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2017年9月18日

2017年秋を迎えて ―身辺幾つかからの寸感―

井嶋 悠

幼な子の髪そのままに愛らしく五月の微風(そよかぜ)に身を任せていた早苗は、今、畦道に咲く真紅の彼岸花から、あたかも早乙女のすっと背を伸ばし誇るかのような祝福を受け、田を黄金色に染めている。北関東、栃木県北部の地。広がる黄金色畑の先に御用邸がある。

時間は非情に、無慈悲に過ぎて行く。自然の、季節の異変、不順を、私たちに厳しく警鐘を突きつけて。
日本社会は途方もない岐路に立っている、と元中高校教師の私は思う。
「上昇は勤勉で為し得る。しかし下降は、意図的下降は並々ならぬ覚悟が求められる。」(私は駅の階段で実感し、降りるときは必ず手すりの世話になる。)
日本は、太平洋戦争敗北にもかかわらず、今や世界の大国で、それを自負に、朝鮮半島南北戦争、ベトナム戦争、イラク戦争等の米軍あっての「戦争特需」のことはあまり語らず、意気揚々、外交に、「国際社会」に存在感を誇示している。国内の貧困、差別の「哀しみ・寂しさ」、多くの若者の苦悶と不安など他所(よそ)の国のことのように。かの「おもてなし」が象徴する虚飾浅薄国家の様相については以前投稿した。

現首相は「働き方改革」と称して得意満面だが、先人の血と汗の結晶「経済大国」は更に上昇するのだろうか。「改革による経済変化について、あなたはどのような裏付けをお持ちなのですか」と、防衛問題で戦場の先頭に立つのは誰なのですか、あなたが立つのですか、との同じ憤りの疑問を持つ。
いずれ退任することを前提とした、あまりの無責任さと言えないか。無常と言うには低次元過ぎる。
天皇ご夫妻、皇太子ご夫妻、そして愛子様は、収穫の今をどのような心模様を描かれているのだろうか。
知人の女性の、今夏、皇太子ご一家が那須塩原駅に着かれ時の二つの話しが、私の心から離れない。

一つは、いつもお迎えに行っている人を覚えていて会話をされる由。微笑みの後ろに在る途方もない心労。

一つは、知人の女性が「愛子様はいかがですか」と聞いた時の、皇太子妃(私の感覚では“雅子様”)が愛子様のお腹をポンと叩かれてにこやかに「この通り大丈夫ですよ」と言われた由。雅子様の人柄溢れる姿。

[ご婚姻前の雅子様の、伸びやかな表情で台所に立たれていたあの写真の表情はどこに行ったのだろう。病との闘いはご本人に帰するということなのだろうか。美智子妃は美智子妃であって雅子妃ではない。時代も、人々の思いも大きく変わっている。

どうして皇室は、閉鎖的との意味で過保護なのだろう?「開かれた皇室」の虚しい響き。昭和天皇の「人間宣言」とは何だったのだろう。次期皇后様として、豊かな才能と感性を活かして、新天皇陛下と二人三脚、人と人の真の友愛外交の華を咲かされることを希うばかりである。愛子様の才能の一層の開花のためにも。]

1946年(敗戦の翌年)11月3日に公布された「日本国憲法」の第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とある。
政治的に利用する輩(やから)や今もって“現人神”として隷従するかのような眼差しではなく、「象徴」の私の意味を 折に触れ反芻的に確認している。
因みに、[前文]に次の一文がある。
「国際」の意味、現状の確認もなく、「国際社会」と言えば黄門様の印籠かのような現代、一層吟味、再考の時ではないかと重ねて思う。

『われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。』

大相撲は日本が誇る美の文化である。モンゴルや韓国にも同系のものがあるが、様式や身体[力士や呼び出し。行司]が館内を美の小宇宙と化するのは日本だけである。
その9月場所の今、横綱3力士、大関2力士、幕内4力士の、少なくとも幕内で9力士が欠場している。異常だ。
若手には千載一遇のチャンスだとか、稽古・トレーニング方法の再検討等々、あれこれかまびすしい。
大相撲は国技で、取り組み場所の東京・両国は国技館である。と言うことは、力士や行司、呼び出しは国の宝、有形文化財ではないのか。しかし、相撲協会なる元締め機関は、彼らを酷使利用して営業収益を上げることに、もっともらしい口実を挙げ、血眼になり、今もって精神論・根性論をぶっている。
私からすれば、力士たちの無言の叫びがついに爆発した九月場所、と確信的に思っている。

国が経済最優先、カネ・モノがあってこその幸い、と言わんばかりにそのためには少々の犠牲はやむを得ない、外国人労働者の使い捨て的心情等々、浅ましさが見え隠れするのだが、首相は「働き方改革」を絶対善として言う。経済に疎い私の無知な疑問なのだろうが、それでも無茶苦茶の矛盾としか思えない。

「一年を二十日で暮らすいい男」とは言わないが、やはり以前投稿した一部を記す。
どうして春夏秋冬四場所に戻さないのか。
どうして地方巡業はあれほどに過密でなくてはいけないのか。
どうしてあれほどに入場料金が高いのか。
どうして国(立法府の議員たち)は、世界に誇る国技にもっと補助金施策を展開しないのか。そのことに税金が使われることに反対する人々は、少数だと思う。もちろん国民の多くが憤る税金の、あたかも私有財産感覚での使用をなくしてのこととして。

現代は「母性」を求めている。「父性」ではない。
母性=女性といった既成にとらわれることなく、すべての人に、とりわけ男性に、己が中に在る母性と父性を問うて欲しい。そして、その延長上に「大国」「大人(たいじん)」の実と虚が視えて来ると思っている。
仏教学者の鈴木大拙(1870~1966)の『東洋的な見方』ではしきりに母性が採り上げられている。また併せて「妙」(たえ・みょう)について述べる。この漢字、女偏である。
西洋はマリア様だが、東洋更には日本では観音様で、その観音様は今では男性でもなく女性でもなく、性を超えた菩薩として私たちは親愛と信愛の情を寄せている。

これらについては、以前から心に懸っていたことで、今夏の体験(前回の投稿)もあって、私感をまとめたく、限られた資料ではあるが覗き始めている。あくまでも中高校一教師であったことを忘れずに。