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2013年11月24日

「自死」の重さ 再考 ―併せて自死観に見る現代日本(日本人)の酷薄と軽薄― その4(或いは一つの終わりとして) 「自死に対する現代日本を象徴する発言」について

井嶋 悠

インターネットで偶々見た、自死に関する意見(匿名)で「ベスト アンサー」(!:言うまでもなく、これは掲載団体機関或いは個人の価値観でのベストではあるが)として紹介されていた日本人の発言を採り上げ、最終回の入り口とする。

その類は、インターネット社会の負の側面として、相手にするに値しないものではあるが、海外帰国子女教育や外国人子女教育に関わって来た元教師としての自省からも、いかにも日本(日本人)の酷薄と軽薄を痛感したので採り上げることにした。

酷 薄

□「自殺する人間は自業自得である。」

 「3万人と言うが、総人口1億3千万からすれば物の数ではない。」(要旨)

 これを投稿した人物は、世界10数か国・地域に在留し、経済大国日本へ牽引して来た一人であることを記し、またその自負が、行間に溢れる男性(文の調子から男性と考えられる。)である。

 この人物からすれば、自死は、自身の行いを罪(罪名は、怠惰?無能力?非国民?…)と認め、その報いとして自身が自身に死刑罰を宣告し、処刑したということになる。したがってそれは、「殺人行為」であり、例えばアメリカのアラバマ州、オクラホマ州では犯罪とされているそうだが、自死者は法で裁かれなければならないことになる。

日本の自殺統計が、警察庁からも出されていることに得心できるわけだ。

そしてその数が、年間3万人なのだが、しかし、それがどうした、たかだか0,0002%ではないか、という次第である。

 この人物は、ユダヤ教徒かカソリック教徒かイスラム教徒なのだろうか。

文章にはそれは出て来ないので、要はいっとき風靡した言葉「勝ち組」意識の、人間至上信仰者での自己絶対者としか考えられない。

このような人物があってこそ、日本は敗戦後50年にして経済大国に成り得たということなのだろう。

それは、戦後、アメリカの後ろ盾の中、朝鮮戦争、ベトナム戦争の他国戦争での特需(戦争特需)を、漁夫の利?で得、それを有効活用できるスマートな(賢い!)人たち[理性的人々、合理主義者たち]の働きがあっての現在、ということになるのだろう。

だからこそ、例えば沖縄問題についても、「思いやり予算」、また基地はアジアの安定と平和のためには沖縄しか考えられず、それらは悲惨な地上戦の敵国であるアメリカへの“恩返し”の一環であって、追従ではなく義理と人情の国日本としては至極当然な道義ということなのかもしれない。

 このような人々が、“エリート”として在ったからこそ、更に言えば明治維新以降、約140年の歴史と近代化についての真摯な自省と自己批判がなかったからこそ、歪みが顕在化しているのではないか。

 そして、今、文明は、進歩は、人が人を道具として使い捨ててこそ得られるものであるという、そんな非情冷酷が日常化しつつある日本に、一部の?人々はあわてふためいているのではないか。

「ヒューマニズム」は、そういった文脈でも使われるのだろうか。一つの人間中心主義?

 西洋世界は、一世紀前に猛省したことになっているが、どうなのだろうか。

 海外帰国子女教育から、外国人子女教育から、多くの啓発、ただし日本=劣等、欧米=優秀との俗悪正義ではなく、を受けた一人としての自照自省と重なる。

 その一例として、

海外帰国子女教育での、欧米、それも英語(圏)優先、そこからの上位指向での生徒・保護者の屈折。

外国人子女教育での、欧米(英語圏)発想からの富裕層=“エリート”階層との屈折した差別意識。

 (在日韓国朝鮮人、中国人問題や主にアジアからのニューカマーの問題、更には国際結婚子女子弟の問題等、国際社会のリーダー性を言う日本にとって非常に困難な課題があるが、ここでは敢えて上記に限定した。)

 宗教の時代だ、と言われている。

私の周りにも、生の重みから写経にいそしむ人や新興宗教に帰依している、或いはしそうになった人々がいる。

それに心のどこかで合点する私がいるが、先にも書いたように一部新興宗教を除いたすべての宗教を容認するという意味での「無宗教」の、しかし唯一絶対神宗教に距離を置く私は、或る危険を思っている。

そのこととつながるのが、次の投稿である。

軽 薄

 二つの発言を採り上げる。

 いずれも、海外(欧米のキリスト教圏と思われる)在留経験を持つ女性(母親?)のものである。

1、「キリスト教では自殺は禁止されている」

  これは、信仰の有無とは関係なく、しばしば接する文言である。

  19世紀のドイツの哲学者で、生き辛い世界観[厭世観]を克服することとして芸術的解脱(とりわけ音楽)と倫理的離脱(最良の宗教として仏教)を言ったショーペン
ハウエル
は、その著『自殺について』の冒頭で次のように述べている。

    ―私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者達だけである。ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する
何ら禁令も、否それを決定的に否認するよう何らの言葉さえも見出されえないのであるから、いよいよもってこれは奇怪である―。

  そして、神学者や僧侶を難じ、古代ギリシャの哲学者の生と神と自死容認の言葉を引用する。また、こんなことも言っている。なるほど私は思う。

    ―…(殺人と自死を較べ)前者の場合、なまなましい憤激やこの上もない腹立たしさを覚え、処罰や復讐の念に駆られたりするのであるが、後者の場合に呼び覚
まされるものは哀愁と同情である。……自発的にこの世から去っていったような知人や友人や親戚をもっていない人がいるだろうか―。

 

 確かに、西洋キリスト教圏での歴史にあって、自死に関して古来信仰者であり哲学者である人々の間でも、否認容認があり、またイギリスでは強い否認姿勢が最近まであったようだが、それは唯一絶対神の宗教キリスト教の経典である聖書理解の違いであって、キリスト教の否認容認云々とは違うのではないか。

だからこそ、ショーペンハウエルの言葉は、無宗教の私に説得力を持つし、自死を否認する哲学者の言葉は、信仰者としての理解のあり方の一つであると思う。

  因みに、手元にある『聖書辞典』(新教出版社)に「自殺」の項はない。

  先の発言者の女性は、自身の信仰の有無、またどういう考えに立っての発言なのか、明確にすべきで、でなければ、明治近代化以降しばしば見られる西洋社会への妄信的崇拝者、と見られてもやむを得ないのではないか。

そうでないならば、アメリカでのWASP[White Anglo-Saxon Protestant]を中心とした、インディアン虐殺や黒人差別を問われた時、この人はどのように応えるのであろうか。

  アイデンティティという言葉が、昨今しきりに使われる。

 その時、日本のアイデンティティとは何なのだろう?とつい考えるのは私だけなのだろうか。

 宗教は、生と死と自己に真摯に向き合うとき、自然と心に湧き上がる、その人の理性と知性と感性を総動員しての救いを探そうとする思考であり実践であると思う。

  その一つ、苦界の生から浄土を求め、往生に思い馳せる仏教は、キリスト教やイスラム教とは違う柔和さ、中庸を思い描かせる。

 仏の慈悲は神の慈愛であり、祈りの根底にあることに違いはないはずで、仏教史で、例えば武士道との重なりから自死を名誉とする考えは今もあるが、だからといって
仏教が、自死を容認する宗教とは言えないことは、先のキリスト教と同じであろう。

  以前、出会ったアメリカからの帰国生徒が、恥ずかしげに言っていた在留日本人母親たちの会話を思い出す。

 「アメリカまで来てアジア人とはつき合いたくはないわね。」

 今はどうなのだろう?

2.アメリカ在留中、アメリカ人カウンセラーからの「発展途上国(未開地)の現地人にとっては、自殺は考えられません。」に、衝撃を受けた女性。

  短い文なので真意は或る程度推察するしかないのだが、当時のこの女性の精神状態と日本の自殺に係る投稿との前提を考えれば、文明人の贅沢な悩みの傲慢さを思い知
らされ、日本人の一人として自責の念に駆られた、ということなのだろう。

  一見、得心できそうな言葉ではあるが、古来、未開人の自死は報告されていることを思えば、このアメリカ人カウンセラーは、自身を文明人と位置づけた、憐憫からの同情による偏見の持ち主であるように思え、そこに同調したこの女性には、アメリカは先進、成熟した文明国であるとの意識が無意識化しているように思えるのだが、どうなのだろうか。

  この日本の欧米視点に関して、考えさせられる例を一つ挙げ、この項を終えたい。

 それは、最近、素晴らしい教育実践国として採り上げられることの多いプロテスタント系キリスト教国フィンランドの場合である。

 曰く、

  「国際学力比較[PISA]」での上位での安定度」 「国の『教育こそが国家の貴重な資産』との姿勢からの学校教育への物心両面の支援」
「優秀な教師養成と教師へのゆとりへの対応」 「落ちこぼれのいない学校」 「少人数クラス」 「読書環境への対応」
「大学進学率が68%で、入学者の4分の1が25歳以上の成人」
そして「国際経済競争力5年連続世界1位」 「国民の幸福度、教育レベル、福祉でのトップランクの国」………、とそれぞれのすばらしさ・賞讃の連続。

 しかし、

 20世紀、自殺率が世界で最も高い国の内の一つであったフィンランド。

 そして1986年からの自殺予防国家ロジェクトを積み重ね、2012年、人口10万人での自殺率は、19,3で、第14位となった国。

 (因みに、日本が24,4で第8位、韓国が31,0で第2位、ハンガリーが7位、ベルギーが13位、スイスが17位である。)

  国の歴史、風土、社会様相等の違いから、安易に比較はできないかとは思うが、社会様相・事情の反映としての教育(学校教育、家庭教育、社会教育等)との考えに立てば、フィンランドの「国家プロジェクト」の背景にある考え方、視点に日本が学ぶべきことがあるのではないだろうか。確認したいと思う。

  国際化が加速する今日、日本がどのようにあろうとするのかを考え、「自殺(自死)大国」の汚名返上のために。

【参考】国際比較

  ◇平均寿命(男女平均)[WHO 統計 2013年]

    1位  日本 83歳       17位 フィンランド・韓国       81歳

  ◇GDP(国内総生産)[IMF統計]

    13位 フィンランド (48,783ドル]  17位 日本 [45,870ドル]         34位 韓国  [22,424ドル]