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2013年11月17日

「自死」の重さ 再考―併せて自死観に見る現代日本(日本人)の酷薄と軽薄― その2の2 「自死は畏怖であり同時に身近なことであること」について (2)

井嶋 悠

□『自殺について―日本の断層と重層―』 唐木 順三[哲学者]

   「思想が思想として芽生え、自己が他との区別において自覚されてくる青年期において、多少でも思索的傾向をもつものが悩まずにはいられないところの、理性と本能、意志と感情、思想と骨肉、合理と伝統との対立の問題は、社会的にも決して解決されていない。常識という便利にして無方向なものが、それを曖昧化することによって、まあまあという場所へ追いやっているだけである。多くの思想人を苦しめ自殺せしめた原因は、除去も治癒もされてはいないのである。……思想と感覚の乖離に苦しんだはてに自らを殺していった人々は、我々の苦しみを典型的に苦しんでくれたのである。そういう点で僕等と無縁ではない。」

 

 【これは1950年(昭和25年)に書かれたものである。2013年(昭和が終わって25年)と書いても誰も疑わないのではないか。

   氏は、戦没学生の手記、A級戦犯、近代から戦後の、歴史に名前を刻んでいる8人の自殺した文学者、学生等を採り上げ、日本を考えようとする。

   例えば、「東京裁判」に掛けられたA級戦犯の内、広田弘毅と松井岩根をさすがと言い、戦没学生の辞世の歌に心打たれ、他の戦犯者の3人の辞世の歌の無責任さに
憤る。

   (戦没学生とA級戦犯を「自死」とすることに違和感を持つ人もあるかとは思うが、当時の、また個としての状況を考えるとき、「強いられる死」[斎藤貴男
『強いられる死―自殺者三万人の実相―』]として、私は得心している。

               尚、斎藤氏のこの著作では、教師による生徒への「いじめ」の報告も書かれていて、前回の私の投稿への力となっている。)

    「我々の苦しみを典型的に苦しんでくれた」。この言葉に共感同意し、そこから靖国神社への政府要人の参拝の、権力者の傲慢、無恥を益々もって思い知らされ
ている私がいる。

           意思表示の(すべ)や機会も持ち得ず、また一語だけを残して、否敢えて一切語らず、公歴史に名を留めることなく自死した青年たちは、8人の何百倍、何千倍、否何
万 倍といる。

  そこには、彼ら/彼女らの「生き辛さ」「警鐘」を幾つも見ることだろう。私たちは、改めて謙虚に、しかし貪欲に、それらに耳を傾け、思いを馳せるべきではない
のか。

       そして、そのために必要なこと、それは立ち止まる若者を容認し、何度も機会(チャンス)を持ち得る社会を、にやはり行き着く。

  今日本は、とりわけ『2011,3,11』以降、その時にあると思えてならない。しかし世は、更に一等国へ、金メダルへ、の高所からの大合唱である。円谷 幸吉のことが
鮮 明に過る。】

□『虚無と絶望』所収 「絶望・頽廃・自殺」 埴谷 雄高[哲学者]

    「広島出身の被爆者で、45歳の時、鉄道自殺をした原 民喜の、原爆の惨状を切々と静かに語り掛ける詩の中の、[「助ケテ下サイ」 ト カ細イ 静カナ言葉]
に焦点を合わせ、西洋人の自殺観を述べた後、最後に次のように書く。

    …自殺者を自分自身よりの脱出以外をなす能わざるひたすらの希望者としてのみでなく、また、自殺のみしかなす能わざりし可能的な変革者の列の一方のはしに置くこともできるのである。わが国は、少なくとも、青年の自殺者の出来得るかぎり数多くを生のなかへとりもどさなければならないが、そのためには、主体内部の分析的な姿勢をとりもどすばかりでなく、現在、流血と迫害と死へ向いている眼前の頽廃の基本を、どれほど緩やかな足取りにせよ第一歩と世の側へとりもどし改変してゆくのがその第一歩であると思われる。」

 

 【哲学者小林道憲氏は、その著『二十世紀とは何であったか』で、「文化の頽落」として、西洋近代文明の没落と弊害、そして産業技術文明の矛盾を厳しく指摘
する。

        その時、私は「東アジア」視点の可能性に考えを及ぼすのだが、氏は、東アジア近代史をひもとき、その欺瞞を指弾する。正に我田引水の私を改めて思い知らされる
のだが、「それでも」と私は小声で自問自答を繰り返す。

       氏は、続けて「巨大な物質文明の世界大的拡大の中に、…あらゆる文明が組み込まれ、精神的頽落を起こして、安楽死するかもしれない。」と言い、

「…たとえ文明が滅んでも、大地と大地のもとに生い立つ生命は永遠である。大地と生命の永遠、これのみは信頼しうる。この地上の愚かな人間の文明の営みも、大地のもとに生い立つ生命のように、死と再生を繰り返して、なお永続するのであろう。」と結ぶ。

         地球の滅亡を言わないだけでも救いはある、とも言えなくもないが、「二十世紀の頽落」の表現の凄さにたじろいでしまう。自死に心を向かわせ、選択しようとし
ている若者は、これをどのように直覚するのだろうか。選択した者との連帯を確認するのだろうか。それとも「生の中にとりもどす」ことができる縁となるのだろ
うか。】