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2013年10月14日

「自死」の重さ 再考 ―併せて自死観に見る現代日本(日本人)の酷薄と軽薄について―  序・その1

井嶋 悠(本センター代表・元私学中高校国語教師)

 

 

用語については、「自殺」の方が一般的かとも思うが、死の持つ尊厳、森厳さから「自死」とする。

日本の自死数は、2102年に約28,000人で、それまでの14年間の各年31,000人前後を下回ったとのことです。

それでも、未遂者を含めると年間約30万人になるそうで、彼ら彼女らに心を寄せるがゆえに、その家族、親戚、友人への負の波紋は、計り知れません。

 

尚、自死には様々な理由がありますが、ここで扱うのは、[その2の(1)]で引用します日本人臨床心理士がその著『ひきこもる小さな哲学者たちへ』で言う「『ひきこもり』は哲学である」への共感です。

 

この自死数値(1年 30,000人)で、一つの計算をしてみます。

○15年間で45万人が自死で亡くなったことになり、それは毎年1日約82人、毎1時間に約3.4人が亡くなっていることになります。これは、交通事故死者数の約5倍にあたります。

 

自死は、古代から、未開国・地域、文明国・地域関係なく、必ずあります。

生と死に、その時間に、時に苦悶し、時に歓喜し、自己矛盾に思い巡らす人間がある限り当然のことでしょう。

しかし、日本の数値は、他国がどうであれ異常ではないでしょうか。もちろん国際比較では上位です。

 

世代では、高齢世代が多いですが、死因全体で見たとき、例えば22歳の自死は、55歳のそれの約6倍になるとのことです。

しばしば耳にする「若者の甘え」とか「日本の文化?」で済まされるとは到底思われません。

そこに日本社会の大きな問題[例えば、生き苦しさとか]が、あるように思えてなりません。

それは、先に引用した「『ひきこもり』は哲学である」に通ずることです。

 

その日本は、経済大国であり、文明国として自他認めるところです。

しかし、ひょっとして1868年(明治維新)~1945年(太平洋戦争)、1950年(朝鮮戦争)~現在、の短い期間のひたすらの力走がもたらした負の結果なのでしょうか。

今回、自死について私が発信したく思ったのは、下記四つの理由からです

その時、私の脳裏に在る自死年齢は、10代から20代、30代の青少年であり、同時にそれは高齢者世代のそれと表裏一体である、と考えています。

 

一つは、自死への決断は生と社会への、本質的な問題を蔵する命をかけた警鐘でもあること。

一つは、私にとって自死は畏怖の対象で近寄り難いにもかかわらず身近なことでもあること。

一つは、2012年、先進国[OECD(俗称:先進国クラブ)加盟国]で韓国が、それまでの10位以外から突然に日本を越えて2位となったこと。(その年、日本は8位。)

一つは、現代日本を象徴するかのような大人の酷薄、また盲目的西洋崇拝の軽薄に改めて接したこと。

 

そして、これは私個人だけでなく、世界を、東アジアからまず考えてみたい、と20年の時間の中で思い到った[日韓・アジア教育文化センター]としても、意味あることではないかとも思っています。

 

以下、上記四項について、何回かに分け、若干の私見を記します。

これは自死を介しての、68歳となった私の個人と社会と日本についての、一つのまとめとも言えます。

 

 

その1

「自殺は警鐘であること」について

 

世は生き辛い。それは古今東西、人々の実感だ。そして日本。「2011.3.11」から2年半の政治の、社会

の疑問だらけの現在。

日本は経済大国にして、世界を牽引する先進大国である、と一部日本人は今も言う。

ほんとうだろうか。

私が知る現在を生き抜く若者は、「?!?!」にある。

そして老人世代の私は、その若者たちに共振している。

若者と老人の自死は表裏である。二つの異質な、しかし共通してある透明な寂寥。

 

国の借金1008兆6281億円(1万円札をつなぎ合わせると地球を何周するんでしょうか。)、諸外国への時に無償での援助、世界第2位の国連負担金、沖縄の思いやり予算、3.11復興予算の不可解な使途、また海外からの援助金の使途のあいまいさ、傲慢、無礼。企業への給与を上げろの政府大号令……

の一方で、

経団連の95%を占める中小企業の実態、首都圏をはじめ全国の貧困家庭、若者のワーキングプア……

にもかかわらず、

アラブ圏での原発売り込み成就を、ほとんどの納税者が首をかしげ憤慨する度々の「外遊」を、政治課題を、独善的にまた八方美人そのままに美辞麗句で、国内に、世界に、得意満面、臆面もなくマスコミに語る我が国の宰相。

その宰相の、極め付けとも言える二つの発言。

一つは、オリンピック東京(正しくは日本であると思うが)誘致プレゼンテーションでの、壇上からの(権力者らしく?)両手で抑える仕草の[under the control]《theではなくmyと言いたかった?》発言。

(因みに、オリンピック招聘の初期プレゼンテーションで東京都知事は、日本は金持ちで、しかも現金で用意している、と声高に英語で言っていたが、「in cash」と聞いたときは身の毛がよだった。)

もう一つは、アメリカの投資者対象の演説会での「日本は儲かる国云々」発言。

「カネ・モノ日本」との内外での疑問が出て30有余年。今も金満自慢を善しとするリーダーたち。

何という卑賤。下品。

と思うのは、非現代人? 国際社会は金銭社会?

「貧すれば鈍す」ではなく「富すれば鈍す」?

二人の誘致プレゼンテーションの対極にある二人の日本女性のプレゼンテーション

 プレゼンテーションが誘致に大きな影響があるとするならば、それは佐藤 真海さんと高円宮 妃久子さん二人のプレゼンテーションの賜物と、私は思う。

そこでは、自他への慈愛溢れる言葉が、お二人自身の歴史が紡ぎ出した言葉として聴く者に静かに重く浸み入り、だからこそ文化を超えて人の心の奥にある三つのかなしみ【哀・悲そして愛[しみ]】を突き動かしたし、それらを凛とした微笑みで話されている姿は気品そのものとして映ったからである。

 我が国宰相は、「儲かる国日本」と併行して、国連で「女性の活躍」に関する演説を行ったが、「何を今さら、今ごろになって」と、古代からの日本の歴史を知る心ある多くの日本人女男は、一国の男性政治家そして宰相としての自省の無さを恥ずかしく思っている。

その宰相を、また大臣たちを取り巻き支える、弱者の哀しみ、痛みを観念的にしか理解し得ない多くの官僚や学識者、はたまた正義派気取りで空虚な言葉を垂れ流すマスコミとそこに群がる“ご意見役(コメンテーター)”。

先日、被災地福島の女子高校生が、テレビカメラの前で突き放すように言っていた。

「同情の眼で見るのはやめてほしい。」

 

私が大学卒業論文で対象とした昭和10年代のらい病(ハンセン病)作家北條民雄の言葉が甦る。

「同情ほど愛情より遠いものはない。」

と書く私は、卒業後45年経った今も、同情と愛情の狭間で右往左往しているだけなのだが……。

先の選挙での大勝利にみる、前政党の期待を裏切った失政の結果であることを、そしてその前の自与党時代を忘れての自画自賛の勘違い、無責任。(その私は無党派、支持政党なし、というよりは政治家また政治的人間が生理的に不得手な類。)

テレビカメラを前に、知事に「私も経営者ですから」と胸張って、電力料金の値上げ申請をする社長の厚顔無恥、傲慢、冷血、非人間性。

「増税と社会保障の一体化」。この当たり前を国民の何パーセントが心から信じているだろうか。

政府、官僚、学識者は、こんな不信が出る理由を、自身のこととして承知しているのだろうか。

言葉の玩具化、冒涜。

「私は日本人です」と言うことの恥ずかしさ。後ろめたさ。自身から優しさが消失して行く実感、不安、恐怖、寂しさ。襲う更なる生き辛さ。

自身の存在を自負する一部の大人たちが声高に発する「誇りを!」に、憫笑(びんしょう)し、苦笑する若者の繊細な感受性。

或る若者が、自死を選んだ。

その若者を知る、労苦ばかりの人生と現在を背負い、天涯孤独を自覚し生きる40代の大人がつぶやいた言葉。

「あの子は、人の哀しみと痛みを皮膚で、全霊で、直覚していました……。」

 

若者の、瑞々しく鋭い感性と知性の不足を知っているからこその狭間での葛藤。そこにある優しさ。

老人の、多重の地層「生」を経ての透明な感性と疲労と孤独との狭間での葛藤。そこにある優しさ。

 

両者に共通する言葉[理知性・論理]への、根本的懐疑、不信。

 

彼ら/彼女らを追い込む単線型特急社会。

「弱い」と叱声され、憐憫(れんびん)同情され、自身を責め、その自身を嫌悪する若者と老人。

「忙しい(心亡くなる)」が、正統正義の自己主張かのような摩訶不思議な現代。

日本はどこに行こうとしているのだろうか。

「強い日本を取り戻そう」の怖しさ、おぞましさ。

日本が、今すべきこと。

いかなる年齢でも、それぞれが立ち止まって自問自答できる自他の心の“ゆとり”が自然である、そんな社会への意識の変革、構築。

それを為し得なければ、日に日に「人工」化を邁進し、心の硬質化に拍車がかかる現代にあって、人と人の、その間の“潤い”は辞書の言葉だけにしか留め得ないだろう。

【備考】

  19世紀のフランスの社会学者エミール・デユルケムの『自殺論』(1897年)を講義した、デユルケムの研究者である社会学者宮島喬氏の『デユルケム「自殺論」』

    は、デユルケムの著作を引用しながら彼の自殺観を概要すると同時に、日本を含めた現代の自殺を展望した書で、私の自死観(個人的要因は否定しないが、先ずは
社会的要因の大きさを意識した考え方)を固めるに意を強くした書である。