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2013年11月12日

「自死」の重さ 再考ーその2の1  「自死は畏怖であり同時に身近なことであること」について (1)

井嶋 悠

用語については、「自殺」の方が一般的かとも思うが、死の持つ尊厳、森厳さから「自死」とする。

自身の青少年時を振り返り、自死を考えたことは一度ならずある。そして今68歳である。私の場合、投げやり的な理由であったからであろう、ふと考え、恐れおののいただけのことである。しかし、私との距離の遠近は問わず、未遂を含めた他者のそれに出会ったことは幾つかある。

 生まれ出で、生きて、それも自分らしく生きて、在ること、それはすべての人の願いである。しかし、それは大変な、否至難なことだ。

だから例えばテレビでの夢追う言葉や映像に、また刹那的お笑いに、瞬時であれ、惹きいれられるのかもしれない。もっとも、直ぐにそんな自身をさびしく思い、嫌悪する若者は多い。若者のテレビ離れが起きて久しい。

こう言う私は、テレビの欺瞞、偽善に、そして「間」など異文化のごとき言葉の洪水に身の危険を感じつつも、ついつい見てしまうことでの苛立ちを何度繰り返していることだろう。

 私の父は、大正生まれの、被爆地長崎で、軍医を含めた一部軍上層部の醜悪極まりないエゴを眼前にしたがゆえに原爆の一層の悲惨さを体験した、頑固一徹の医者であった。その父の口癖。「軽率に楽しいなんて言葉を使うな。」この言葉の重みが、最近やっと分かり始めている。

(私の愛読書に、いろいろな人たちのエッセーや日記を集めた『生きるかなしみ』(山田太一編)というのがある。その中の、夢野久作の子息で、陸軍軍人であった杉山龍丸の「ふたつの悲しみ」など、戦争の愚かさ、(むご)さ、かな(悲・哀)しみが、静かに、激しく、心深層に染み渡るエッセーである。)

 私が、自死を哲学と結びつける理由は、その生、生きて在ることに、ふと疑義を直覚する、そんな若者の生き様からである。

厭世哲学とか、虚無哲学とかいったものものしいことを言っているのではない。

結果としてそういった名称を識者は与えるのだろうが、自死を選んだ若者の、それも感性豊かに懸命に生きようとする、その心の経緯を想像するとき、そこに「哲学」を直覚するからである。時に、私自身のこととして。

生きることが哲学である、である。

そんな私の、畏怖にして身近な生と自死観を、これまでに読んだ自死に係る書から、一部幾つか引用し、私見を記したいと思う。

記載方法は、書名・著者名・引用・私見(【 】部分)の順である。

尚、それらの書での用語はすべて「自死」ではなく、「自殺」であるので、引用に際してはそれを使う。

□『ひきこもる小さな哲学者たちへ』 小柳(おやなぎ) 晴生(はるお)[臨床心理士]

 (ここでは、「重大な危険」といった表現はあるが、「自殺」という言葉は使われていない。)

 

  「…「ひきこもり」にしろ「閉じこもり」にしろ、「こもる」という言葉が使われているのは意味深いと思われます。「こもる」は、「隠る」と「籠る」の二通りの表記があります。……「籠る」は寺社に参籠し祈るという意味です。……「籠る」と取れば、個人的に確保した宗教的な時間ととらえることもできるのです。」

 【私は、或る意味典型的日本人で、一部の新興宗教を除きすべての宗教を容認するという意味での、無宗教者であるが、広く宗教の持つ精神性は生きる力となると考える一人である。

  その意味で、前後期思春期にある若者に、また老人にとっても、筆者の言う「籠る」の意味の巨きさを思う。○○教主義の学校といった場にある制度としてのそれではなく、個としての時間として。しかし、世は、その立ち止まり、自問し、自己学習する時間をどれほど容認しているだろうか。だから、○○教主義の学校に在籍しても、多くは慌ただしく時に追われる若者がほとんどである。

(そんな中で、カソリック系の女子高在籍者から聞いた、同敷地内で生活するシスターの日々、一挙手一投足が、生徒に与える思考の時間については、非常に考えさせられるものがあるが、今は措く。)

食や医療事情の伸展から平均寿命が伸びている今、高齢化社会の良い面に目を注ぎ、2回目の、3回目の機会(チャンス)を、にどうして消極的で、今もって「18歳人生決定観」如きがあるのか、不思議でならない。】

□「文化と自殺行動」[『自殺学』現代のエスプリ別冊「自殺と文化」所収] 大原 健士郎[精神科医]

 

  「……わが国の青年によくみられる純粋自殺(哲学的自殺)は、思弁的に死を純化し、合理化し、理論化した自殺であるが、これを純粋自殺とよび、自殺の代表的なものとみなす慣習は、外国ではあまりみられない。」

 【死を純化するとの心に、東洋の、鈴木大拙の言う韻文性、抒情性での透明、また仏教、道教の無の心を思う。そのことが、西洋(欧米)近代化、合理化社会にあっての西洋文化を懐疑し、東洋文化を再発見する、或いは憧憬する西洋人が増えていることにつながっているように思える。

そして、その東端に位置する日本は、欧米化、国際化=アメリカナイゼーション(それもWASP[White Anglo-Saxon Protestant] を基盤とした?)を真善美の基準に置くが如き世相にある。

偏狭な地域主義、ナショナリズムは否定されるべきものにもかかわらず、日本はアメリカの覇権主義、ナショナリズムに追従し、主体性なく安直に共同歩調を採るのはあまりに哀しいことなのではないか。】