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2023年8月9日

『老子を』読む(十九)最終

                          第76章~第81章

井嶋 悠

第76

 人の生まるるや柔弱、其の死するや堅強なり。万物草木生まるるや柔脆(じゅうぜい)、其の死するや枯槁(ここう)[干からび]なり。故に堅強なる者は死の徒にして、柔弱なる者は生の徒なり。・・・・強大なるは下に処(お)り、柔弱なるは上に処る。

◇教師は毎年生徒を送り出し、新しく迎える。教師は齢を重ねて行くだけである。優れた教師は、毎年新しい生徒を前に自問自答し、若い感性を取り込んで行く。

第77

 天の道は、余り有るを損じて、而して足らざるを補う。人の道は則ち然らず。足らざるを損じて、以って余り有るに奉ず。

◇学校での競争原理とは何か。知識の優れた者を善しとし、足りない者を不可[不善]ちすることなのか。多くは否と否定するであろうが、結果としての評価の根底に「試験」(テスト)がある限り、夢のまた夢か。

『推薦入試』の在りようを再考、再検討すべき時かもしれない。あまりに形骸化し過ぎている・・・・・。

第78

 天下水より柔弱なるは莫し。而も堅強を攻むる者、これに能く勝る莫し。

 弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざる莫きも、能く行なう莫し。・・・・正言は反するが若し。

◇学校が堅強になればなるほど魅力は下がる。何となれば、権威主義の傲慢がはびこり始めた証しだから。このことは「東大」を頂点とした世間知を見れば一目瞭然である。

第79

 大怨(たいえん)[深刻な怨み言]を和すれば、必ず余怨(よえん)有り。安(いずくん)んぞ以って善と為すべけんや。

 徳有る者は契を司り[割符の管理者]、は徹を司る。[税の取立人]。天道は親(しん)[えこひいき]無し、常に善人に与す。

◇人が、生徒が集まる所、常に対立、怨有り。善き学校、教師は生徒の「割符:その善き存在の証し」を持ち、承知し、己が私的えこひいき「親」なく司って行く。

第80

 小国寡民、什(じゅう)伯(はく)の[たくさんの]器(き)有るも而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而して遠く徒(移)らざらしめば、・・・・・甲兵有りと雖も、これを陳(つら)ぬる所[見せびらかす時]無からん。・・・・其の居に安んじ、

其の俗を楽しましめば、隣国相い望み、鶏犬の声相い聞こえゆるも、民は老死に至るまで、相い往来せざらん。

◇国内外の学校交流を奨励する学校は多い。己が欠けていることを知り、励みとするも、己が優位の意識を持てば、いかがばかりであろう。しかし、謙虚さがあれば、やはり交流は盛んであって然るべきだろうか。

「井の中なの蛙大海を知らず」と言うが「深窓の令息、令嬢」というのもある。

第81

 信言は美ならず[実のあることばは飾り気がない]、美言は信ならず。善なる者は博(ひろ)からず、博き者は知らず。

 聖人は積まず。尽(ことごと)く以って人の為にして、己は愈々(いよいよ)有り。尽くを以って人に与えて、己は愈々多し。

 天の道は、利して而して害せず、聖人の道は、為して而して争そわず。

◇有名無実の学校にいることほど虚しいものはない。怠惰な惰性でもなく、虚無の日々でもなく、心ひ一つに己が学校時間に在ることの幸いを実感したいものである。