序章

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「東アジア」から思うこと或いは序として

(井嶋 悠)

 

世界は一つ!

何をもって一つとするか、でそれぞれの価値観、信条等から侃々諤々(かんかんがくがく)喧々囂々(けんけんごうごう)いろいろあるかとは思いますが、

これまで“性善説”でした私が、今“性悪説”に傾きつつありながらも、苦しみ・哀しみを抱える人(つまり自身を含めたすべての人)に対して、言葉(論理)ではなく心に憐憫(れんびん)慈悲(じひ)の涙をたたえているのが人、と信じていますのでこの言葉は世界共通の願いであると思います。

しかしほど遠いのが現実です。

日本の多くの若者を襲う無気力感。己が心を閉ざし思考放棄的な意味での「内向き」発想傾向。

そのことへの大人世代の懸念。

一方で、私も見聞きする感性鋭い若者が発する不安、恐怖の言葉とその説得力。

 

反・非・脱「原発」が、哀しみ、痛みの共有を原動力に、日本の在るべき姿を問う形で議論されています。しかし、それらの多くは日本の現状の暗部を覆い隠したままの議論ではないかと思えます。そして挙句の果てには一人一人への増税まで言い出しています。

そこに日本を、気概をもって主導してきた政官財学界の内省、自省が、ほとんど感じられません。あるのは自己絶対正当からの他者批判、責任回避、魂のない言葉の氾濫だけのように思えます。

日本の近現代史の関心を持つ或る若者の言葉。「『一つになろう日本』の感傷(センチメンタル)性が怖い。」

 

 



アジアは一つ!

以前、「国際化社会=欧米化社会にあってアジアの再考」といった趣旨のことを書いたら、それを見た旧知の中日英トリリンガルの優秀な中国人大学生から「アジア独立を目指しているのですか」と指摘されました。

もちろん(・・・・)驚愕と不信の響きをもって。青年の頭に「大東亜共栄圏」()ぎったのでしょうか。

その大東亜共栄圏構想に悪用された岡倉天心の偉大さ、豪快さを(うらや)み敬う私は、『茶の本』など共感共振の線引きで埋め尽くされています。

(以前、当時在日韓国朝鮮人の社会生活に関わる大きな仕事をしていた私の敬愛する在日韓国人が言った次の言葉は、今もって私の中で未整理のまま強く残っています。

 「大東亜共栄圏の考え方は、決して間違っていなかった。しかし日本は行動で間違いを犯した。」

 尚その人物は、1995年の阪神淡路大震災で自身被災しながらも在日韓国朝鮮人、外国人のために自身が拠って立つ地域で、人事を尽くしていたのですが心身疲弊し、今ひっそりと生きています。)

その天心の『東洋の理想』の「序文」に続く「理想の範囲」の冒頭が、「アジアは一つである。」です。

しかし、諸芸術への好奇心がありながらも行動が伴わず今もって造詣が乏しい一人として、またエキセントリックなナショナリストとは一線を画し、上(国家)からの愛国心鼓吹に振り回されるのではなく日本をこよなく愛する一人として(蛇足ながら、それぞれの国・地域にはそれぞれの美があるとの前提です)日々年々日本不信と不安が募り、そこから日本再考を試みている私は、天心のように声高らかに日本発から言えないもどかしさがあります。

私のようなジレンマを抱えている人はけっこう多いのではないでしょうか。

因みに「日韓・アジア教育文化センター」の()()原点は、1993年の韓国人日本語教師との出会いとそこからの日本の文化・風土再点検からのアジア再考であり、また日本の学校教育の現在への欧米の教育を価値基準としてではない疑問と内省であり、今回の「発話」もその思いを伝えたいがための分をわきまえない行為です。

 

『東洋の理想』の冒頭部分から少し引用します。

 ―アジアは一つである。

ヒマラヤ山脈は、二つの偉大な文明―孔子の共産主義をもつ中国文明と『ヴェーダ』の個人主義をもつインド文明を、ただきわだたせるためにのみ、分かっている。

しかし、雪をいただくこの障壁でさえも、究極と普遍をもとめるあの愛の広がりを一瞬といえどもさえぎることはできない。この愛こそは、アジアのすべての民族の共通の思想的遺産であり、彼らに世界のすべての大宗教をうみだすことを可能にさせ、また彼らを、地中海やバルト海の沿海諸民族―特殊的なものに執着し、人生の目的ではなく手段をさがしもとめることを好む民族―から区別しているものである。

(中略)

・・・この複雑性のなかの統一をとくに明確に実現することは、日本の偉大な特権であった。

(中略)

アジアの文化遺産を、その秘蔵品によって一貫して研究できるのは日本においてだけである。

(中略)

・・・日本はアジア文明の博物館になっている、いや、博物館以上のものである。―




東アジア
とは、ユーラシア大陸の東部にあたるアジア地域の一部を指す地理学的な名称であり、中国大陸朝鮮半島台湾列島、日本列島などを含む。北東アジア東北アジア極東などと呼ぶ場合もある。[『ウィキペディア』より]

 

さて、

東アジアは一つ!

「世界は一つ」「アジアは一つ」とは違った同胞感覚からの親近感も手伝っての一体感(甘え?)。と同時に、厳としてある不安感、不信感・・・。

一方で現実の生を見据えての東アジア経済共同体の存在と思惑。

 

新旧様々な価値観、国家観が交錯する中にあって、政治や経済に限らず広く社会生活への動機としてあるはずだ、時に意図的に忘れ去っているだけだ、と儒教と言えば封建的タテ関係、道教と言えばアナーキーなすね者といった印象が先行していることもあって、無意味(ナンセンス)!荒唐無稽!等々失笑嘲笑は承知していますが、

家庭論・社会論・国家論ではない“個の自律”のあり方を説く「哲学」、東アジアの“生”の思想、東アジアの(ひいてはアジアの、東洋の)心の基層を、日韓中の老若が一緒になって再点検し、共生への道筋を模索することはアジアに生を()けた一人として当然ではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。

 

このことが、「新・脱亜論」さえ思うマスコミが幅をきかす現代日本への、また東北大震災後問われ続けている日本論への示唆、処方になるのでは?と、

そしてその営みが、東アジア発の国際社会共生基盤の確かな一角になるのでは?と、

頑なに私は考えています。僭越ながら、韓国にとっても、中国にとっても・・・。

 

それに加えて、共通言語が日本語で、自然(・・)に、無意識(・・・)下に起こる国際化社会での日本人の自覚への多角的波及効果も。

牽強(けんきょう)付会(ふかい)そのままに、戦後、アジア派思考に大きな足跡を残した竹内好が言う「方法としてのアジア」といった言葉も思い起こします。

やはり無意味(ナンセンス)!荒唐無稽!なのでしょうか。

 

古人曰く、

(ふる)きを(あたた)めて、新しきを知る」(孔子)

「もとより善く(いにしえ)を言う者は、必ず今に節あり。善く天を言う者は、必ず人に(しるし)あり」(荀子)