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2016年2月16日

故 郷・望 郷 [Ⅱ] さまざまの望郷

井嶋 悠

いかんせん牛歩の進行中で、全うできるかどうかは甚だ心もとないが、老いと孤独を(老いの孤独ではなく)知情意で直覚できるようになりつつある。と言ってもまだまだ知が勝っている情けない段階だが。
父の私への小言の一つは「安易に楽しいと言う言葉を使うな」で、その父は、19年前の夜、自室で独り天上に旅立った。救急車で運んだ時の医師の言葉は「死後硬直が始まっています」だった。
「私は独り在ることを怖れない。しかし絶対の孤独は怖い。」と言っていた娘は、4年前、私たち父母と兄に見守られながら旅立った。改めて非常な緊迫感で生きていたがゆえの彼女の直覚と洞察を思う。
動物は死を直覚するとどこかに去ると言われる。高等動物の人間、その「高等」を考えさせられる。

私は1945年、長崎被爆2週間後の8月23日、その長崎市郊外で、次男として生を享けた。長兄は生後間もなく死んだ、と聞いている。京都人父の大村海軍軍医派遣とその地での母との出会いである。本籍は祖父当時から今も京都府舞鶴市。祖父の京都市内移住後、菩提寺は京都市中京区。
生後間もなく、父の異動で、松江を経て、3歳時に、京都に、父から言わせれば戻った。その5年後、父は新潟県の地方都市に病院長として単身赴任。やがて父母は離婚し、私は独り東京の伯父伯母宅へ預けられ、小学校卒業と同時に父が西宮に。継母との生活の始まり。以後、一時の東京での個人生活以外、還暦まで西宮、宝塚での生活。そして10年前、ここ栃木県北部に移住し、昨年古稀を迎えた。
父も生母も、伯父伯母もとうに天上に昇った。継母は存命だが、過去の軋轢、不信で、10有余年会っていない。おそらく会うことはないだろう。心通じ合える姉妹かのように、亡き娘の良き理解者で、娘も姉のように慕っていた義妹(継母の娘)は、1959年(昭和34年)、癌で早逝した。39歳だった。

今、私には帰る故郷はない。しかし、望郷はある。故郷(ふるさと)は魂(たましい)、無垢な魂、私の3歳から8歳の5年間に思い到る。ひょっとするとそこが私の原郷ではないか、と。

こんな体験をした。

10年余り前のこと。東京に行くまでの5年間の、上賀茂神社近く、賀茂川沿いの生活地を独り訪ねた。すっかり様変わりして全く別世界だった。歩いて15分ほどに私の庇護者従姉妹が住んでいた家があるのだが、家だけが残っている。
私は賀茂川に出た。どじょう刺し、ごり釣り、昆虫採集の拠点で、葵祭の行列を見る場所でもあった地に立った。川辺に降りて川底を見つめたが、あの玉虫色のどじょうはもちろんのこと、当時採っては放していたありきたりのどじょうは姿さえもなかった。中州近くで、小学校高学年か中学生くらいの男の子が、膝下まで川に浸り独り黙々と魚採りに打ち込んでいた。
それを見た時、私の中を啓示に近い衝撃が走った。私の“英雄”が甦ったのだ。私の英雄は、魚採り・虫採りの達人だった。息をひそめ、心ときめかせ、何度彼の後ろをついて行ったことだろう。彼は当時中学生くらいだった。知能が少し遅れていた。常にその英雄を怒鳴っている怖い父親がいた。バラック建ての貧しい家に暮らす父子家庭だった。それらの光景が、フラッシュバックされた時、眼前の少年が大きな鯉ほどの魚を浅瀬に追い込み、両の手で採り上げた。既に得た魚を放している自分で作った生け簀に入れる時の、誇らしげな、しかし静かな笑みを湛えた彼の表情。60年前の英雄の再生。私は話し掛けることなど思いもつかず、じっと彼の一部始終を見ていたそのとき、私の故郷・魂はここだと直覚した。私のこれまでの60有余年を瞬き回顧した。と同時に遅過ぎた発見と思えた。
形としての故郷は私にはないが、その少年との出会いで確かな望郷を持った。

或る不動産情報会社の調査によると、東京出身者の約4割は「故郷と呼べる場所はない」と思っているとか。
1947年(昭和22年)生まれの私の妻は、その東京人である。ただ、三代続く新橋の生まれ育ちである彼女は、東京人ではなく江戸っ子の矜持を大切にしている。菩提寺は築地市場の真ん中にある。新橋の実家は20年近く前に、両親が横浜に転居し今はない。その両親は10年ほど前に相次いで亡くなった。家系は近々途絶えると言っている。これは私の家系にも言い得るところでもある。
彼女は、またその兄は、そのことに未練等一切言わない。宿命(さだめ)と享け止めている。彼女は私の方の墓に入ることを厭(いと)ってはいないが、樹木葬、散骨葬に心惹かれている。
人も街並みも一切変わり彼女にとって地名だけの新橋だが、故郷(ふるさと)と思う心は生きている。ただ、あまりのビル化の変容、幼馴染の不在は、故郷(ふるさと)の心象風景とはかけ離れすぎていると言う。

先の調査では、「子どもにとって故郷は必要か」との問いもあり、東京出身者の約7割が「はい」答えたとある。そのとき質問者と回答者には、先ず自然があって、それを背にした父母、祖父母、親戚…また近隣の人たち、幼なじみとの心の紐帯が描き出されていたのではないか。故郷(ふるさと)。

1914年(大正3年)、高野辰之・作詞、岡野貞一・作曲の唱歌(童謡)の『故郷(ふるさと)』の、「兎追いしかの山 / 小鮒釣りしかの川 / 夢は今もめぐりて / 忘れがたき故郷」である。

歌詞全体を記す。

兎(うさぎ)追いし かの山 / 小鮒(こぶな)釣りし かの川 / 夢は今も めぐりて  / 忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)に在(い)ます 父母 / 恙(つつが)なしや 友がき / 雨に風に つけても  /  思い出(い)ずる 故郷
志(こころざし)を はたして / いつの日にか 帰らん / 山は青き 故郷 / 水は清き 故郷

「山は清き」「水は清き」「忘れがたき」「思い出ずる」故郷。

高村光太郎(1883~1956)の詩集『智恵子抄』(智恵子〈1886~1938〉は、高村光太郎を高村光太郎為さしめた唯一無比とも言える光太郎夫人)の中の、広く愛誦されている、智恵子の故郷の阿多多羅山への想いを詠った詩「あどけない話」に思い及ぶ人も多いと思う。
あどけない、そこに響く純粋無垢な心。

「あどけない話」

智恵子は東京に空が無いといふ、 / ほんとの空が見たいといふ。 / 私は驚いて空を見る。 桜若葉の間に在るのは、/ 切つても切れない / むかしなじみのきれいな空だ。 どんよりけむる地平のぼかしは/ うすもも色の朝のしめりだ。 / 智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山の山の上に / 毎日出てゐる青い空が / 智恵子のほんとの空だといふ。 あどけない空の話である。

「山紫水明の国」「やまとは くにのまほろば たたなずく あおがき やまごもれる やまとし うるわし」(日本武尊(やまとたけるのみこと))と言う。
川端康成(1899~1972)は、ノーベル文学賞受賞講演で、道元禅師の「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」等を引用して、日本人の自然融合、回帰を言う。
それが日本唯一かどうか、ソウル郊外の農村道に沿って繚乱するコスモス、ニューヨーク郊外の住宅地の紅葉林に魅入った私には確信的に言えるものは未だない。ただ、日本は先ず自然神道があっての渡来宗教仏教との神仏習合との説明は、何のためらいもなくごくごく自然に沁み入って来る。

亜熱帯から亜寒帯の南北に長く、山岳・山林が6割を占める日本がゆえの、多様で豊かな自然とそれに育まれた魂。故郷(ふるさと)。原郷。切々と湧き起る望郷。
国を信じ献身し、にもかかわらず抑留生活を強いられた人々、異郷で塗炭の時間を経て引き揚げて来た人々、異郷で土に還ったからゆきさんたち、また移民の人々……の望郷。

詩人・作家の石原吉郎(1915~1977)は、シベリア抑留生活での心の推移を、「望郷」→「怨郷(祖国の人々から私たちが忘れられて行くことでの恐怖と不安)」→「忘郷(極限の疲弊から自身が祖国を忘れて行く)」と言い、

満州で生まれ、家族共々生死の境を越え引き揚げて来た或る人は、私には故郷がない、と言う。

また、「今日の価値基準だけで、ただその一本の柱だけで、からゆきさんをみるとするなら、わたしたちは「密航婦」(引用者注:当時、ふるさと以外の人々は、「密航婦」以外に「海外醜業婦」「日本娘子軍」「国家の恥辱」等と呼んでいた)と名づけた新聞記者のあやまちをくりかえすことになるかもしれない」と、細心の注意と優しさをもって太平洋戦争時の悲惨と哀しみにあったからゆきさんに寄り添い、追う、自身が韓国(当時、朝鮮)で生まれ、韓国の幼友達や母(オモニ)の愛に育まれ、18歳時に帰国した(引き揚げた)詩人・作家の森崎和江さん(1927年生)。

[上記の密航婦以外の呼称も含めて、引用は森崎さん著の『からゆきさん』(1976年刊)]

際立つ若い女性たちや芸人の受賞で一層の話題となっている「芥川賞」。その第1回受賞作(1935年)は、石川 達三(1905~1985)の、ブラジル移民を描いた『蒼氓(そうぼう)』(第1部)で、神戸を舞台に移住する若い女性の哀しみを描いた重厚な文体が印象的な作品である。

私たち『日韓・アジア教育文化センター』の中核的存在、韓国の中等教育での日本語教育で重責を担う、ソウルの高校日本語教師朴(パク) 且煥(チャファン)氏が、愛読する韓国の詩人・尹(ユン) 東柱(ドンジュ)。
彼は、日本による韓国併合の7年後、1917年に、当時満州で生まれた。祖父はキリスト教開拓団の長老、父は教員。2歳の時に朝鮮「3・1独立運動」が起こる。1942年から日本〈東京・京都〉留学し、1945年、治安維持法により京都で検挙され、懲役2年の刑で福岡刑務所に拘留中、「朝鮮語で何かを叫び」(日本人看守の言葉)死去した。叫んだ内容は永遠に誰にも分からないが、私は故郷を想っての叫びではないか、と勝手に想像している。

彼の故郷に関わる詩の二つを引用する。

1936年(19歳)の作
故郷(くに)の家
―満州でうたう

古い藁靴を引きずり / ここへはなぜ来たか / 豆(トウ)満江(マンガン)を渡り / さびしいこの地に
南の空のあのしたに / ぬくい ふるさと / 母のいるところ / なつかしい故郷(くに)の家

1941年(24歳)の作
もうひとつの故郷

ふるさとへ帰ってきた夜 / おれの白骨がついて来て 同じ部屋に寝転んだ。
暗い部屋は宇宙へ通じ / 天空からか 音のように風が吹いてくる。闇の中で きれいに風化する / 白骨を覗きながら /
涙ぐむのは おれなのか / 白骨なのか / 美しい魂なのか / 志操高い犬は / 夜を徹して闇に吠えたてる。
闇に吠える犬は / おれを逐(お)いるのだろう。
ゆこう ゆこう / 逐(お)われる人のようにゆこう / 白骨にこっそり / 美しいもうひとつのふるさとへゆこう。

故郷。一人一人の魂の郷(さと)。生の源泉。生きる心の拠りどころ。形として在る人の幸い、哀しみ。心だけに在る人の幸い、哀しみ。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの / そして悲しくうたふもの」。望郷。生き、死(し)去ること。