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2017年9月8日

2017年・韓国・高校日本語教科書DVD制作―『日韓・アジア教育文化センター』再考と併せ―

井嶋 悠

別のスタッフ・チームと合わせば、6回目の作業で、今回のチームでは中学校教科書(1回)を含め5回目である。スタッフは、映像作家、デザイナー、カメラマン、文筆家と、多士済々の30代4人で(男性)。

【参考】
この投稿先の『日韓・アジア教育文化センター』ブログに係って、HPでの映像関連での上記スタッフの献身を二つ紹介する。

○2006年上海での「第3回日韓・アジア教育国際会議」(特別講師:池(ち) 明観(みょんがん)先生)の参加高校生を主人公にしたドキュメンタリー映画『東アジアからの青い漣』の制作
○このドキュメンタリー映画を含むHP全体の制作

彼らと出会ってかれこれ10年近くなる。この幸いが得られたのは、私の最後の勤務校(日本の私学校とインターナショナルスクールとの日本初めての協働校)の一方であるインター校の卒業生(男性)が縁(えにし)となっている。その出会いは、彼が中学3年生時で、その後の、高校2・3年次での「国際バカロレア:日本語」上級(ハイアーレベル)クラスである。

韓国の教科書は、大統領が交代する度に新版が作られるそうだが、外国語入門もしくは初級の性質上、その構成・展開の根幹はあまり変わらない。それは、1年間の女子生徒一名の、日本への1年間の留学。ホームステイとの設定もほぼ踏襲している。(なぜ女子生徒?については今は措く)
そこから撮影場面も、学校・ホストファミリイ家庭・東京都内を主としている。
今回も同様で、ただ「Ⅰ(基礎)」「Ⅱ(初級)」の2種類制作は初めてのことであった。
制作(撮影)の引き受け決定までの難事は大きく二つで、これもいつものことである。

一つは、撮影協力学校探し。
一つは、制作費。

前者は、とりわけなぜか中学校がより難しい。幾つかの、幾人かの縁故(つて)を頼りに打診するのだが、私の教職活動が関西であったこともあって綱渡り的になる。且つ学校事情もあって[例えば、これはなぜか公立校に多いのだが(とは言え、私立も大同小異ではあるが)、「趣旨は理解できるが、一部保護者の韓国感情があって難しい」「本校生徒を外に出したくない(その理由は、品行方正面が多い)」等]、学校内に私と意思疎通のとれる人がいなければ、門前払いとなる。
現に、今回、中学校の教科書についても依頼があったが、協力校が得られず、私の非力と同時に諸々の限界をより実感することともなった。
(この中学校版については、出版社でアニメ版を作成する由。考えようによっては、その方がよかったのかもしれないと勝手に思っている。)
後に触れることに重なるが、いずれにせよ、決まると出演生徒たちは実に活き活きと撮影を楽しむ。

後者は、私たちが交流をはじめて20年、経済格差の問題は今もって大きな変動はなく、レートは1:10で、しかも首都圏の物価等は年々高騰している。当然、韓国の出版社予算は、少なくとも日本国内での低予算標準の半分くらいである。それでもできるのは、上記スタッフの趣旨の理解と心意気的献身以外何ものでもなく、彼らのその情と気概なくしては実現しない。
それは、教科書執筆責任者(編成は、概ね韓国人日本語教師数名と日本人日本語教師《大学教師》で、責任者は韓国人教師である)が、私たちセンターの仲間で、人格秀でた人物であることも一つの要因になっているかとも思う。

撮影時期は、教科書検定委員会提出等、教育部〈文部科学省〉関係からの日程制限や執筆者の校務日程、更には出版社事情もあって、今まで冬期(1月2月)だったのだが、今回は、最初の協力候補校の辞退もあって夏に行なうこととなり、8月22日から24日の3日間行った。
この日数も予算と関係していて、監督等、事前の撮影場所・内容の相談、依頼等、緻密な準備があってのことで、当日は分刻み的に撮影が行われる。
いつもなら執筆者から一人、撮影現場に同行するのだが、上記事情から参加叶わず、当初教科書出版社編集部から一人参加したい旨の案の提示も社内事情で不可となり、私たちスタッフに一任される初めての形となった。
スタッフ彼らのこれまでの実績が評価されての信頼であり、私たちにとっては大変名誉なこととなる。

今回、連日の猛暑日の中、撮影ができたのは、以下の方々の理解と協力の賜物である。(因みに、この方々の謝礼も予算上から、ほぼ実費だけである。)

○神奈川県立D高校の、演劇部顧問のお二人の先生(内一人は、30年ほど前に、大阪で行われた日韓の研究会でお会いした、交流に確かな足跡を残されている先生で、私を覚えて下さっていたことが後に分かる)をはじめとする諸先生方、

○演劇部の、またサッカー部、軽音楽部の、生徒たち、保護者会役員、演劇部OGで現役の女優、

○川崎市内と東京浅草の食堂

生徒彼ら彼女らの、カメラを前にしての監督の指示への心と眼差しの爽やかさ。そこから生み出される「演技」は正にすばらしく、教員(複数)から聞いた「ここの生徒たちはほめられた経験がない」との言葉が、なおのこと心にずしりと刻まれる。

或る出演生徒(高校3年生の女子)との会話で、「進路が決まらなく迷っている」と聞き、少子化と超高齢化時代の日本にあっての学校世界変革私感を思い出しながら「僕の教師経験では、既に進路や将来の目標が明確に決めている人は少ないと思う」と応えた時、彼女がちょっとばかり安堵した表情を見せたこともあった。

インターネットを含め一部雑誌等マスコミでの、「嫌韓」「反韓」の罵詈雑言が乱れ飛んでいる。その時、この作業と成果が、そういった現状に首をかしげる私や他の人々に何か訴えるものとなれば、あの過酷な日々も少しは癒されるかと思う。
以前、インターネット上で、「売国奴団体」と指摘される一覧表を見、そこに『日韓・アジア教育文化センター』も含まれていた。本センターのホームページなど見ることもなく単に名称からだけで出したものであろう。
私たち日韓中の共通言語は[日本語]で、そこを基にした結果と成果で、その視点で言えば、私たちの郷土愛、祖国(母国)愛批評があっても良いのではないかと思う。と同時に、韓国・中国の仲間たちの立場に思い及ぶ。

北関東のこの地に移り住んで10年が経つ。私の体にこの地の自然風土が染み入って来ているのだろう。撮影の3日間の東京生活は、加齢と抱えている病を実感することになった。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」。その「健全なる」は精神と肉体で意味は同じなのだろうか。「病的とは健全な状態の極限状態」とか「不健全なものの健全性」といった、識者の言葉が思い出されたりするが、理解と認識が不十分にもかかわらずその識者の言葉に直覚した私は遠くにあって、今、日々心頭硬化する私を直覚している。
そして、
中原 中也(1907年~1937年)の、私の好きな詩『頑是ない私』の、[思えば遠く来たもんだ]と感傷に耽りながらも、
[さりとて生きてゆく限り  結局我(が)ン張(ば)る僕の性質(さが)  と思えばなんだか我(われ)ながら  いたわしいよなものですよ  考えてみればそれはまあ  結局我ン張るのだとして 昔恋しい時もあり そして  どうにかやってはゆくのでしょう  考えてみれば簡単だ 畢竟意志(ひっきょういし)の問題だ  なんとかやるより仕方もない  やりさえすればよいのだと]を、
私と日韓・アジア教育文化センターに、日韓中のまた映像制作での若者たちへの無礼に心咎めながら、恣意的につなげている。

撮影の初日、8月22日、私の最後の勤務校(1991年開校)の初代校長で、温厚篤実そのままのキリスト教徒であった、藤澤 皖先生が、天上に旅立たれた。
また私の最初の勤務校は、明治時代にアメリカの女性宣教師によって創設されたミッションスクールであった。
『新約聖書』[ルカによる福音書]に、「自身を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」との、受洗の有無とは関係なく、多くの人が知る言葉がある。 そして韓国は、約3割がキリスト教徒で(約2割が仏教徒)、アジアではフィリピンについで2番目のキリスト教国家である。
私はキリスト教徒ではないが、非でも反でもない。「隣人愛」の難しさを、広くいろいろな場面で痛感して来た一人として、『日韓・アジア教育文化センター』の歴史と存在に、もう一度ゼロから眼を向けることの意義を、無責任とは言え、ふと思い到る、そんな日本語教科書DVD制作の、2017年の夏だった。