発話 「東アジアと私たちの心の基層と現代を考える意義」(井嶋 悠)の記録
レジメ
一日本人、一国語〈日本語〉元教師の私が
「東アジアの心の基層と現代」を考えることの背景
―文化と文明と現代を考える縁として―
井嶋 悠
(日韓・アジア教育文化センター代表)
1 私について、或いは私の三つの視点 ―私の具体からの私の抽象へ―
@
日本語教育に示唆を受けた元中学校・高校の国語科教師としての私
「教育」を考える時の私の立脚点としての元中学校・高校の国語科教師
[注:国語(科)教育の二つの要素としてある、言語教育と文学教育、と私]
「言葉」:国語科教師であったことから得た言葉観
「対話」(他者との、自身との)としての言葉
・自身の歴史が育む言葉の力 《表現》
・それを直覚(直感)する想像力 《理解》)
そこに共通してある個の「歴史」
A 現代日本社会・学校教育に疑問を持つ、1945年生まれの日本人で、非政治的な私
その私に示唆を与えた二人の人物 ―今回の主題とも関連して―
夏目 漱石〈明治時代〉
「内発」「外発」 [『現代日本の開化』1911年]
「個人主義」 [『私の個人主義』1914年]
鈴木 大拙〈昭和時代・戦後〉
「直覚―感性」
「日本的霊性」 [『東洋的な見方』(岩波文庫)]
【参考】私の教育に係る言葉の源泉
○三つの私学での教育(教師)体験とそこでの私の学び (*印 私が得た学び)
・アメリカ人宣教師によって明治時代に創設された女子中高校大学校
*キリスト教と学校教育また女子教育
・国際都市神戸で“国際”の体現を目指して創設された私学中高校
*私学運営、或いは理想と現実
・日本で最初の「インターナショナルスクール」との合同中高校
*西洋人(欧米人)文化
[イギリス人文化・アメリカ人文化・オーストラリア人文化等]
(参考:小泉 八雲〈ラフカディオ・ハーン〉)
○帰国子女教育での学び
帰国子女の特性 (『国際理解教育事典』より要約引用)
・言語能力(外国語能力)
・積極的、自主的な授業態度
・ものの見方、発想での独自性、創造性
・自立、自助の精神の旺盛さ、リーダーシップ
・国際感覚の豊かさ、複眼的思考力
と日本の教育と私
[参考:私見としての二つの疑問]
☆エリート教育としてとらえる海外帰国子女教育への疑問
☆欧米の教育観と海外帰国子女教育への日本人性からの疑問
○日本の学校教育現状と私見
・高校へほぼ100%進学 ⇔ 「高校の義務教育化」
・大学への進学率が50%を超える ⇔ 「大学の大衆化」
↓↑
・長寿化
・「18歳人生決定観」(←「6・3・3」制)
・「階層社会」再生産と学校 (備考:私立学校)
・「新しい学力観」と国語学力
(備考:国語学力での「学力低下論」への疑問)
上記@Aの集積としての、
B 地球人⇔東洋人⇔アジア人⇔東アジア人⇔日本人、との感覚の私
[備考]
○私の「国際人」像 →[国と国・地域と地域の「際」に生きる人]
※「際」と言う語の持つ意味
際で生きることの意志の厳しさ
→帰国子女教育・外国人子女教育
○「ナショナリズム」という言葉の日本での偏り、或いは私と国[日本]について
※「nation」:国家・民族
愛国心「patriotism」
2 東アジアの“個の生き方”としての思想《哲学・生き方》
―二つの“そうぞうりょく”[想像力・創造力]のために―
×宗教
×政治思想(王道)
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。」
(夏目 漱石『草枕』)
それを考えるためのキーワードの確認
生きること、生活する基盤⇔心・精神 [道徳・道義・倫理]
人間(個と個の間)⇔時代・社会
個人と社会 [参考:個人主義と社会主義 ・ エゴとエゴイズム]
自力と他力・自立・自由・自然 ←「自:おのずから・みずから」の持つ意味
「自然に帰れ」(J.J.ルソー〈18世紀・フランス〉)
「天」の発想・視点 [×唯一絶対神の発想・視点]
※「唯一絶対神」という言葉が持つ意味・大きさ
文化〈culture〉・文明〈civilization〉についての考え方そして進歩また共生について
[参考:culture:地を耕す (→agriculture)
→個の内(心)を耕す→社会の内(心)を耕す
civilization:都市化する→洗練される→進歩・発達する→文明]
そのための必要不可欠なこと
静寂な時間 そして現代 [忙:心が亡くなる時代としての現代」
→ 二つの“そうぞうりょく”[想像力・創造力]と教育
それらを提示する東洋の遺産・具体的思想また東洋再考として 〈文例は別紙〉
・仏教 ×唯一絶対神を根底に置くキリスト教・イスラム教
「慈悲」その偉大性
「無常」その積極性
中庸(中道・辞譲)性が持つ現代的意義
非社会性・非政治性
[参考:自力を主眼とする禅と日本]
・道教〈老荘思想〉
生と死 ⇔ 無常 ⇔ 永遠 その意志性、積極性 ⇔ 個を見つめる
×諦念性、消極性
×脱俗・隠遁・出家、或いは逃避
無=ゼロ、その意味 ⇔ サイト名「ゼロ」 http://jk-asia.net/0/zero.htm
ゼロの意味 [正でも負でもない数・存在、Aの0乗が1、という不思議]
無為・無知・無欲・無私・無用・無心・無言・無事・・・と
無為の為・無知の知・無欲の欲・・・・・・[無にして有。有にして無]
自然性[直感(直覚)性・韻文性]
形而上学性(形而上学:ものの本質、原理を思索や直観(直覚)から考える)
と中国の、中国人の現実主義性 [参考:日本人の具体的指向性]
[参考] 修業(修行)と禅
・儒教〈孔孟思想〉
「仁愛(慈愛)」
[家]親子・兄弟姉妹 ⇔ 地域・国、の最前提としての「個」
→社会性[理知性・散文性] →政治性・体制性
・諸子百家
墨子「兼愛交利」(博愛の発想) [キリスト教]
荀子「性悪説」(悪=人間の欲望)〉 [×性善説]
と
日本
・「八百万の神」の国日本 ⇔ 「神道」「自然神道」(×国家神道)
【注:「神話」[『古事記』と『日本書紀』《8世紀》 ―文学書と歴史書―]
・「自然」という言葉或いは日本人の「自然と人間」観
・アニミズム[animism・精霊信仰]
・「和魂漢才」「和魂洋才」 「士魂商才」
【備考】
西洋文化[ヘレニズム「ギリシャ文化」
ヘブライズム「キリスト教文化」]
と国際化
3 私の韓国感・中国感 〈注:「感」と「観」〉
@韓国感
○その日本との相似性 → 身近な存在 →「甘え」のプラスとマイナス
○中国からの中継点的印象と韓国朝鮮への日本人の眼と歴史
[例:日本の学校での古典学習 「朝鮮古典」と「漢文」]
○両班(文班・武班)文化と日本 【参考】『チョゴリと鎧』池 明観
↓
中高校の国語(科)教科書での、韓国古典・近現代文学の採用を。
←下記「中国感」と次項4
A中国感
○中国古典世界と近現代中国(魯迅、孫文、毛沢東)と日本での紹介
○中国の地理的、民族的、歴史的、文化的広大・複雑・多様からの不統一感、或いは
「中国とは?」の一層の難しさ ×ステレオタイプ〈紋切り型〉
[例:上海と香港と北京
:文化大革命と現在と「孔子復活」と中国の変革史と日本
4 私、及び日韓・アジア教育文化センターへの期待
@学校教育〈私の場合、国語科教育を基にしての考え方〉
A今後の交流
↑
世界の動き ←日本の再考の動き ←「東日本震災」と「原発事故」
[備考
・「方丈記」(1212年・鴨 長明)〈別紙参照〉
・西洋(欧米)の自省〔2006年・上海・池 明観氏〕
・震災後の自殺者の増加
スケッチ
私がこの任でないことは、私が最もよく知っています。
そんな思いがあって「講話」でも「発題」でもない、語調の柔らかな「発話」としました。
そこまでして、でしゃばることにしました理由は三つです。
一つは、体験から得た私の言葉が、若い人たちに考えるきっかけとなればとの願い。
一つは、このような機会は最初にして最後ではないかとの思い。
一つは、謝礼が要らないこと。(今回、或る韓国人の方の、一個人支援でできました)
レジメや別資料が途方もない量となっていますのは、伝えたい願望と若い人の後日の“読み物”にとの願望から意図的にそうしました。
しかしあれもこれもは焦点定まらず、「過ぎたるは及ばざるが如し」で、やはりそうなりました。
ここでは文責者の特権濫用そのままに、独断的別資料を先にレジメはその補助機能にした発想に事前に到らなかったことを悔やみつつ当日の拙話を整理します。
そもそも私は感覚人間(別の言い方をすればその場その場の思いつき人間?)で論理性が乏しく、それを培うことから逃避する怠け者で、そんな人間が、縁あって中高校の国語科教師になったのですが、当然破綻を来たすと言いますか、壁にぶつかりました。
教師になって10年くらい経った頃でしょうか。
それを気づかせてくれましたのは生徒たちです。「教師は生徒が創る」です。とりわけ海外帰国生徒であり、外国人留学生でした。それが日本語教育に魅かれたきっかけです。
その時私の心をとらえました言葉が、或る日本語・国語学者の「国語教育は畢竟ことばの教育である。」でした。 【それが、レジメの1の@です】
そこからが、知る人ぞ知る波乱万丈!?の人生なのですが、その歩行中の次の10年後の頃、
鈴木大拙の『東洋的な見方』と出会い、そして教師生活最後の10年の、インターナショナルスクールとの協働校勤務での体験が、日本文化・日本語から日本を、日本人である私を、一層考えさせることになりました。
それらに通底するキーワードが、夏目漱石の「内発と外発」であり「個人主義」で、それは私の「国際人」定義ともつながっています。 【これが、レジメの1のABです】
とは言え、私は非政治的人間で、世にはすべては政治につながるとまで言う人もいますが、あくまでも個あっての政治であり、社会(世界)すべては個から始まる、との考えで、その私の源は感覚人間なわけです。
それが次の引用につながっています。
《鈴木大拙》より
「この有限の世界に居て、無限を見るだけの創造的想像力を持つようにしなくてはならぬ。この種の想像力を、自分は、詩といって居る。この詩がなくては、散文的きわまるこの生活を、人間として送ることは不可能だ。」
《夏目漱石》より、『草枕』の冒頭。
そしてそれが、「自力と他力」とのキーワードや「静寂な時間と忙しい」と結びつき、東洋思想
として在る、日韓・アジア教育文化センターの新サイト『ゼロ』命名の由来でもある、ゼロの意
味・不思議・神秘へとつながっています。 【これが、レジメの2です】
で、ほぼ持ち時間が過ぎ、休憩後若干の質疑応答の中で以下を伝えました。
・中高校国語教育での、中国と韓国朝鮮の扱いのあまりの不均衡の是正の願い
・『方丈記』での京都大震災とその後の人々の忘却について
【これが、レジメの3です】
このような次第で、別紙資料の仏教・道教・儒教・諸子百家からの引用で触れたのは、儒教の
「剛毅木訥は仁に近し」くらいでした・・・。
別資料(元資料は縦書き)
別紙 東洋思想の具体例〜一九四五年生まれの私の体験と自省から実感する言葉〜
―組織論・国家論・政治論・社会論ではなく個々の人間論として―
仏教
☆
個の生き方
・『他縁大乗心』(他を救い自他の完成に向かう)
「生けるものに対して平等に慈しみの心を起こすから、いわゆる大悲の心が起こる。」
□ 或る大学院のイノベーション学科教授の言葉
「人のために尽くすこと。それがイノベーションである。」
・「嘘・偽りの心や、人にこびへつらって虚偽を真実らしく見せる心がない。和らいだ笑顔をし、愛情のこもった優しい言葉を交わす〈和顔愛語〉。そして、相手の心を先に知って、その願いを満たしてあげる。」
□ 以心伝心。想像力。(日本の)言葉観「言霊」
・「ただ外に向かって求めることをやめて、必ず自己に向かって本心を求めるべきである。試みに諸君が、しばらく自己の心を東西に散乱させず、眼を前後にめぐらさずに、くわしく観察していくならば、その時、何を指して〈われ〉と呼び、何を指して〈かれ〉と呼ぼうか。すでに自・他の対立のなくなったことを見るであろう。だから、進んで何を善といい、何を悪だということができようか。」
□
相対と絶対。共生と自己。
・「過ぎたことを嘆かず、これから先のことを望まない。わたしは現在に生きるのだから、顔立ちは生き生きとしている。」
□ 生々流転。無常。
・「真実を離れて、別にわれわれの生活の場があるのではない。その場その場が真実なのである。どうして、真実を悟る道が遠くにあるといえようか。それぞれのことがらをありのままに知るところに真実がある。」
・「日常生活の中で働いているあたりまえの心が〈道〉である。[平常心是道]」
□ 青年と非日常。老年と日常。
☆
「知恵・智恵・智慧」
・「〈存在のありのままの相〉、これを[智慧]という。」
・「智慧はその本質として、知識を超えたものであるから、無知というべきものである。無知といっても、知に対しての無知ということではない。」
・「知っているところがあれば、必ず知らないところがある。だが、道を悟った聖者の心は、相対的な知識を超えた、無知の知であるから、知らないものは何一つない。」
◇『般若心経』(三蔵法師 玄奘訳・七世紀・「大唐西域記」:「西遊記」明時代・十四世紀)
【般若:あらゆることの本質を把握し、仏法の真実の姿を知る知性の働き】
・色即是空 (形あるものはそのままで実体がないものである)
空即是色 (実体がないものがそのまま形あるものである)
是諸法空想 (この世のあらゆるもの〈存在〉・こと〈現象〉には実体がない)
不生不滅 (生じたこともなく、したがって滅したということもない)
・
・
般若波羅蜜多 (波羅蜜:悟り〈此岸を脱し、彼岸に達する〉(知恵の完成)
道教[老子『老子』]
☆
自身への凝視[内省の視点・個〈自身〉から他者〈社会〉へ]
・「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富む。」
(他人のことがよく分かるのは知恵の働きであるが、自分で自分のことがよく分かるのは、さらにすぐれた明智である。他人にうち勝つのは力があるからだが、自分で自分にうち勝つのは、ほんとうの強さである。満足することを知るの、ほんとうの豊かさである。)
□ 「汝、自身を知れ。」
・「希(稀)言は自然なり。」
(言葉少ない姿こそ自然なありかたである。
聞きとれない無声のことば―不言―こそが、自然なありかたである。)
□
以心伝心。「沈黙は金、雄弁は銀」。不言実行。
言霊。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。」
・「知る者は言わず、言う者は知らず。」
(ほんとうに分かっている人は、しゃべらない。よくしゃべる人は、分かってはいない。)
□ 和光同塵(すべては光と和し、すべての塵と一つになる。)
・「知りて知らずとするは上なり。」
(自分でよくわかっていても、まだじゅうぶんには分かっていないと考えているのが、最もよいことである。)
□
「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなす、これ知るなり。」(『論語』)
・「大道廃れて、仁義あり。智恵出でて、大偽あり。六親和せずして、孝慈あり。国家混乱して、貞臣あり。」
(すぐれた真実の「道」が衰えたから、仁愛と正義が強調される。こざかしい智恵が出てきたから、ひどい偽り・だましあいが起こる。家族が不和となったから、親孝行と親子の慈愛が叫ばれる。国が乱れてきたから、忠実な臣下があらわれる。)
・「天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。みな善の善たるを知るも、これ不善のみ。(中略)これをもって聖人は、無為の事におり、不言の教えを行う。」
(世界の人びとは、だれでも美しいものを美しいとわきまえているが、見方を変
えればそれらは醜いものとなる。同様にだれでも善いことを善いとしてわきま
えているが、見方を変えれば善くないこととなる。このように世間でいう善と
か美とかいうものは、みな確かな(絶対の)ものではないのだから、それにと
らわれるのはまちがっている。
(中略)
それゆえ優れた人は、そうした世俗の価値観にとらわれてあくせくすることの
ない「無為」の立場に身を置き、言葉をふりまわすことなく「不言」を実行す
る。)
□ 相対観[×絶対観]。文化相対主義。
無為:何もしないのではなく、永遠の時の流れに、自覚的に身を委ね
る積極性。
儒教[孔子『論語』]
・「故きを温めて、新しきを知る」
(過去の伝統をもう一度考え、新しい意味、新しい力・働きを知る。)
□「温故知新」
「知」:知識と智(知)恵
・「己に克ちて礼に復るを仁と為す」
(自己に打ち勝って礼の規則にたちかえることが仁である。)
□人と人の間[人間]をつなぐ礼〈礼儀〉
・「礼はこれ和を用うるを貴しとなす」
(礼を実現するには調和がたいせつである。)
・「己の欲せざるところを人に施すことなかれ。」
(自身にして欲しくないことは、人〈他人〉にしてはならない。)
□「恕」〈生きる上での根幹としての「思いやり・慈しみ・許す心」〉
「自身を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」
・「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」
(やり過ぎでも足らなさ過ぎでもよくない。大切なのは適度である。)
・「中庸の徳たる、それ至れるかな」
(中庸〈中道・いずれにもかたよらない考え方、生き方〉の徳こそが完全無欠である。)
・「人にして遠き慮りなければ、必ず近き憂いあり」
(未来への配慮がなければ、必ず間近なところで困ったことになる。)
□「深謀遠慮」
・「剛毅木訥は仁に近し」
(剛毅:意志が強いこと。木訥:飾り気がなく無口なこと。)
・「巧言令色、鮮いかな仁」
(巧言:言葉が巧みなこと。令色:豊かな表情。鮮い:少ない。)
・「小人の過つときは必ず文る」
(小人〈つまらない人物〉が過ちをすると、必ずと言っていいほどごまかす・
言い訳をする。)
□「過ちて改めざる、これを過ちという」
(間違いを犯して改めないことを過ちという。)
・「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」
(君子〈立派な人物〉は他人と心一つになるが、うわべだけの同調はしない、小人はうわべだけ同調するが、心一つになることはない。)
□「同情ほど愛情より遠いものはない。」
諸子百家
『墨子』
・「もし天下をして兼ねて相愛し、人を愛することその身を愛するがごとくならしめば、猶不孝の者あらんか。
(略)
天下兼ねて相愛すればすなわち治まり、相憎めばすなわち乱る。」
(もし世界中の人々が広く互いに愛し合い、我が身を愛するのと同じように他人を愛するようにさせたならば、それでも無礼者が出るであろうか。)
□ 「隣人愛」
「性善説」孟子
(「人の学ばずして能くするところの者は、その良能なり。
慮らずして知るところの者は、その良知なり。」
(人間が学問をしないのにできること、それを良能という。
人間が考えないで知ること、それを良知という。)
・「人を愛するは、普く人を愛するを待ちてしかる後、人を愛すと為す。人を愛さざるは、普く人を愛さざるを待たず。普く愛するに失うあれば、よりて人を愛さずと為す。」
(人を愛するというのは、すべての人を愛するということがあって、はじめて人を愛することになるのである。ところが、人を愛さないというほうは、すべての人を愛さないということではなくて、一部の人を愛さないというだけでも成り立つ。すべての人を愛することに少しでも欠けることがあれば、それでもう人を愛さないということになるのである。)
『荀子』
・「およそ人の善を為さんと欲する者は、性の悪なるがためなり。それ薄なるは厚からんと願い、悪きは美しからんと願い、狭なるは広からんと願い、貧なるは富まんと願い、賤なるは貴ならんと願い、いやしくも中になき者は必ず外に求む。
(略)
いやしくも中に有する者は必ず外に求めず。これをもってこれを観れば、人の善を為さんと欲する者は、性悪なるがためなり。人の性は、もとより礼儀なし。ゆえに勉学してこれを有たんことを求むるなり。」
(そもそも人が善いことしようと思うのは、生まれつきの性質が悪いからである。そもそも徳の少ないものは多くの徳を身につけたいと思うし、醜さを思うものは、美しさを求めようとするし、貧しいものは富を求めようとするし、身分の賤しいものは高貴な位にのぼりたいと思う。少なくとも自分の中にないものは、必ずそれを外に求める。(略)
少なくとも自分の中に持っているものは、決して外に求めない。このことからすると、人が善いことをしようと思うのは、生まれつきの性質が悪いものだからなのである。(このように考えて行くと)人の生まれつきの性質には、礼儀はそなわっていない。だから、学習し、努力して身につけようとするのである。)
・「もとより善く古を言う者は、必ず今に節あり。善く天を言う者は、必ず人に徴あり。」
(もともと古代のことを立派に語る者は、その話の内容が必ず現在のことに合っている。天のことを立派に語る者は、その話の内容が必ず人の行動や言動に関係している。)
□ 「温故知新」
「天網恢恢、疎にして漏らさず。(天道は厳正で、悪事を為した者は、遅かれ早かれ天罰を受ける。)」
・「古の学者は、己のためにし、今の学者は人のためにす。」
(昔の学者は、自分自身を立派にするために学んだが、今の学者は他人に見せび
らかし自分の栄達のために学ぶ。)