語教育、日本文学の研究者であり、同時に「香港日本語教育研究会」会長として、近年、小学校段階からの日本語教育の展開を構想、実践され、併行して日本語既修者の語学力と日本文化への関心をいかに持続させていくかということを最新の課題として模索されています。

その申し出の受け容れ校探しで尽力くださったのが、森本 幸一先生です。 森本先生は、小林聖心女子学院小学校(聖心女子大学の系列校で、国内に小中高が幾つか開設されているその一校)で、国語(科)教育を中心に教鞭をとられ、今春の定年後の現在も続けておられます。
先生は、子どもたちの自然によって培われた感性を大切にした「表現と理解」を核に据えて、指導されています。

両校とも“進学校”で、学校暦の違いから、この時期の日本での開催は、進学最終準備期でもあり、且つ晩秋期で年間平均気温25度の温帯地からの子どもたちの健康問題等、考慮しなければならないことも多く、困難が予想されましたが、仁川学院小学校の先生方と香港の先生方の熱意と理解が響き合い実現しました。
当日の内容や感想等については、後日、マギー先生、森本先生から改めて本センター『ブログ』に、寄稿くださることになっていますが、森本先生が私に伝えて下さった次の一言が、その豊かな時間を端的に表していると思います。
「大変よい小学生交流会で、私もその後、放心状態でした。」

1993年の韓国の韓国人日本語教師との出会い、1998年の中国の中国人日本語教師との出会い、2004年のNPO法人としての出発、そして現在に到る中、浮沈、紆余曲折ありましたがこのような企画にお役に立つことができ誉れにも似た喜びを思っています。
あらためて本センターホームページ[http://jk-asia.net/]の「活動報告」「映像」等で、私たちの道程(みちのり)を見ていただけましたら一層の喜びです。

 

Ⅱ 『日韓・アジア教育文化センター』回顧 ~極私的な願いを込めて~

私感として、日本は今、あからさまに岐路に立っていると思う。私は1945年(昭和20年)8月23日に長崎で出生している。戦後世代の初めだが、今では旧世代で、私感は老いの嘆き、愚痴と一笑に付す人も多いかとは思う。しかし、一方で、同じ感懐を持つ老いだけでない大人が少なくないことは容易に推察できると思う。

【余談】
この文章を受身(迷惑の受身)表現にすると「××によって、……岐路に立たされている」となる。××部分で私を含め発言者の観点、生き様が見えて来て興味深いが、別の機会にする。

国内の貧困格差の拡大と、諸相でのそのことによる先進国と言うことの不条理(例えば人権、教育に係ること)、対外的に増殖する強国意識或いは新「富国強兵」視点(例えば、書店に並び、人口に膾炙(かいしゃ)する嫌・反韓/嫌・反中そして嫌・反日に見る「黒洞々(とうとう)たる夜があるばかり」《芥川龍之介『羅生門』》のような喧々囂々(けんけんごうごう)、罵(ののし)り合い)。

1993年からの、韓国との、中国との、そして日本国内での、恵まれた出会い。そしてそれがあってこそ為し得た様々な実践。それを行って来た一人として、私たちの実践が、闇を脱け出る幽かな一助にならないか、と不遜を思いつつも想う。
とは言え、ここで「国際(人)」とか「グローバル(人)」といった言葉を、私は出すつもりはない。そんな大それたそのものは私にはない。

『国際理解教育のキーワード』(有斐閣・1992年)との書での「国際人」の項目では、旧知の異文化間教育研究者が、世界(地球)視座から、10項の内面を挙げて一つの定義を試みている。
目がくらむばかりで、自身とのあまりの遠さを思ったりもするが、言えるとすれば、人皆同じとの私ゆえ、人種、民族でのタテマエとホンネはなく、その上で日本を、日本文化を、あくまでも相対を心底に置いて、大切にしたいと思っている、33年間中高校国語科教師だった一日本人である、と言ったことぐらいだろうか。

以下、そんな私ながら一人でも多くの人に、本センターと、その設立への土嬢となる様々な実践を担った日韓中の、またそれ以外の国の人々について、実践内容と併せて記す。
恵まれた出会いに感謝しながら。
叶うならば何かの折にサイトを閲覧していただければとの願いを込めて。

 

○1994年~1998年  [第1回~第5回](神戸・ソウル/慶州)『日韓・韓日教育国際会議』

○2000年~2011年  [第1回~第5回](神戸・釜山・上海・香港・宝塚)『日韓・アジア教育国際会議』

内容は、回毎に主題を、それぞれが、とりわけ若い人々が、現代の基盤近代史を自覚し、次代を自身内に展望することになるような願いも込めて、設定し、講師の招聘、教員間の、高校生間の討論また開催地の見学等を実施した。共通言語は日本語である。この感動とそこから滲み出る責任への思いは、想像を超えて日本語を母(国)語とする私たち日本人に迫って来る。

二つの大きな体験を挙げる。

一つは、1996年(神戸)の第3回『日韓・韓日教育国際会議』での、「阪神淡路大震災と在日韓国朝鮮人の人権」を主題とした現地(長田区)での講演と現地見学で尽力くださった、当時当地の民団長をされていた金(キム) 孝(ヒョウ)氏をはじめとする現地の方々。

痛覚した、日韓の深い絆の再確認と次代への期待。更には、その数年後に沈んだ心境を語られた金氏の重さと私の軽さ。

一つは、2006年(上海)の第3回『日韓・アジア教育国際会議』で、「東アジアの過去・現在・未来」と題して講演くださった池(チ) 明観(ミョンガン)先生(1970年代の韓国民主化での中心的人物であり、韓日比較文化研究者で、長く日本の大学で教鞭を取られる)と、
会議期間中の日韓中台の高校生たちを追ったドキュメンタリー映画『東アジアからの青い漣』を制作した当時20代の映像作家逢坂 芳郎氏や里 才門氏、また後にポスター制作等で尽力することになった同世代のデザイナー山田 健三氏。

池先生の深い見識と“和顔愛語”そのものの語り掛け。
全編に流れる映像作家たちの瑞々しい感性と映像。
韓国から参加した高校生が言っていた「韓国で、中国本土と台湾のことを学び、恐々(こわごわ)参加したことが全く嘘だった」との言葉が示す、若者たちのしなやかな白地の感性。以心伝心。

この映像作家たちは、2008年には、日本語教育学世界大会(於:釜山)での私たちのポスター発表の一員として韓国を訪問し、抒情性豊かに『韓国訪問~釜山・ソウルの旅~』を制作し、
2011・2012・2013年には、他の映像仲間を加え、韓国の中学校・高等学校での、検定「日本語」教科書の映像(版)教材を、首都圏の学校等の協力を得て制作することになる。

教科書は日本人研究者と韓国人教師で構成されていて、その中の中心的執筆者は、ソウルの高校の日本語教員であり、韓国での日本語教材製作の要(かなめ)的存在で、本センターの担い手の朴(パク) 且煥(チャファン)先生である。
尚、先のマギー先生と朴先生へのインタビューが、彼らの映像で収められているので閲覧ください。

これらの実績があって2014年には、やはりソウルの高校日本語教員の朴(パク)允原(ユンヲン)先生を中心として作成された検定「日本語」教科書の映像(版)教材を、別の映像作家小川 和也氏たち3人が制作するという広がりをもたらすことになる。

 

私は日本のアイデンティティ(自律した自立)を意識し、求め、大事にしたいと思っている、国家主義者・民族主義者[nationalist]ではないし、ましてや国粋主義者[ultranationalist]でもない一日本人である。
しかし、幾つかの文化領域、教育にあってますます強くなりつつあるようにも思える一方的な欧米崇拝、言葉を換えれば劣等感はどうしたことなのだろう。それとも優越感の余裕と言う裏返しなのだろうか。これは、明治の近代化の為せることなのか、太平洋戦争敗戦がそうさせているのだろうか。

私の最初の勤務校(女子校)での外国人高校留学生への日本語指導で、1年の終わりに行なった留学生による文(日本語)と絵の「創作絵本」で、彼女たちはこんな主題で創作している。
その主張から30年余り経つ。絵本を書いた彼女たちは今50歳前後である。どんな思いで日本を見ているだろう。数年前、所在を見つけたいろいろと手を尽くしたが端緒すら見い出せなかった。

1982年  アメリカ(2人)『動物たちのゆめ』
動物たちを通して日米の生活環境を描写し、動物たちが日本の素晴らしさに気づく姿を描く。

1983年  ベネズエラ(1人)『きっと、どっかに』
地球を駆け巡り、仲間を集め、世界の平和に献身する日本の浴衣姿の少女を描く。

国語科教師であった私は、留学生や帰国生等によって、母語・母国語・第1言語が日本語にして日本語知らず、を自覚させられ、日本語教育(国籍とは関係なく、日本語を「第2、第3…言語」とする人々への教育)の国語科教育に与える大きさを直覚した一人である。 それは、小中高校の国語科教育は「畢竟、言語の教育である」との主旨に立てばなおさらである。

多くの識者は現代の若者たちの表現力と理解力の低下を言う。私は、一部の人が指摘する、その根拠、基準のあいまいさ(国語学力、とりわけ「表現と理解」は計量化できない)と、受け手の想像力の欠落、低下が先ずあるとの考えを支持していて、自身の大雑把な(母語、第1言語教育に甘えた)国語科教育を省みればみるほど、緻密さが求められる日本語教育の有意性は明らかであると思う。

(尚、これは「現代文」教育に関してであって、「古典」教育での言語の教育とは意味が違うが、ここではその指摘だけに留める。)

国語科教育では、例えば高校の、更にはその後の進学試験で、幼児対象の絵本そのものが材料となる。三好 達治の2行詩『雪』[太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。]は、どうして名詩としてあるのだろうか。

現代は高速化の時代で、知識の多少が“決着”となることが圧倒的で、心/想像の余裕はほとんどない。だから、日本語教育と国語科教育を「タテ」のつながりと見る人は、私の直覚は国語学力の低下を招くとして見ることが多い。
或る日本教育研究者は、私の直覚に強い関心を示され、『日韓・韓日教育国際会議』『日韓・アジア教育国際会議』で何度か採り上げたりもしたが、私の日々の校務消化ですべてが終わる怠惰性から、直覚は直覚のままで立証と論考の積み上げもなく現在に到ってしまっている。

勝手な言い分だが、是非、全国で日本語教育と国語科教育の「ヨコ」の連動から授業実践している学校、教師を積極的に採り上げて欲しいと思っている。

(或る公立中学校の私の旧知の教師は、学校としてはあくまでも課外扱いで、“ニューカマー”の子どもたちへの「ヨコ」の連動からの教育を実践していたが、現実の問題を肉迫的に知る日々を過ごすことばかりで、数年前定年を迎えた。)

 

最後に「海外・帰国子女教育」のことに触れる。
私が就いた幾つかの学校の内2校は、帰国子女教育を理念の一つにしていたこともあって、海外の異国・異土で、子どもたちは、保護者たちは、どんな家庭生活を送り、どんな学校で、どんな時間を過ごしていたのか、と想像することから始まり、校務で帰国子女担当をすることも多く、教育と社会に係る幾つものテーマを私に与えた。
センターの担い手にも同様の人がいたり、韓国や中国、台湾でも「海外・帰国子女教育」は、国際化と教育に係る重い課題として顕在化しつつあり、会議で採り上げ、時には韓国の先生を含めた日本の研究プロジェクトにも参加できる過分な機会まで得た。

その中で、海外子女教育と日本(人)について一言記す。
これは、学校職務での海外の学校(但し、ここでは以下の内容上、日本人学校に限定)や塾への訪問、センター企画のセミナー等での体験(出会い)から直接に知り得た一部の教育関係者のことである。
記すことは、例えば日本内で“荒れた中学校“に勤務していた教師が、日本人学校に赴任(任期2~4年)し、「授業ができる」喜びと充実の時間を持ったといった感動的な事例ではなく、敢えて暗部的なことを記す。

これらは少数のことであるとは思うが、「好事門を出ず、悪事千里を行く(走る)」。こういった方向から日本(人)を考えることも必要ではないか、とのこれも私の自省自戒であり、不遜からの思いである。

私は仏教に親愛心を持っているが、東アジアで最も信仰者の多いその仏教で、人間の非として「驕奢(きょうしゃ)」(驕り高ぶる)を説いている。
現地(ここで記す体験はアジア地域)で、自身を特別な存在と意識した言葉や態度を表わす驕奢な日本人学校管理職教員や官庁系出向職員に、何人も出会った。そこには本センターへの根拠のない誹謗中傷もあり、それがために企画の変更を余儀なくされたことが、二つの都市である。

これは、或る高名な日本人仏教研究者が憂う「日本・日本人の伝統、謙虚さの喪失と時代の悪しき変化」なのではないのか。それとも、いつの時代にもあることでの要は個々人の問題であり、ただ今日世界のリーダー矜持が日に日に強くなる中での、日本人の必然的な変化と言うことなのだろうか。
日本人学校内の日本人間でも不信感が露わになることもあり、その時、現地の人には日本(人)は一体どのように映っているのだろう。
もっとも、これらのことは人格未陶冶な人間(私)が言うことであり、更にはこのような事例の最後に出会って数年が経つ今ではもう遠い過去の話で、杞憂に過ぎないならばそれで良いのだが。